それは春が顕現したような

春がいる。

灰色の曇り空の下、桜の花びらを彷彿させる薄紅色の着物が脳裏に焼き付く。
豪快に笑わずとも目元を緩め、微かに口角を上げた笑みは冷たい心を暖めた。

太陽の出ない肌寒いその地も、その女がいれば春が来たように暖かかった。


「白子さーん!お待たせしました」

琵琶湖の湖畔。パタパタと駆け寄ってくる薄紅色の着物を纏った恋人に気付いた白子は、木にもたれかかっていた上半身を起こし、ゆっくりとした動作で立ち上がる。

「さっき来たところだよ。まさか、ここまで走ってきたの?」
「ま、待っていらっしゃると、思いまして」

白子の目の前で小さな肩が上下に揺れる。
汗ばんだ赤い肌、首に張り付いた銀の髪、軽く酸欠の乱れた息、身長差で自然となる上目遣い。
彼はいつもの綺麗な笑みを浮かべて、桜子の息が整うのを待つ。表面上は平静を装うが、彼の内面は荒れていた。

誰にも見つからない場所に仕舞ってしまいたい。
元々可愛らしいのだが、己の為に酸欠になりかけてまで走ってきてくれた健気さがどうしようもなく愛おしい。
汗ばんだ肌と上目遣いには正直、くるものがある。己も男だ。それが好いた女ならなおさら仕方ない事だといえよう。いや、少し待て。走っていた最中、他にも当然人がいたはず。ただでさえ良い意味で目を惹く容姿なのだ。道中、様々な人間から注目を集めていたに違いない。
どうしてこいつはこんなにも隙だらけなのか。愛おしいを通り越して心配にもなってくる。

「……ふぅ、落ち着きました。
改めまして、お待たせしました、白子さん」
「ん。じゃあ、行こうか」

白子が手を差し出すと、桜子はおずおずとその手を握った。
宝石のようにキラキラした瞳がまっすぐ紫の瞳を捉えた。すると青みがかった黒い目が宝物でも見るかのように愛おしげに細められる。心なしか、小さな手に力が込められた気がした。

なんだこの可愛い生き物は。

思わず真顔になる。こうして二人きりで会うのは久々だった。
桜子は京都の方で仕事があり、白子も三兄弟(特に長男)に見つからないよう、日にちと時間が合わなければ会うことができない。
お互いの時間が合うのは更に稀で、ろくに会っていないせいか桜子はいつまで経っても初々しい。そんなところも白子は堪らなく可愛らしいと思うのだ。

「桜子が好きな菓子、作ってきたんだ。お茶も持ってきてるから、向こうに着いたら食べようか」
「嬉しいです!白子さんのお菓子、好きなので」
「お菓子だけ?」
「ぇ」
「なんて、冗談」
「もちろん白子さんが一番好きで……え、冗談?」

訪れる沈黙。
白子はジッとリンゴのように赤くなっていく桜子の顔を見ていた。その視線に耐えきれなくなったのか、着物の袖で顔を隠してしまう。

白子もついに片手で顔を覆った。
それ相応の経験はしてきたつもりだし、余計な感情も捨ててきたつもりだったのだが、とんでもないトキメキを覚える。
桜子が己や天火、そこら辺の人間と同じ生物なのか本気で疑わしくなってきた。

また暫く歩き続けていると目的地である開けた森にでてきた。今は落ち葉ばかりだが、春には花が咲き誇る美しい場所だ。
決まって座るのは端の方に佇む大木の下で、白子は先に座り込み手招きする。

「桜子」

近寄ってきた彼女の手首を掴み、軽く引っ張る。素直に落ちてきた桜子を抱きとめると、白子は己の膝の上にひょいと乗っけた。
桜子はカチンと氷のように固まり、次に顔を赤く染め、次にあわあわと焦りながら視線を忙しなくキョロキョロさせる。しかし拒絶する動作は見られない。

「可愛い」
「し、白子さん……恥ずかしい。んっ」

目的地にも着いた。我慢する必要もない。
白子は桜子の顎を掬い上げて軽く口付ける。口付けはどんどん深くなっていき、さあこれからどうしてやろうと雄が顔を覗かせたとき、思考を遮るように桜子が白子の胸を叩いた。痛くも痒くもないのだが、とりあえず口を離してやる。

「お、おちゃ、お茶、しましょう?白子さんのお菓子食べたいです」

息も絶え絶えに潤んだ目でそう述べた桜子に対し、ちょっとしたいたずら心が湧き上がる。

「俺はこっちの方が欲しい」

白子が再び顔を近づける。
軽く口付けるくらいのつもりだった。しかし唇同士が触れ合うことはなく、白子の唇には細い指が当たっている。
少しやりすぎたか、と反省を胸に顔を離そうとすると首まで真っ赤にした桜子が目を逸らしながら口を開いた。

「あ、明日、お休みなんです。
宿も曇家から少し離れた場所にとっていて……今は、駄目ですけど、そこなら……。」
「……桜子」
「はい」
「やっぱりここで食べていい?」
「なっ!駄目です!」

危機感を覚え、腕の中で必死にもがく。そんな彼女が堪らなく愛おしくて、白子は桜子の肩に顔を埋めた。

全てを包み込んでくれるような彼女に出会ってしまったから、欲張りになってしまう。こんな俺でも、望んでもいいのではないかと勘違いしてしまうのだ。
全てが終わった後も、桜子が俺の横で笑っている未来を。
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