知らぬ間に色々進むことがある
ぱさりと前に流れる髪が鬱陶しい。耳にかけてもまた落ちてくる。廊下の掃除の最中、通りかかる軍人さんの涼しげに刈り上げられた髪を恨めしげに見ているとおずおずと謝られた。いえいえ、こちらこそごめんなさい。

やっと胸に届く長さになってきた黒い髪。綺麗に切りそろえられて、禿みたいだと偶にからかわれる。犬飼さんは子供らしくて可愛い、と屈託無く褒めてくれた。これでも妃子と同じ二十一歳なんですけどね。
髪をまとめれば少しは大人びて見えるであろうこの顔だが、いかんせん髪をくくるのは苦手で下ろしたままにしている。そのせいで衛生上、調理の仕事は禁止になった。

「菫さん!」

パタパタと近づいてくる足音。掃除の手を止めて横を見れば、武田くんが満面の笑みでこちらに駆けてくる。顔にかすり傷、手首に打撲の痕。今日も派手に稽古を受けてきたらしい。

「お疲れ様、武田くん。今日も鷹峯さんと?」
「はい。今回は日本酒一升で手を打ってくれました。」
「それは……良心的、なのかな?」
「まだマシな方だと思います。」

鷹峯さんが武田くんに稽古をつける条件は、偶に酒を献上すること。どんな稽古も酒次第。この条件によって武田くんは稽古を受けることができるし、鷹峯さんには大好きな酒が手に入る。互いに利益ある取引だ。

少し疲れた笑みをこぼす武田くんのは頭を軽く撫でる。弱音も吐かずに蒼世たちの背中を追いかけて健気に頑張る姿は見ていて何か胸に込み上げるものがある。
それにしても背が伸びたな。見上げないと目が合わない。見上げられていたときが懐かしい。

「菫さん?」
「ああ、ごめん。大きくなったなぁって思って。」
「そりゃあ大きくもなりますよ。もう十六ですから。いつまでも子供扱いはやめてください。」
「そんなっ……じゃあこれから私はどうやって武田くんと接していけばいいの!?」
「隊長たちと接する感じでお願いします。」
「……努力する。そうだ、武田くんご飯食べた?」
「いえ、これからです。」
「じゃあ一緒に食べよう!今日はいい魚を仕入れたんだって。」

楽しみだねぇ、と笑えば武田くんのは瞳が輝いた。うんうん、武田くん、魚好きだものね。意気揚々と二人揃って食堂へ向かう。

武田くん。私に可愛がられるのが嫌ならまずきみがその後輩気質を直した方がいいと思うんだ。それにね、周りが越えるべき壁だらけなんだから甘やかす人が一人くらいいてもいいと思わない?

***

菫さんと出会ったのは、俺が八歳のとき。妹が立て篭もりの人質に捕まって、犲が動き出したすぐ後に、優しく笑うその人と出会った。

「大丈夫、きっとすぐ妹さんは帰ってくるよ。」

俺を宥める菫さんの笑みが、そのときの俺には酷く癪に触った。俺の気持ちなんてなにも知らないくせに、何をするわけでもないくせに、無責任に大丈夫なんて言うな、と。
その後、言葉どおり妹は無事に帰ってきた。なのに菫さんに腹が立って仕方なかった。犲の知り合いというだけで、無力なくせに国を護る番犬のそばにいる出しゃばり。そんな風に思っていた。

でも実際は誰よりも勇気と思いやりを持った優しい人だった。でなければ、俺を庇って傷ついたりしない。舞う黒、飛び散る赤。あの時ほど、自分の無力さを呪ったことはない。

今日も菫さんは鬱陶しそうに髪を耳にかける。昔と比べて短くなった髪。けれどあの時に比べれば伸びた髪。
妃子さんみたいに髪をまとめればきっと綺麗なのに、それをできなくしてしまったのは俺自身だ。
謝りたい、でもそれは自己満足でしかない。あの人は優しいから、俺が謝れば気に病んでしまう。

「菫さん!」

だから俺にできるのは、ただ強くなることだけだ。もうだれにも護られないくらい強く。

***

「この魚、美味しいですね。」
「うん、美味しい。ちょうど今が旬なんだって。」

黙々と焼き魚をほぐして口に運ぶ。ここの食堂は種類が多くて味も絶品。大満足しながらお腹を満たす。幸せそうに魚を食べる武田くん、可愛い。なんなの、最近の思春期真っ只中の男の子ってこんなに可愛いものなの?それとも武田くん限定?そういえば、妹ちゃんも素直でほんわかしてて可愛いんだよなぁ。

「武田くん、妹ちゃんは元気?」
「はい、病気もなく元気です。でもやっぱり生意気になってきましたね。反抗期です。」
「反抗期は成長してる証拠だよ。また会いたいなぁ。」
「また会いに行ってやってください。あいつもきっと喜びますから。」
「やった。じゃあそのときは武田くんも一緒に行こう。」

そうすれば両手に花。天国の完成だ。
幼い頃から二人を知っているからだろうか。武田兄妹が可愛くて仕方がない。特に妹ちゃんは、お姉さんと呼んでくれるから本当の妹のように可愛がってしまう。
以前、妹ちゃんといちゃいちゃしていた最中、偶々遭遇した蒼世。こちらへ真っ直ぐ向けられる視線は氷点下よりも低かった。やめろ、そんなゴミを見るような目で私を見るな。別に危ない性癖があるわけではない。そこに可愛いものがあれば素直に愛でてしまうだけなんだ。

思い出の中の蒼世に意味のない弁明をしていると、武田くんの目が忙しなく泳いでいるのが見えた。そういえば最近は外出に誘っても何かと理由をつけて断られてたな。反抗期か。

