お兄ちゃんはつらいよ〜弟編
どうしようもなく真剣に下ネタ
「なぁ、柳ぃ?…聞いてもいいか?」
「あぁ、構わない。」
俺はネクタイを首に巻くのを止めて丸井に向き直った。
一昨日より何か悩んでいる節はあったが、自分の役目を分かっている丸井はそれを気取られない様何時も通りに振る舞っていたのは、赤也を除いては気付いていた。
尤も丸井の性格から他人が無理に聞き出して悩みを吐露させるより、自分で解決しないと気が済まないのでここは多少の八つ当たりは我慢しても自力で抜け出すのを待つ方が本人の為に良い。
「あの、よぃ…、」
まだ視線を床に這わせながら、躊躇いがちに口を開く。
それに敢えて相槌を打たずに次の言葉を待つ事六秒。
「…ちんこのことをなんて言えばいいんだろぃ?」
「‥‥‥、そのままでいいのではないか。」
俺がそう返すのにも約四秒掛かった。
本人は至って真剣な顔で俺を見上げている。
からかっている訳でも、精市辺りの罰ゲームでも無い様だが、…はて、どうしたものだが。
何故今更の質問を、どう言った理由で俺に質問して来たのかと考え巡らすが、やはり丸井以外は分からない何かがある様だ。
ここは訳を聞かないで置いて、丸井が求める様にそれを指す単語のうち、どれが丸井らしいのかと顎に手を添えた時だった。
「実は…、下の弟が幼稚園でぽこちゃんって言ったらスゲェバカにされたらしくて、」
初耳だが分からないでも無い、幼児らしく愛らしい呼称だ。
「うちじゃ、俺んときから母ちゃんにそう教わったから、そういう名前なんかと思って、俺も弟たちにそう言ってたんだけどよぃ…。」
ここから本題か。
「そのまんま弟のアダ名になったらしくて、毎日そう言われてイジメらてるって聞いたら、」
そこで言葉を切った丸井は顔を上げて、何か決意した顔で俺を見ると、
「俺が正しいちんこの呼び方を教えてあげなきゃって思ったんだ。」
「‥‥‥それで、俺か。」
丸井の悩みは分かった。
確かに肉親がそう言った俗称で呼ばれ、差別化される事は、自分以上の屈辱と悲嘆にくれるだろう。
が、その正しい呼び方を、寧ろあるのかどうか俺が聞きたい程だがを教えて欲しいと言うのは、些か論点が外れている様な気がする。
しかし丸井は至って本気で言っているのだ。
苦楽を供にした友人の悩みを自分の拙い知識で解決に導けるのであれば幾らでも絞りだそう。
だが、その前に聞かせてくれ。
「何故俺なのだ?」
俺の純粋な疑問に丸井は驚いた様に目を見開き、一度瞬きしてから、
「だって、柳って物知りじゃん?それにいっぱい本も読んでるしよぃ。いろんな呼び方を知ってるだろうし、一番真面目にこんな話聞いてくれそうだし。」
「…そうか、ありがとう。」
丸井の様に下心の無い相手から面と向かって誉められるのは中々恥ずかしい物だ。
意味も無く今更右手に持ったままのネクタイを持て余してみた。
「で。」
「とは?」
「ちんこはなんて教えてやればいいんだよぃ?」
…やはりそこへ辿り着くのか。
丸井にとってそれが最重要事項なのだから仕方が無い。
「ちんちん、で良いのではないだろうか。幼い子は短く同じ音を重ねる言葉が言い易く、覚え易いだろうから。」
それよりその言葉を言ったのは何時以来か、嘗てのダブルスパートナーの幼馴染みが隣にいた時にはよく口にしていた様な気がする。
「柳がちんちん言うとなんかヒワイじゃの。」
在らぬ方向から聞き慣れた訛りが割って入ったかと思うと、備品入れの篭の後ろから銀髪が見え隠れする。
「俺もそう思う…。てか仁王!!なんでそんなとこで寝てんだよぃっ?!」
「…何故だ。」
仁王はその身長をその程度の隙間に詰め込む事が出来。
俺がその言葉を口にする事が卑猥などと言われるのだ。
「ちーなーみーに。オミにはちんちんて教えたぜよ。」
