闇は既に近く
「桜子様!空丸様!」
「大変っス!一清が、一清がぁああ!!」
桜子の部屋(元、白子の部屋)から宙太郎はともかく、錦まで足音を立ててて土間へ転がり込んできたものだから、夕飯を作っていた二人は何事かと目を丸くした。
母親である桜子の顔はみるみるうちに青ざめてゆく。錦と宙太郎が遊んでいてくれたから誘拐や誤飲はないだろう。
ではそんなに取り乱しているのは何故か。まさか病気?さっきまで元気だったのに?しかし赤子の体調は崩れやすい。何があっても不思議ではない。
空丸と顔を見合わせた桜子。心配性の空丸の顔も多少青ざめていたが、一先ず両手を台に乗せる。彼女と彼は持っていた調理機具を台に置いた。
「二人とも、青ざめてる場合じゃないっスよ!」
「そうです!大事件です!」
宙太郎は桜子の、錦は空丸の手を引っ張って、廊下を駆けていく。
初めはもつれ足気味だった二人の足も次第に動くようになってきて、一清のいる部屋に飛び込んだのは四人同時だった。
「一清!」
桜子の心臓がドッドっと跳ねる。
しかしそこで目にしたものは想像していたようなものではなく、思わず口を押さえてしまう程嬉しいものだった。
「あ〜、かぁ!」
部屋の中央には布団が敷いてある。いつもならば一清はその中心に寝転んでいて、きゃあきゃあと遊ぶのだ。因みに、最近は宙太郎のいないいないばあがお気に入りらしい。それはさて置き、いま一清はその布団の中心からずれて、出入り口寄りにいる。今正に接近中。
四つん這いになり、小さな両手で体を支え、まぁるいお尻を揺らして畳を這っている。いわゆる這い這いというやつだ。
「いつもどおり、寝返りをうっていらっしゃったんです。そうしたらいつの間にか這い這いを。」
「凄いな。この前まで寝返りがやっとだったのに。」
「一清は凄いんスよ!……あれ、桜子姉?」
口元を押さえたまま、桜子は感涙した。
我が子が可愛いすぎて辛い。一清を取り囲む空気が輝いてみえる。
一清が産まれて約半年を過ぎる頃、桜子も既に立派な親バカ入りを果たしていた。
「やだもう、かわいい、つらい」
「桜子姉、またごいりょく?落ちてるっスよ。」
「かぁ」
「なぁに?」
「にー」
「どうした?一清。」
「どうしたんスかぁ?お兄ちゃんはここっスよー。」
「私も、ここにいますよ。」
四人で一清を取り囲むようにしゃがみ込む。全員、顔は緩みっぱなしだ。その顔につられたのか、一清の顔もへにゃりと緩む。そのまま這い這いを続け、一清はやっとのこと、桜子の膝の上までたどり着いた。そのまま膝の上でよく分からない喃語を発した後、何かの糸が切れたかのように眠りこけてしまう。
眉を下げてフニャリと笑いながら寝る様は、父親の笑った顔によく似ていた。
「こうして見ると白兄にそっくりっスね。」
「ええ。きっとあの方のように、優しく成長なさいますよ。」
「そうだな。名前のとおり、成長してくれればいいですね、桜子さん。」
「うん……けど今は、健やかに育ってくれるだけで十分かな。」
これからの人生、辛いことも悲しいことも沢山ある。けれどそんな世の中に負けないで、一つの清い心を持って生きてゆけますように。心が闇に侵されなければ、道を間違えたってきっと、やり直すことはできるから。
そんな意味を込めての名だが、今はただ健やかに育ってくれればいい。小さな背を撫でながら、桜子は微笑んだ。
「じゃあ俺、調理の続きしてきます……錦、手伝ってくれるか?」
「はい。お任せください。」
食材は切った、あとは煮込むだけ。
錦にとっては煮込みからが学ぶべきところだ。まずは魚介を入れないところから始めなければならないのだが、彼女は頑なに魚介を入れようとする。風魔の食生活はどうなっていたのだろう。宙太郎が泣きだしそうな顔をして二人の後ろ姿を見送っている。桜子は遠い目をして一清を布団へ運んだ。
練習をしないことには上達しない。これも将来、錦が美味しい料理を作るための修行である。耐えよう。
「泣かないで、宙太郎くん。ただ料理に生きた魚介が入っているだけ。ボコボコとかビチビチ聞こえるけど、毒ではないよ。厠の争奪戦にはなるけれど。」
「っ、あい。」
ヒシッと抱きついてくる宙太郎を桜子は優しく抱きとめた。そうしている間にも土間から空丸の悲鳴は聞こえてくる。やはり今日も魚介入りは免れなかったか。
