春がわらう

ここに来るまで、ずっと悩み続けた。おまえをこちら側に引き込んでもいいのか。答えは未だ出ない。寧ろ、桜子を目の前にしてその悩みは深くなった。
彼女は裏の人間から見れば特上の金儲けの道具になる。今までは軍の中で生活していたおかげでそこまで話も広まらなかったんだろうが、人の出入りが活発になった近江で暮らし始めたせいで少しずつ、着々と裏の人間に彼女の存在が知れ渡ってしまった。
桜子も子供も、表で平穏に生きるのは不可能に等しい。俺が連れていった方が安全なのは分かっているのに……何故、まだ決心がつかない。



白子が足を運んだのは、桜子が予想していたとおりの場所だった。
逢瀬の場所、桜の木の下。桜は散り、すっかり新緑に覆われた木は日差しを浴びて鮮やかに輝く。地面は湿った空気の影響で濡れていた。
丁寧に桜子を下ろした白子は、桜の木を仰ぐ。

「桜は、流石にもう散ったか」

ぼそりと白子が呟く。抑揚のない声だったが、桜子には少し残念がっているように聞こえた。以前の白子なら「桜、見れなくて残念だな」と分かりやすく感情を表に出すのだろうが、今の白子は笑わない。思っていることを素直に口に出さない。

これが風魔小太郎なのか、と桜子はじっと男を見つめる。木を見上げていた白子も、視線に気付いたらしい。光が反射して光る紫の目が、微笑む女を映し出す。

「もう、梅雨ですから」
「そうだな……おまえと別れて、もう一年以上経つ」
「……びっくりしました?子供」
「ああ、とても。一清、だったか。俺があいつらを縛り上げるとき、ずっと笑っていた。肝の座った子だな」
「いつもは初対面の人に抱かれたら大泣きするんですけど……白子さんの着物でよく遊んでたから何となく、お父さんだって分かったんですかね。
それにしても、疑わないんですね。自分の子じゃないって」

よだれを垂らして眠る一清を振り返って見た白子の目元が、ふと柔らかくなる。

「亡くなった、双子の弟にそっくりだからな。弟に似てるなら、俺にも似ているんだろう。それに自惚れかもしれないが、桜子が俺を忘れてすぐ別の男と付き合うとは思ってなかったから」
「酷い人。それを分かってて置いていくなんて」
「すまない」

ばつが悪そうに俯く白子。それに対して、桜子は小さく息を吐いた。もの鬱げに、瞼を伏せる。

「いえ。謝るのは、私の方です。私の独断で子供を産んだことも、あなたが思っているような女じゃなかったことも、未練がましくあなたを想い続けたことも……ごめんなさい」
「……さっきも言ったが、幻滅はしていない。ただ、桜子が人を殺そうとしたのは、驚いた」
「そう、ですよね」
「おまえは俺にとって春のような存在だったから、憎しみなんて感情を持っているとは思ってもみなかった。俺のことも、すぐではなくてもいつか思い出にしてくれると思っていた……でも、そうか。悲しみも、憎しみも、未練も、おまえの中にあったんだな」

春、桜、桜の神様。
人は、普通とは違う色を持ち、穏やかに笑う桜子を見ると口々にそう言った。桜子を争いや醜さとは程遠いところにいる何かだと思っている。

彼女が消えてもすぐに気付けないのはその浮世離れした外見故。桜子が危険とは程遠い存在であると脳が勝手に決めつけてしまうからだ。
だから意識していてもいつの間にか忘れてしまう。保護対象に入れても、他に護るべきものや大切なものができたとき、彼女の存在は知らずの間に薄くなる。
桜子を一際大切に想っている白子も例外ではない。彼女が自分と同じ人間であると認識できていなかった。

「桜子が人間だってこと、やっと思い出したよ。あれだけの時を一緒に過ごして、結局俺はおまえのことを何も知らなかった」

桜子は目を丸くする。

「あなたも、私を桜の神様だとでも思ってたんですか?」
「ああ。おまえがあまりにも綺麗すぎて、俺と同じ人間だとは思えなかった。内面に踏み込もうとも思わなかった。
俺は、そんな薄情な男だよ」
「薄情な人がわざわざ戻ってきて私たちを助けてくれるものですか。……それに、私だってあなたのことを何も知らない」