オミとは仁王の弟の事らしい、発声のつもりか腕を組んで上に突き出し上体を左右に揺らした仁王も丸井の質問に答えてやった。
それが彼なりの優しさだろう。
「やっぱ、ちんちんしかねぇか…。」
「何を部室で破廉恥な事を大声で言っているのだ。」
腕を組んで考える丸井を少し見守ってやろうと思えば、来た。
最早天賦の才としか思えない程の人の心情を察する事をしない男の登場だ。
「真田の声の方が煩いけどね。」
弦一郎の後ろから風の音の様な含み笑いの精市が顔を出した。
真剣に悩む丸井が弦一郎の理不尽な説教を食らう前に弁明してやらねばと口を開く前に、
「なぁ、真田?弟にちんこのことをなんて呼べいいか教えなきゃなんないだけど、なんて呼べばいいかな?」
真面目も大真面目、真顔で質問する丸井に、この時の弦一郎の顔を、否隣にいた精市の顔も保存して置きたい程の良い顔をしていた。
直ぐに俺と仁王の視線に気付いた弦一郎は何時もの仏頂面に戻り、腕を組みつつ明後日の方を向きながら、
「…それで、良いのでは無いか?」
不本意ながら最初の俺と同じ答えだ、しかしそれ以上簡単で明瞭な幼児語は無いのでは無いかと思う。
「あ!!」
何か思い出した様に叫んだ精市を全員が注目すれば、何故か恥ずかしそうに俯き心無しか頬まで染めた精市は、
「うちだと…、女の子のもちんちんって言ってたけど…。」
声変わりをしても高音でその表情の精市がそれを口にすると、女子に無理矢理言わせている様な錯覚をしてくるのは俺だけでは無い、弦一郎は精市に背を向ける始末だ。
「ホラ、うち年子だからさ?…母さんと一緒に三人でお風呂に入った時に、ね。母さんが妹にそう言ってたから…、中学になるくらいまで女の子のもちんちんって言うのかなぁー、なんて…。」
「いや、まんこはいいよぃ。とにかくちんこの呼び方。」
女子の様に身動ぎをする精市にも目もくれずに本来の目的を思い出した丸井は平素と変わらず女性器の俗称を言ってのけ、精市の話を断ち切り、弦一郎を烈火の如く赤くさせた。
「で、真田んちはなんて言ってたんだよぃ。」
「む…。俺は、…お祖父さんと風呂に入った時には、御宝と言われていたな。」
「あと金玉とか金袋とも言ってたよね?『精ちゃーん、金玉ブヨに刺されたーっ!!』て叫んで転がった弦ちゃんがトラウマで、俺の中では今でも金玉はタブーだよ。」
「……逸そ忘れてくれ。」
笑顔で暴露する精市の、丸井は壮絶な苦痛を味わった弦一郎の幼少期に敢えて触れずに、
「柳んちは?」
「それ、とか、あそこの指示代名詞で済まされたな。」
改めて自分の事を問われれば、明確な言葉を使われた事が無い。
うちは上が女だったせいか、せいぜい言っても「大事な場所」程度だった気がする。
「柳らしいの。」
欠伸混じりの仁王にそう聞いて育ったのが俺らしいかどうか分からないが、弦一郎は弦一郎らしい言葉で、妹と仲の良い精市は敢えて区別されずに同じ言葉を当て嵌められている。
それを自身とも呼び代える様に、やはり自分自身を、更には歩んで来た人生も指しているのかもしれ無い。
「難しく考える事ないんじゃないかな。」
精市の言葉に顔を上げる俺と、丸井。
そして、何かに気付かせられる。
「そんなお前達の為に俺が決めてあげる。アレはちんちんと呼ぶ事。将来的に子供が生まれたら、思春期になる前までは男女問わずちんちんと言う事で。」
と宣誓するかの様に晴れやかな笑顔の精市は正に神の子に見える。
然り気無く幸村家のルールを俺達に守らせる処も。
一先ず精市の取り成しでこの件は落着したが、後日丸井から弟の様子を聞くと、呼称の件は忘れ去れた様だが、今でもぽこちゃんと呼ばれているらしい。
(20100801)
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