刺せない心臓

桜子は駆けた。
いつもの佇まいからは感じさせぬほどの緊迫した空気を纏い、走るには邪魔であろう着物の裾をものともせずに山を駆ける。
駆ける、というよりは、跳ねる、の方が近いかもしれない。
足場の悪い斜面の山。ぬかるんでいる地面もあれば、岩が出っ張った場所もある。桜子はあえて岩に足を掛け、そこで跳ねることによって前に進んだ。次も、その勢いを利用して目をつけた地面に足をつける。リズムよく軽快に斜面を登ってゆけば、目当ての人物にはすぐ追いついた。

「一清!!」
「チッ、もう来やがった」

前方には二人組の男。中年の男と、年若い男だ。一清は中年の男に乱雑に抱かれ、未だ号泣を続けている。耳元での号泣、さぞ煩いことだろう。妙に身なりの良い中年の男の顔は忌々しげに歪められていた。
対して、簡素な着流しを着た年若い男は涼しげな顔で桜子を見た。細い目が更に細められる。

「どうする」

年若い男が尋ねる。主犯らしき中年の男は息も絶え絶えに答えた。
汗を身体中から流しながら、人の悪い笑みを浮かべて。

「ガキを連れて先に行け。予定は狂ったが、女もここで捕まえる」
「分かった」

一清が、年若い男の手に渡るのを見て桜子は血の気が引いた。中年の男はこの山を登るのが精一杯といった様子だったが、年若い男は汗ひとつかいていない。
つまり、まだ体力に余裕があるのだろう。一清がどこまで連れ去られてしまうのか、それを考えただけで気が狂ってしまいそうだった。

「やめて!連れて行かないでっ!」
「それはできねえ相談だなぁ……にしても、いい女だ。気丈に振る舞う女より、懇願してくる女の方がずっと可愛げがある」
「……気丈?」
「お前、あの女の娘だろ?」

男の声と言葉が、桜子の脳内でぐるぐる巡る。野太くて、掠れた、耳につく声。

幼い頃の記憶が蘇る。
真っ暗な押入れ、息苦しい布団の中。襖に開いた小さな穴から、声を押し殺して見ていた。痩せた男が癇癪を起こしながら、父を何度も刺す様を。
泣きながらその音を聞いていた。母の首に何度も何度も何度も何度も刀を振り落とす音を。「金持ちになれる」と、高笑いしながら母の首を持ち去った男の声を。
確かに、中年の男の声は親の仇によく似ていた。というよりは同一人物なのだろう。

しかし、桜子の記憶では家族を殺した男の姿は痩せていて、この小太りの中年と姿を照らし合わせるにはかなりの時間を要した。

「おい、どうした。早く連れていけ」
「……ああ」
「あ、う〜かぁ」

赤子の声が桜子の意識を引き戻した。
やはり年若い男の動きは速い。桜子から一清が遠ざかってゆく。男に抱かれる我が子に何か違和感を覚えたが、それを理解するだけの冷静さは彼女の中に残っていない。

一清を取り戻そうと、咄嗟に足が動く。しかし前には中年の男が立ち塞がる。桜子はいつもの穏やかな姿からは想像できぬほどに殺気を醸し出し、親の仇である男を睨みつけた。

「お〜怖。お前の母親もそうだったよ。泣きも、命乞いもしねぇ気に食わねえ女だった。まぁ、あの女のおかげで裕福な生活はできてるけどな」
「……一清も、殺すの?」
「あ?そりゃ、すぐには殺さねぇよ。あんなガキ売ったところでたいした額になりゃしねぇ……ああ、でもガキ好きにはたまらねぇだろうなぁ。もう少し育てて生きたまま売るのもアリだな。どの道死ぬだろうけどよ!」
「下衆が」
「ああ?なんだって?家畜が何言っても聞こえねえなぁ!」

家畜。
人間が生活に役立てる為に飼育する動物の事。
その言葉に反論できず、桜子は手のひらに爪が食い込むほど手を強く握る。古くからの友人達、曇神社での第二の家族、曇神社周辺の人間たち、そして唯一無二の恋人と我が子……それ以外は警戒すべき敵だった。それ以外の人間が、いつ刃を向けてくるか分からなかったから。関わりの深くない人間にとって、桜子は金になる存在でしかないのだ。

その事をよく理解し、桜子はよく自分の立場をわきまえていた。自分はいつ遊びのように命を奪われても可笑しくない人間だ、と。だからこそ、その対処法を身につけた。

「……」

素早く男の懐に潜り込み、足を払う。その太った身体がぐらつき、受け身もとらず盛大に背中から倒れ込んだ。本来ならばここで逃げ、誰かに助けを求めるべきなのだが、今回だけは違った。
桜子は男の腹に馬乗りになり、片手で頭を押さえつける。帯の中から短刀を取り出し、男の目前に突き付けた。

「なんだ、殺すか?家畜風情が、俺を?」
「……ずっと、この日を待ちわびていた。母さんと父さんを殺した化け物を、この手で殺せる日を……なのに」

今でも鮮明に思い出せるあの惨状。遊びのように私の大切な人を奪っていった。許せるものか、許すものか。この切っ先を、心の臓に突き刺せば、私の復讐は終わる。終わるのに……。

