蝉時雨を洗い流す


蝉時雨を洗い流す


別れ際蓮二に早く帰る様に言われた。

それにも幸村は穏やかな微笑で頷いていた。

俺には、その笑顔がどうにも解せなかった。

幸村が戻っての王者立海大、万全な体制で迎えた決勝戦は誰の悪戯か、部長代理として受け取った準優勝の盾の軽さに初めて敗北した屈辱が沸き上がった。

否、鈍い刃で斬った傷に似ている。

時間を掛けて広がる疼痛に息苦しさを覚えて来た。

長年心に巣食った蟠りを勝利で晴らした俺でそうなのだ、全てを負った幸村ならば今何を思うのか、到底俺には図りし得ないだろう。

前方に坂が見えて来た。

上り切る二つ手前の電柱で、幸村は左へ、俺はそのまま坂を上り続ける。

視線を右に下げると、蓮二に見せた笑顔のままの幸村が会場を出た時より同じ歩調で坂を上がろうとする。

思わず幸村の肩を掴もうとした。

(……ッ?!)

空も掴めず硬直した指先の延長に、色の抜けた頬に滴が溢れた。

恐らく誰よりも多く呼んだだろうその名前が喉奥に張り付いて音にならない。

次々と溢れる透明な滴は幸村の頬を濡らし続ける。

「真田…、」

弱々しく呼ばれて行き場の失った腕を戻した時、己の頬も濡れている事に気付く。

頬を拭い、天を仰いだ途端に大粒の雨が地に刺さるが如く降り注いだ。

「幸村、走るぞ!!」

蓮二が言っていたのはこれだろう、近年呼ばれるゲリラ豪雨なる物か、幸村の手首を掴んで駆け出そうとするが当の手首の主は足を踏み出す処か動く気配すら無い。

「幸村!!おい、幸村──」

濡れてしまうぞ、既にバケツで浴びせられた様に濡れていたがせめて風邪を引かぬうちにと思った言葉は、幸村に消されてしまった。

降り注ぐ雨を物とせずに天を見上げ、声高らかに笑い出した。

俺は、大抵の幸村の突拍子も無い言動に慣れている。

だが、今ばかりは流石に無理だった。

そんなに口を開けては雨を飲んでしまうだろうに、それを構わずに幸村は相も変わらず見目を裏切る表情を晒す。

雨の音に腕を掴む距離にいる幸村の笑い声が遠くに聞こえる。

その不釣り合いな無邪気さも更に現実味を欠く。

今、名を呼んだのは己の胸の内だけか。

「やっと、消えたよ…。」

雨に自身が同化し掛けた頃、漸く幸村は言葉を紡いだ。

「やっとセミの声が消えた。」

「……あぁ。」

俺を見上げた幸村の、あどけない笑みに、恐怖に似た何かが背筋を這った。

「ずっとね、止まなかったんだ…。」

そう切り出し前方の宙に視線を彷徨わせた幸村は横顔から色を無くした。

「リハビリ中からずっと聞こえた。」

「…蝉の声がか?」

何とか幸村の言葉を拾い問い返した。

俺の声に幸村はゆっくり頷くと、

「ちょうどリハビリ室の前って、林になってるだろ?だから、セミの声がうるさくてさ…。」

確かに玄関先から左手に木々が見えたのは覚えている、そちらの方がリハビリ室か。

幸村はリハビリ中の姿を決して見せなかった。

それが幸村の自尊心か。

部長としての、テニスプレイヤーとしての意地か。

「毎日がセミの大合唱でさぁ?それを長時間聞かされ続けると人の声に聞こえるんだ…。」

「人の、声…だと?」

髪から水を滴られせる様に頷いた幸村から霊的な力は無いと聞いていたが、命に関わる手術をして何か未知なる力に目覚めたと言うのか。

「関東敗北は俺のせい、三連覇しか許されない、勝って当然、勝たなければいる意味がない、立海の為に、常勝以外の価値は無い、」

「幸村!!」

反射的に空いたの手で幸村の肩を掴んだ。

「テニスができない俺に価値はない、勝てない俺はいらない、」

「幸村ッ!!」

正面にいる俺に目を向けているが心を内を向いたまま。

「成功か失敗じゃなくてテニスができない俺は手術した意味はない、勝つテニスができなければ俺は俺じゃ、」

「精市ッ!!」

叫んでも雨音に掻き消されてしまう前に幸村を抱き寄せた。

雨に冷えた体が最も病状が思わしくなかった頃を思い起こさせて不覚に何か溢れそうになった。

「…俺、負けたんだよ…。」

「ッ、」

穏やかな声だった。

勝利を目前とした時とも手術を覚悟した時とも違う、本当に普段の幸村と変わらぬ落ち着いた調子だった。

「坊やに負けて、…俺は初めて今生きている事を実感したよ。」

「…、」