「お、おいら、やっぱり見てくるっス!」
「行ってらっしゃい。」
手遅れだと思うけど。その言葉は胸の内にそっとしまった。
カタリと音のした天井。上を向けば微かにできた隙間、そこから見覚えのある面がジッと桜子を見下ろしている。目があえば、逃げることもせず面を被った人物は音もなく畳の上へ降りてきた。
「ここはいつも賑やかネ。」
「いらっしゃい屍さん。いつからそこに?」
「一清が這い這いをしたあたりヨ。いつの間にか大きくなった。子供の成長は早いネ。」
「ええ、本当に。」
「けれど、喜んでばかりはいられない。どうして人というものは、欲を持つのカ。」
分かりにくいが落とされる肩。ほんの少し、桜子の瞳から光が消えた。知らずのうちに手に力がこもる。
天火が旅に出てから蒼世たちの姿が見えないことを気にかけていないわけではなかった。きっとまた政府関連で何かあったのだろう、それを察してあえて桜子は関わりを断った。だというのに、屍がわざわざ空丸たちの目を避けてまで桜子の前に現れた理由とは。
答えは簡単。桜子にのみ、緊急で伝えなければならないことがあったからだ。
「裏で、アノ話が広まっている。なるべく、曇家から出ないようにと、隊長からの言伝ヨ。」
「……やはり、私たちは穏やかには暮らせませんか。」
「非があるのは奴等。桜子が気を落とす必要はない。けれど隊長たちも忙しい、天火もいない、いざとなれば……。」
「分かりました。お忙しい中、ありがとうございます。」
「桜子。」
「はい。」
「これはワタシ個人の意見ネ。急所以外なら、刺しても問題ない。隊長たちも、そう思ってるはずヨ。」
国を護る番犬が言ってもいい言葉なのか。桜子が返答に迷っている間、屍は庭の塀を越えて去っていってしまう。
桜子は眠り続ける赤子の頬をすぅと撫ぜる。愛しい我が子を映すその瞳には、似つかわしくない悲しみと闇が混在していた。
「お母さんが、護るから。」
全ての悪意から、護るから。
この命捨ててでも、この手を汚しても、きっと護る。お母さん、お父さん、今なら二人が私を護ってくれたときの気持ちがよく分かるよ。
「大変っス!一清が、一清がぁああ!!」
桜子の部屋(元、白子の部屋)から宙太郎はともかく、錦まで足音を立ててて土間へ転がり込んできたものだから、夕飯を作っていた二人は何事かと目を丸くした。
母親である桜子の顔はみるみるうちに青ざめてゆく。錦と宙太郎が遊んでいてくれたから誘拐や誤飲はないだろう。
ではそんなに取り乱しているのは何故か。まさか病気?さっきまで元気だったのに?しかし赤子の体調は崩れやすい。何があっても不思議ではない。
空丸と顔を見合わせた桜子。心配性の空丸の顔も多少青ざめていたが、一先ず両手を台に乗せる。彼女と彼は持っていた調理機具を台に置いた。
「二人とも、青ざめてる場合じゃないっスよ!」
「そうです!大事件です!」
宙太郎は桜子の、錦は空丸の手を引っ張って、廊下を駆けていく。
初めはもつれ足気味だった二人の足も次第に動くようになってきて、一清のいる部屋に飛び込んだのは四人同時だった。
「一清!」
桜子の心臓がドッドっと跳ねる。
しかしそこで目にしたものは想像していたようなものではなく、思わず口を押さえてしまう程嬉しいものだった。
「あ〜、かぁ!」
部屋の中央には布団が敷いてある。いつもならば一清はその中心に寝転んでいて、きゃあきゃあと遊ぶのだ。因みに、最近は宙太郎のいないいないばあがお気に入りらしい。それはさて置き、いま一清はその布団の中心からずれて、出入り口寄りにいる。今正に接近中。
四つん這いになり、小さな両手で体を支え、まぁるいお尻を揺らして畳を這っている。いわゆる這い這いというやつだ。
「いつもどおり、寝返りをうっていらっしゃったんです。そうしたらいつの間にか這い這いを。」
「凄いな。この前まで寝返りがやっとだったのに。」
「一清は凄いんスよ!……あれ、桜子姉?」
口元を押さえたまま、桜子は感涙した。
我が子が可愛いすぎて辛い。一清を取り囲む空気が輝いてみえる。
一清が産まれて約半年を過ぎる頃、桜子も既に立派な親バカ入りを果たしていた。
「やだもう、かわいい、つらい」
「桜子姉、またごいりょく?落ちてるっスよ。」