白子が風魔の長だったことも、双子の弟がいたことも、過去に何があったのかも。桜子は何も知らない。だが、彼女は笑った。

「でも、愛してくれたことは分かるんです。金城白子も、あなたも、私を愛してくれた。それだけで、私は一生分の愛をあなたに捧げられる。
それでもまだ、不安ですか?」
「え?」
「だって、中々本題に入ろうとしないから。何をそんなに不安がっているんです?」
「……敵わないな」

表情は読まれないようにしていたのに、と言いながら白子は静かにため息をつく。
彼がしたい話とは、するべき話とは、謝ることではない。本当にすべき話は過去ではなくこれからの事だ。謝りたかったことを謝り、自身に関する白子の心情も聞いた。しかしまだ本題に入らない白子に、桜子は小首を傾げた。
白子の表情は涼やかで何も変わらないが、会話の内容からして何かを不安に思っていることだけは悟ることができた。

「俺がおまえに聞きたいことは、これから俺についてくるかどうかについてだ。でも、その様子を見ると聞くまでもないことはすぐに分かる」
「ついていくの一択ですね」
「そうだろうな。だが、俺の決心がまだつかない」
「それは、私たちを連れていくかどうかの?」
「ああ、おかしいだろ?俺が連れていった方が桜子と一清が安全なのは分かっているのに」

今回は白子が駆けつけたから無事だったものの、次に同じことがあれば助かるとは言い切れない。空丸たちも犲も忙しいので、桜子を基盤とした生活は出来ないのだ。しかし、それとは関係なく犯罪者は彼女たちを付け狙う。今までと同じように近江で暮らすとなれば、桜子も一清も平穏な生活は望めない。
となれば、白子が桜子たちを連れてゆくのが一番安全だ。正体を隠しながら旅をし、里を作るのに良い地を探す旅。どこの誰とも分からぬ連中の中ではなく、風魔一族に囲まれて暮らす生活の方が桜子たちの為だと言える。

それを分かっていながら、何を迷っているのか。白子自身でさえ、その不安の正体が掴めずにいる。己の考えを整理しようと、白子はポツリポツリと言葉をこぼす。

「本当は、二度と桜子の前に姿を現す気はなかった」
「それは、何故」
「その方が、苦労をかけないで済むからだ。俺についてきたら、きっと苦労する。着るものは何とでもなるが、食料や寝床はろくに用意できない。そもそも、忍の俺たちの中に一般人……それも、赤子連れの女が混じれば輪を乱す可能性があった」
「あった?」
「……俺が知らない間に、一族は桜子たちを歓迎する雰囲気になっていた。日頃の行いが良い結果だな」

いったい何があったんだ。心の中で突っ込みはしたものの、黙っておいた。白子の瞳に疲れを見たからだ。
私、何かしたっけ?思い返しても風魔に恩を売った覚えは一度もない。

「でも、それで一族に対する不安はなくなったわけですよね。他には、何が?」
「おまえは何も思わないのか?これから苦労をかけると言っているのに。おまえだけじゃない、一清にも辛い思いをさせる」
「私は構いませんが、一清のことを言われると痛いですね」

何も知らずに眠る赤子。優しいお兄さんやお姉さんがいて、暖かい寝床もある何不自由ない生活。桜子が白子についていけば、一清からその暖かい生活を奪うことになってしまうのではないか。
意思を伝える術を持たない赤子。今、何を言っても桜子の都合のいい言葉にしかならない気がしたのだ。

「……とりあえず、抱いてもらえるか。俺の背中じゃ、寝心地が悪いだろうから」

白子はしゃがみこんで、抱っこ紐を解く。確かに、母の胸に比べて硬い背中では寝心地が悪かろう。桜子は白子の背後に回り込んで、ゆっくり一清を抱こうとした。しかし中々抱くことが出来ない。「あら?」桜子が声をもらす。