「負けたから、まだ生きていていいんだって、許された気がしたんだよ。」

「精市…ッ。」

「弦一郎、俺、生きてるんだな…。」

背中に回された腕の重みと熱の喜びが幸村に分かるか。

「当然だ!!お前は生きている。」

辛うじてたわけとは言わなかっただけ有り難いと思え。

そう詰っても本当は幸村の小ささに驚くばかりだった。

出会った頃より何時も幸村の方が数ミリ単位だが大きかった。

テニスも喧嘩も幸村に勝てた試しが無い。

常にその神々しいとさえ思う背中を追っていた俺は、何時幸村の背を越したのか。

昔から天真爛漫と言うのか無邪気過ぎて敵を作り易い奴だから、自然と守役が身に付いていた。

立海に入り副部長になった際には、それが使命だと胸に決めた。

だが実際は俺が幸村に守られてばかりだ。

幸村一人に背負わせてばかりだった。

「済まん、精市…ッ。」

「はは、相変わらず弦一郎は俺にも想像つかない的外れな答えを出すな…。」

本当に可笑しい様な、それでいて空笑いに聞こえるそれを発した後、

「俺、まだ弦一郎達とテニスがしたい。」

「明日も部活だ。」

敢えて裏を読まずに言葉通りに返しておいた。

俺達はまたお前とテニスをする日が来る事を信じていた。

生き延びただけでは無い、ベンチで笑みを送るだけは無い、共に戦い、同じ勝利を目指すのだ。

夢が、願望が、その日が、現実になった。

現実だからこそ、俺達は幸村とテニスをし、青学に負けた。

全ては、これが現実。

悪夢を漂う様だが、優勝を逃し惨めに雨に打たれる様も、その雨の中で友を抱いているのも現実だ。

「なぁ、弦一郎?」

「…その手には乗らんぞ。」

大体幸村が女の様な甘えた声を出す時は禄な事を言い出さないのは身を持って承知している。

しかし相手は幸村だ、俺の薄い先制等軽くかわして、柔らかな笑い声を溢し、

「そんなんじゃないよ。ただ、俺を殴ってほしいんだ。」

そう言って俺から距離を取り、穏やかな笑みを浮かべて見上げた幸村の目に俺は大層間抜け面で写っていた。

「ふふ、さっきのは副部長としての制裁。今お願いするのは親友の弦一郎としてってこと。」

呆けた俺とは対照的に揺るぎ無い眼差しを向ける幸村に何を言っても無駄だろう、口でも到底敵わないも分かっている。

やや距離を取り幸村を正面から捉える。

「俺、神さまにお願いしたんだ。」

屋根や道路を叩き付ける雨の音よりも静かな声が耳の中で響く。

「全国大会が終わるまででいいです。三連覇したらもう死んでも、ッ?!」

「言うなァッ!!」

朗読の様な静かで穏やかな声を聞いていたいが、内容は鼓膜を破りたい程に残酷で、俺は再び幸村に縋った。

「…言うな、…頼むから、もう、お前がいなくなる話等、二度とするな…。」

二度とコートに、万が一は自分の足で退院出来無い可能性もあると聞いてしまった。

俺達を、テニスを拒否した後に堪え切れずに漏らした叫びは天よりも胸を切り裂いた。

手術は成功したと、まだ再発等の不安は残るが短期間にここまで回復したのは奇跡だと、俺は神よりも幸村を信じていた。

「…明日も、テニスをしよう、精市…。」

止まない雨は無い、空けない夜は無いと教えたのはお前だろう。

明日はコートの水捌けから始めなくてはならない。

「…ふふ、いくつになっても泣き虫だなぁ、弦一郎は。」

そっと頭を撫でる幸村の手は意外に大きく逞しい手をしている。

それは紛れも無くテニスに生きた証拠だ。

「帰ろうか。」

「…あぁ。」

上へ向けられた声にもう雨足が弱まっている事に気付く。

俺も体を起こし幸村に並ぶと、穏やかな笑みを浮かべた幸村が一歩踏み出した。

「ありがとう。」

「何がだ?」

繋がらない会話は何時もの事、俺はそのまま二歩目を進む。

「俺の代わりに泣いてくれて。」

「む…、」

反論する前に、遠き幼い時の様に手を繋がれては言葉が喉の奥で空回りしてしまう。

せめて睨む事で撤回を求めようとしたが、その虚勢を張る前より眉間から力が抜けた。

今、幸村の頬を滑り落ちた滴の色を見逃した。

天の恵みを得た花が如く晴れやかな顔の幸村にもう蝉の声は聞こえないだろう。

(20110822)

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