「ごめん、嫌なら嫌ってはっきり言ってね!大丈夫、武田くんだって年頃だもの。何を言われようと気にしないよ、私は。」
「いや違います、反抗期とかじゃないんで。誘ってもらえるのは嬉しいんです。前の飲み会だって、誘ってもらえて嬉しかったです。でも、俺を誘ったら後が怖いですよ。お互い。」
「なんで?」
「鷹峯さんが不機嫌になるじゃないですか。」

はて?なんでそこで鷹峯さんが出てくるのか。
以前飲み会に誘った際はかなり高圧的な声で諌められたが、今回は状況が違う。
時間は明るいうちに、妹ちゃんも連れて、武田くん自身も嬉しいと言っている。
何故、鷹峯さんが不機嫌になるの?可愛い部下を私に取られるのはそんなに嫌?でもそれなら不機嫌を向けられるのは私だけでいいはずだ。何故、武田くんにまで不機嫌になる必要があるのか。

眉をひそめて必死に考えていると「本気で分からないんですか?」と武田くんが困惑気味の声をあげた。
うん、お姉さんぜんぜん分からない。説明をお願いすれば、武田くんは目を見開いた。そんなに私が理由を知らないのは意外ですか。
武田くんがお茶を一口飲み、口を開く。さて、その口からはどんな言葉が出てくるのか。武田兄妹と買い物に行きたい気持ちは変わらないから、その説明はぶった切らせてもらうつもりだ。鷹峯さんが不機嫌になるから買い物を断念するなんて馬鹿らしいもの。

そのつもり、だった。とても短い説明が飛んでくるまでは。

「彼女が別の男と買い物になんて行ったら、そりゃあ不機嫌にもなりますよ。」

……なんて?
きっと今までにない間抜けな顔をしているのだろう。その顔のまま前へ乗り出すと、武田くんの身体が後ろへ退く。

「……かのじょ?かのじょってあの彼女?恋人の男女の女の方の名称で使われる、彼氏彼女のあの彼女のこと?」
「そ、そうですけど。」
「誰が?」
「菫さんが。」
「彼氏は誰?」
「た、鷹峯さんです。」

なるほど理解した。
私と鷹峯さんは恋仲で、彼女は私、彼氏は鷹峯さん。不機嫌になるのは彼女である私が男の武田くんと買い物に行くから。オーケー、理解したよ。その考えかたでいけば、飲み会に誘ったときのあの声は「佐々木はいい。が、なんで武田まで誘ってんだ。こいつも男だって分かってんのか、あぁ?」くらいの意味になってしまう。

……いやいやいや、ないないないない。
鷹峯さんと私が恋人って、そりゃないわ。犲の中でも一番、私のことを嫌っていた鷹峯さんが彼氏だなんて。よく私が鷹峯さんと出掛ける光景を見たどこぞの誰かが流した面白い噂だ。この軍の中ってあまり浮ついた面白い噂はないからね。

「大丈夫だよ、武田くん。それ、噂だから。」
「……え?」
「え?」
「いや、鷹峯さん……ちゃんと告白してましたよ、菫さんに。」
「は?」
「それで菫さんも、よろしくお願いしますって返してたじゃないですか。」

……え、いつ?どこで?どんな風に?
あいにく、そんな大切な会話忘れるほど馬鹿じゃないよ、私。しかし武田くんは人を困らせるような冗談や嘘を言わない。

でも、あの鷹峯さんが私の彼氏というのも考えられない。あんな大人の男性とちんちくりんの私、とても不似合いだ。鷹峯さんの歴代の彼女が私を見れば失笑するに違いない。
いつから禿なんか引き連れるようになったんだ、と。

「どうしよ、色々考えすぎて頭が」
「どうした、菫」

耳元から聞こえてきた低い声。反射的に横を見れば心配そうに覗き込んでくる鷹峯さんの顔がある。一瞬、心臓が止まったような気がしてヒュッと喉がなる。

今、私はどんな顔をしているのだろう。赤を通り越して青ざめているのだろうか。「具合が悪いなら休んだ方がいいぞ」鷹峯さんが眉をひそめて手を額に近づけてくる。体温を確認してくれようとするその手から逃げるように、素早く立ち上がる。椅子を引く音がやけに大きく聞こえた。

「ぁ、ぇと……し、失礼します!!」

それはもう脱兎の如く逃げた。
食堂中の人たちから視線を集め、鷹峯さんと武田くんの呼び止める声も無視し、全力で食堂から離れる。厨房から「食堂を走るな!」とお怒りの声を頂いた。

あ、食べ終わった後のおぼんを返すの忘れてた。しかしもうあの空間に戻る気にもなれないので、どこかの優しい後輩くんが自分のものを返すついでに私のおぼんも返却してくれていることを祈る。

まあ、とりあえず

「……っ、あぁあああああっ!!」

一旦立ち止まって、廊下の窓を開けて叫ぶ。
鷹峯さんと私が付き合っている?冗談ではなく?いつの間に?優しくなったのは私が彼女だったから!?優しくなったのって何年前だよ!!
この気持ちのやりどころが見つからない。結果、叫んだ。

とんだ近所迷惑だ。近所といってもこの敷地自体広いからお隣さんまでは聞こえてないだろうけど。ちょうど廊下を通りかかった蒼世に無言で頭を引っ叩かれた。スパァンッといい音が響く。たんこぶ出来たんじゃないかな。

その場に頭を抱えてうずくまりながらぐるぐると思考は巡る。

(へるぷみぃー。誰か愚かな私めに真相を教えて)