走れよ乙女

子が産まれた。
元気な赤子で、母親の容体も良好。子が生まれるまでの間、哀れな女は外でどんな物音がしようと叫び声が聞こえようと私たちの側から離れることはなかった。
子が産まれたときには母親とともに泣く、優しい人。初めてだった、こんな人間に出会ったのは。



「お疲れ様でした。あとは暫く安静にしていてください」
「ありがとう、ございます……っ!」

全ての片付けを終えた桜子はタスキを外し、ふぅと一息ついた。なにせ赤子を取り上げるのは初めてのことで、緊張していたのだ。失敗は考えないようにしていた。気丈に振る舞って、出来ること、目の前のことに集中して。そうしてやっと産まれてきてくれた元気な赤子に、桜子は感謝した。
無事に産まれてきてくれてありがとう、と。

ふらふらした足取りで外に出れば、背後に女が佇んでいる。音もなく気配もなく、苦無を桜子の首筋に当てた。

「どこへ行く」
「あの大蛇の元へ」
「あなたが行ったところで、何も変わらない」

その通りだった。琵琶湖周辺で暴れる大蛇。ひと一人が行ったところで何も変わらない。戦場に行けば望まぬものを見るだろう。桜子を心配しての言葉だった。

「あなたたちの長」
「っ!」
「曇神社の居候、金城白子で、間違いありませんか」
「おまえ、知っていたのか……?」
「あなたの顔を見て、なんとなく。顔に哀れだって、書いてありましたよ」

首が切れることも構わず、桜子は振り返った。女は目を見開く。哀れだと思っていた女は、その事実を知ってなお笑っていたのだ。絶望なんて一切ない、宝石の様な瞳。女はその不思議な瞳から目が離せないでいた。

「風魔は大蛇側の人間ですね」
「そうだ」
「滅んだのは嘘だった」
「そうだ」
「曇の居候になったのは、欲しい情報を掴むため」
「そうだ」
「では、私と恋仲になった理由は。」
「……分からない」

曇に潜り込むためなら居候になっただけで事足りた。情報を掴むだけなら曇の側にいるだけで充分だった。桜子と恋仲になる必要性は、なかったはずなのだ。

「それだけが、理解できない」
「ならば、行かねばなりません。
戦況を変える為ではなく、あの人にその理由を聞く為に」
「……それだけの、為に?」
「騙されても構わない仲でしたが、理由くらいは聞かせてもらわないと。だから、行かせてください」

女はすっと苦無を下ろした。真っ直ぐな瞳でそう言われてしまっては行かせるしかないだろう。礼を告げて走り出そうとする桜子を女は呼びとめる。

「……護身用に持っていけ」
「いいんですか?」
「ないよりはマシでしょう。長はきっと、大蛇様の側におられる」
「っ、ありがとう!」

苦無を手にし、花の様にふわりと笑って森の奥に消えていく桜子を、女はずっと見送り続けた。
家の中から女が声をかけるまでずっと。

「行きましたか」
「ああ、行ったよ。
長があの女と恋仲にあった理由、少しだけ分かったような気がする」

もしかすると長は、損得勘定ではなく本当に愛していたのではないだろうか。あの花のように笑う女性を。



琵琶湖に近づくにつれ争いの爪痕は大きくなっていく。なぎ倒された木、えぐられた地面、真新しい死体。どれもこれも目を背けたいものばかりで、それでも一人の男に会う為に桜子は前を向いて走り続ける。

琵琶湖付近まで来たとき、空が異様に明るくなるのを見た。空を見上げれば、大蛇はいなくなっていた。代わりに空から降ってきた雫。歓声が聞こえる、笑い声が聞こえる。そこから少し離れた場所、琵琶湖の側の崖でその人物を見つけた。

「白子さんっ!!」

振り向くより早く、桜子は白子に抱きついた。やっと捕まえた、愛しい人。

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