「かぁ」
「なぁに?」
「にー」
「どうした?一清。」
「どうしたんスかぁ?お兄ちゃんはここっスよー。」
「私も、ここにいますよ。」
四人で一清を取り囲むようにしゃがみ込む。全員、顔は緩みっぱなしだ。その顔につられたのか、一清の顔もへにゃりと緩む。そのまま這い這いを続け、一清はやっとのこと、桜子の膝の上までたどり着いた。そのまま膝の上でよく分からない喃語を発した後、何かの糸が切れたかのように眠りこけてしまう。
眉を下げてフニャリと笑いながら寝る様は、父親の笑った顔によく似ていた。
「こうして見ると白兄にそっくりっスね。」
「ええ。きっとあの方のように、優しく成長なさいますよ。」
「そうだな。名前のとおり、成長してくれればいいですね、桜子さん。」
「うん……けど今は、健やかに育ってくれるだけで十分かな。」
これからの人生、辛いことも悲しいことも沢山ある。けれどそんな世の中に負けないで、一つの清い心を持って生きてゆけますように。心が闇に侵されなければ、道を間違えたってきっと、やり直すことはできるから。
そんな意味を込めての名だが、今はただ健やかに育ってくれればいい。小さな背を撫でながら、桜子は微笑んだ。
「じゃあ俺、調理の続きしてきます……錦、手伝ってくれるか?」
「はい。お任せください。」
食材は切った、あとは煮込むだけ。
錦にとっては煮込みからが学ぶべきところだ。まずは魚介を入れないところから始めなければならないのだが、彼女は頑なに魚介を入れようとする。風魔の食生活はどうなっていたのだろう。宙太郎が泣きだしそうな顔をして二人の後ろ姿を見送っている。桜子は遠い目をして一清を布団へ運んだ。
練習をしないことには上達しない。これも将来、錦が美味しい料理を作るための修行である。耐えよう。
「泣かないで、宙太郎くん。ただ料理に生きた魚介が入っているだけ。ボコボコとかビチビチ聞こえるけど、毒ではないよ。厠の争奪戦にはなるけれど。」
「っ、あい。」
ヒシッと抱きついてくる宙太郎を桜子は優しく抱きとめた。そうしている間にも土間から空丸の悲鳴は聞こえてくる。やはり今日も魚介入りは免れなかったか。
「お、おいら、やっぱり見てくるっス!」
「行ってらっしゃい。」
手遅れだと思うけど。その言葉は胸の内にそっとしまった。
カタリと音のした天井。上を向けば微かにできた隙間、そこから見覚えのある面がジッと桜子を見下ろしている。目があえば、逃げることもせず面を被った人物は音もなく畳の上へ降りてきた。
「ここはいつも賑やかネ。」
「いらっしゃい屍さん。いつからそこに?」
「一清が這い這いをしたあたりヨ。いつの間にか大きくなった。子供の成長は早いネ。」
「ええ、本当に。」
「けれど、喜んでばかりはいられない。どうして人というものは、欲を持つのカ。」
分かりにくいが落とされる肩。ほんの少し、桜子の瞳から光が消えた。知らずのうちに手に力がこもる。
天火が旅に出てから蒼世たちの姿が見えないことを気にかけていないわけではなかった。きっとまた政府関連で何かあったのだろう、それを察してあえて桜子は関わりを断った。だというのに、屍がわざわざ空丸たちの目を避けてまで桜子の前に現れた理由とは。
答えは簡単。桜子にのみ、緊急で伝えなければならないことがあったからだ。
「裏で、アノ話が広まっている。なるべく、曇家から出ないようにと、隊長からの言伝ヨ。」
「……やはり、私たちは穏やかには暮らせませんか。」
「非があるのは奴等。桜子が気を落とす必要はない。けれど隊長たちも忙しい、天火もいない、いざとなれば……。」
「分かりました。お忙しい中、ありがとうございます。」
「桜子。」
「はい。」
「これはワタシ個人の意見ネ。急所以外なら、刺しても問題ない。隊長たちも、そう思ってるはずヨ。」
国を護る番犬が言ってもいい言葉なのか。桜子が返答に迷っている間、屍は庭の塀を越えて去っていってしまう。
桜子は眠り続ける赤子の頬をすぅと撫ぜる。愛しい我が子を映すその瞳には、似つかわしくない悲しみと闇が混在していた。
「お母さんが、護るから。」
全ての悪意から、護るから。
この命捨ててでも、この手を汚しても、きっと護る。お母さん、お父さん、今なら二人が私を護ってくれたときの気持ちがよく分かるよ。