手が震える。桜子の瞳から涙が溢れて、刀を持つ手を濡らした。

「なのにどうして……っ!どうして殺せないのっ!?」

この日の為に生きてきた、こいつを殺すためだけに生きてきた……のに、彼と息子の顔が脳裏に浮かんで邪魔をする。

人殺しがあの子の母になるのか。
人殺しをあの人は愛すのか。
それを思うと、恐ろしくて刀を振り下ろせなかった。
悔しくて、情けなくて、両親に申し訳なくて、涙が止まらない。

顔を歪める桜子を見上げる男は、ニタリと笑う。こうなる事を予期していたのだろう、だから刀を向けられても余裕の笑みを浮かべていた。

「お前みたいな甘い顔の女に人が殺せるわけねぇだろ。そういや、お前の親父も似たような顔してたなぁ」
「お、とぅさん?」
「背後から斬りかかったら血相変えてよ。家じゃなく森まで走ろうとしやがった。間抜けな野郎だったぜ?お前の親父」

父親は、瀕死の状態で男に引き摺られて家に帰ってきた。何故、家ではなく森に走ろうとしたのか。桜子にはすぐに分かった。
敵が自分についてくることに確信を持って、家から離れることで私たちを逃がすための時間をかせごうとしたのだろう。もし余裕があるなら、曇神社に助けを求めようともした。
その父親も、無残に殺された。死してもなお、何回も何回も斬られ続けて。

「ッ!」

血が、沸騰したように熱くなる。
気付けば、男の片目から赤が吹き出していた。ビチャリと桜子の頬に生暖かいものがかかる。男の野太い悲鳴が、森にこだました。

「さ、刺しやがったっ!このアマっ!」
「もう黙れ」

左目から刀を引き抜き、頭上に掲げる。次は喉に狙いを定めた。その煩い声も出せなくしてやる、と。身体の下で男が命乞いしても、耳を貸そうとしない。
そうしてなんの躊躇もなく、再度短刀が振り下ろされた。

「……あれ」
「ッヒィッ……ん?」

桜子の手元に刀はない。男の喉にも刺さっていない。ゆっくり後ろを振り向く。
そこには、山奥に消えたはずの年若い男が立っていた。その背には抱っこ紐で一清が背負われている。身体を冷やさぬようにとの気遣いだろうか、一清には羽織が巻かれていた。人攫いが赤子に対して何故、親切な対応をするのか不思議に思い、桜子は微かに眉をひそめる。

桜子が持っていたはずの刀は、その男の手の内にあった。馬乗りされた男、馬乗りした女。この両者を年若い男は感情の分からぬ糸目でじっと眺める。

「よ、よくやった!他の奴らも呼んできたのか!?」
「ああ、すぐそこにいる」
「……他?」
「俺とこいつの二人で来たと思ったのか?馬鹿め、こいつを入れて十人だ!おい、さっさとこいつを退けろ!」

片目を押さえた男は叫ぶ。よく目を刺されてそこまで元気でいられるものだ、と感心すると同時に桜子はせめて一清だけでも助かる道を探した。
相手は十人。とても女一人で逃げ切れる人数ではない。一清もまだ敵の手の中だ、それも一番手強そうな男が背負っている。既に一清すら逃げられる状況ではない。後悔が桜子を襲う。

何故、家でずっと一清についていなかったのか。
何故、もっと早く追いつけなかったのか。
何故、私の代わりに息子を助けてくれと懇願しなかったのか。
何故、何故、何故、何故。

「ごめん……っごめんね、一清。お母さんと一緒の髪色に産んでしまって、ごめんね。普通に産んであげられなくて、ごめんね……っ」

後悔しても仕方ないと分かっていながら、悔やむのをやめられない。桜子は初めて、誇りに思っていた髪を否定した。母と同じ髪の色、両親に褒めてもらった真珠のような髪。それを否定した。

「こんな事なら……もっと早くに死ねばよかった」

温かい人たちに出会う前。両親が死んだその時に。
両親の仇も討てず、我が子も助けられず……ああ、消えてしまいたい。

涙を流す桜子に、年若い男の手が伸びる。髪を掴まれるのだろうか、蹴飛ばされるのだろうか。身構えもせず、ただ痛みが与えられるのを待った。

「かっ、しゃ!とぉ!」
「……とぉ?」

どこにも、痛みはない。かわりに桜子を襲ったのは浮遊感だ。ふとももの裏に手を回され、片手で丁寧に抱き上げられた。
その様を見て、男は激怒する。

「だれが丁寧に抱き上げろと命令したっ!蹴り飛ばすなり髪を掴んで引っ張りあげるなりして退かせ!!」
「そうか、なら望み通りに」
「ヒッちが、俺じゃなっ」

年若い男の声音が、耳馴染みのよい聞きなれた声に変わる。しかし優しいものではなく、底冷えするような気迫がある。怒りだ。とても静かで、冷たい怒り。
桜子に向けられたものではないのに、男の腕の中で思わず身を固くする。とてもじゃないが顔なんて見れたものではない。

瞬間、ゴッと固いものがぶつかり合うような音が響く。抱かれる腕に衝撃は殆どなく、何が起こったのか、すぐには理解できなかった。
桜子たちが立っている場所からかなり離れた位置。岩と頭が接触した状態で、微動だにしない親の仇がいた。

「桜子が世話になった礼だ。よくもここまで傷付けてくれたな」

蹴飛ばした?あんなに強く、足の力だけで?え、死んだ?
シンと静かになった空間で、一清の楽しそうな笑い声だけが響いていた。

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