「ふふっ、寝心地、良いみたいですよ」

広い背中にはべったりとよだれがついている。子供らしからぬ握力で、がっしりと白子の着物を掴んでいる様は「離れたくない」と言っているようにもみえた。
何が起こっているのか確認しようとした白子が振り向くより早く、桜子は一清ごと白子に抱きついた。抱きついた、というよりは一清を挟んで白子の首に手を回しただけだが。体重を乗せず、ふわりと抱きつくと、彼女は小さく声を発する。

「私が、この子を護ります。身も心も、全て。空丸くんたちと離してしまうのは心苦しいけど、寂しさなんて感じないくらいの愛を注ぎます。
だから、お願いです。連れて行ってください」

懇願するような声。暫く沈黙が続き、桜子の手に大きな手が添えられる。

「俺についてくるなら二度と、こちら側には戻ってこれない」
「それでも、あなたの側にいたい」
「……本当に、俺なんかでいいのか?」
「あなたがいい。あなたじゃなきゃ、駄目なんです」

ああ、そうか。白子は目を瞑って、不安の正体を噛み締めた。

決心を鈍らせていたのは不安ではなく、恐れだった。桜子たちをこちら側に引き込むことが不安だったんじゃない。
この二人が俺の横にいてくれる。諦めて一度は手放した未来が、手に入ってしまう。幸せになってしまうのが、怖かった。
今まで沢山の命を犠牲にしてきた俺が、幸せになってもいいのだろうか。弟は、一族の為に死んだ。ならば俺も、一族の為だけに生きて死ぬべきなのに……でも、もう離してやれそうにないんだ。
不甲斐ない兄で済まない。一度だけ、我儘を許してほしい。俺も一族の為に死ぬから、だから

「……一緒に、来てくれないか」

だから、愛しい人を側に置くことを、許してほしい。

「幸せにするとは言えない。苦労を沢山かけるだろう。俺にできるのは、この先何があっても桜子たちを愛し続けることくらいだ」

力強く握られた手。桜子は息を呑んだ。

「それでもいいなら……俺の、妻になってくれ」

顔は見えない。ただ、白子の耳が赤く染まっているのを見て、桜子は言葉を失った。黙り込んでしまった桜子を見る為、後ろをちらりと見るとギョッとした。宝石のように輝く桜子の瞳から、ポタリと涙が零れ落ちたから。
一清が背中から落ちぬように片手で支え、白子は動揺しながら素早く立ち上がる。空いた右手で桜子の濡れた頬を拭う。

「……なまえ」

すんっと鼻を鳴らして一言。
はい、でも、いいえ、でもない言葉に白子は固まった。ぼろぼろと涙を零しながら桜子はキッと白子を見上げる。

「え」
「教えてください、名前。まさか風魔小太郎が本名ではないでしょう」
「ああ、それは代々の頭目が名乗る名だ。
……親につけてもらった名は、壱助」

壱助。未だ涙を流しながら桜子は何度も名前を口にする。その度、彼の胸が疼いた。
名を呼んでもらうなど、いつぶりだろうか。

「壱助さん」
「っ、何だ?」

瞬間、壱助の胸に桜子が飛び込んでくる。互いの心臓が壊れそうなほど高鳴った。白子の胸に手を添えて、桜子が上を向く。
涙は止まらないまま、花がほころぶように彼女は笑った。

「不束者ですが、末永くよろしくお願いします……っ!」
「ああ。こちらこそ、末永くよろしく」


春が笑う。

桜の花びらを彷彿させる薄紅色の着物が脳裏に焼き付く。
豪快に笑わずとも目元を緩め、微かに口角を上げた笑みは冷たい心を暖め続けた。
結局俺は彼女を手離せず、近江の地から春を攫った。二度と離れないよう、その細くて白い手をしっかり握って。

夏が迫る、梅雨の出来事。

「愛してるよ、桜子」

その後。
彼女の生涯でその暖かな笑顔が曇ることは一度もなく、愛する男の側で春は笑い続けた。

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