ある秋の日の光景
昼休み。今日は穏やかな日差しに誘われて、昼食後は屋上庭園で読書をしようかと思い、階段を昇っている最中に声を掛けられました。
「柳生、少し良いか?」
今日の日差しのように透き通る穏やかな低音に下を振り返ります。
「ええ、大丈夫ですよ、柳君。」
これ程名は体を現すを体現した方は他に見た事がないくらいに流麗な仕草に一瞬見とれてしまいした。
「先日借りた本を返したくてな。」
一段昇る手間を掛けさせてしまった柳君に申し訳なく私も二段下がり、軽く伸ばした彼の手が届く範囲に入りました。
「もっとゆっくりなさってもよかったのに。」
「通して二度、柳生が薦める解決の章は三度読んでしまったよ。」
と苦笑する柳君には敵いません、たった三日でこの項数を読み上げてしまうとは、さすが年間貸し出し冊数の記録を塗り替えただけあります。
私は無意識に右手で眼鏡のブリッジを押し上げながら柳君から自分の本を受け取ると柳君らしからぬ直ぐに手を離してしまい、何事かと思いました。
「お礼と言うか、まぁついでになってしまうが、これを柳生に渡したくてな。」
と柳君は今までご無沙汰だった左手で書店のカバーが掛けられた文庫本を差し出しました。
「俺とした事がハードカバー版を所持していながら、文庫版まで買ってしまった。柳生はこのシリーズは文庫版で集めていると思い出してな。」
少し視線が下の柳君に不思議に思いましたが、ここで柳君の好意を無にするのも気が引けますから、
「ありがとうございます、柳君。文庫版の挿し絵のイラストレーターの方と後書きに寄せて書かれる方が私好みでして、多少時間が掛かりますがこちらばかり集めていました。」
「…そうか。それは良かった。」
安心したように微笑む柳君はそれだけを言うと右手を軽く上げて、「それでは部活で、また。」と言い残し、足早に去って行きました。
予想外に手に入ってしまった文庫本に早く帰宅できるようにと思わず祈ってしまいました。
三冊になってしまった小説を抱え屋上への扉を開けると、抜けるような爽やかな青空がすぐ近くまで迫っていました。
風もなく読書日和だと思い、ベンチへ腰を下ろします。
読み掛けの自分の本よりも先に柳君からいただいた小説が気になって、丁寧に掛けられた書店のカバーを外して今回も装丁の美しさに溜め息を溢した後に、指先に馴染んだ紙質を確認しながら、いざ物語の世界に旅立ちました。
左側の中程での読点で捲る指を止めて、顔を上げると残り数歩のところまで真田君が近付いていました。
「部活の変更ですか?」
本を閉じて立ち上がる前に真田君に右手で制されてしまい、浮かし掛けた腰をまたベンチに深く下ろします。
「…確か、以前万年筆の話をしていなかったか?」
真田君らしくない澱むような口調で話し掛けられました。
先日柳君と話していた時の事ですね、ボールペンだと途中でインクが出にくくなるのがと言っていましたね。
「それがどうかしましたか?」
「…うむ。」
どこかタイミングを外して大きく頷いた真田君は、
「良かったら使ってくれ。」
突き出された左手には袱紗と風呂敷の中間のような布に包まれた長方形がありました。
しかし易々と受け取れる物でもないと分別がつく歳でもあります。
「真田君のお気持ちは嬉しいのですが、」
「俺も退職した伯父から貰った物だが、万年筆はあまり好まむ。道具として生まれたからには、机の奥で寝かせられるより使ってくれる者の手にある方が良いと思う。」
私の言葉を途中で遮った真田君は強引に私の右手に包みを乗せると、
「替え芯と言うのか、それも一ダースある。確かに柳生に渡したぞ、後は好きにしろ。」
急に早口と早足で扉へ向かって行き、まるで逃げるようにして校舎の中で入ってしまいしました。
暫くいなくなった真田君の背中を見ていましたが、ふとした拍子に手の中で何かがぶつかる音がして、そちらへ視線を落としました。
黒に近い濃紺の地に白抜きの紅葉は今の季節に使いたくなる柄でした。
丁寧に結ばれた端を解くと万年筆が二本とカートリッジが一ケース入っていたのを見て、微かに笑みが込み上げました。
箱についた真新しいシールに真田君の優しさに感謝しながらまた包みに戻します。
「あー、なんか出遅れた感じ?」
突然背後から声が聞こえきて肩が揺れるくらい驚いてしまいました。
「ふふ、後ろからごめん。」
と幸村君は軍手を脱ぎながらベストについていた葉を払って、私の隣に座りました。
「試しに植えてみない?」
スラックスのポケットから茶色に枯れた花のような物を取った私の手のひらに乗せました。
「これは何の種ですか?」
枯葉色の薄い膜の向こうに黒い粒が見えます。
「内緒。」
と小さめな唇に人差し指をあてた幸村君がまるで女子のようで、気を取られた一瞬に幸村君は席を立って、再び屋上庭園の中に消えてしまいました。
幸村君の言葉を楽しみ何の種か来年の春が待ち遠しく思いながらハンカチに挟んで胸ポケットに仕舞います。
さて物語の世界に戻りましょうと文庫本へ指が掛かった時に元気な声へこちらに引き止められました。
「おーい、柳生。いたいた。」
開け放った扉を足で押さえる丸井君は私の顔を見ると満面の笑顔で駆け寄って来ます。
「こないだはサンキューな。」
と額の辺りに横向きのピースサインを作って、
「柳生が教えてくれた紅茶屋さん?あの紅茶専門の店、超イイ。」
そこまで言われてようやく思い出しました。
「そうですか、それは良かったですね。」
紅茶のケーキを作りたいけどティーバッグの茶葉ではどこか味が違うので、何を使ったらお店の味が出るのかと聞かれましたので、我が家御用達のお店を丸井君に紹介したのでした。
丸井君に喜んでいただけで、私も嬉しいです。
「んで、お礼と誕プレ一緒になったけど、これやるよぃ。」
と差し出した手にはきれいにラッピングされたシフォンケーキで、きつね色の表面には青みがかった粒が散らばっていました。
「あそこの美人オーナーオススメのブルーポピーシードとレモンのシフォン。三時のおやつにどうよぃ?」
片目を瞑る丸井君に私も笑って答えました。
「こうなると紅茶が欲しいですね。」
「お?じゃぁ、今淹れてくるぜぃ。」
言うが早い丸井君は走り出し、息もつく間もなく校舎へ入ってしまいました。
肩を竦めて軽く吐息を溢してから、先ほどから扉の影から見え隠れする癖毛の彼を呼んでみました。
「切原君、どうしましたか?」
扉の内側の影が震えてしまい、どうやら驚かせしまったようで、私ももう少し柔らかい口調で話し掛けれていればとブリッジを押し上げました。
「やぎゅーせんぱい…。」
少々舌足らずで躊躇いがちに扉の前に現れた切原君は屋上へ一歩踏み出そうかまだ迷っている様子でした。
「今丸井君が紅茶を持って来てくれるそうなので、よかったら一緒にどうですか?」
と貰ったばかりのシフォンケーキを見せると、なぜかばつが悪そうに顔を背けた切原君でしたが、突然走り出して私の前までやって来ました。
いつもの切原君らしくない沈んだ表情にまた真田君にきつく叱られたのかと思い、顔を覗き込もうと屈んだ時です。
「あのっ、これ…っ。」
これまた急に目の前に突き出された眼鏡ケースに思わず顎を引いてしまいました。
「この前、やぎゅうせんぱいの、眼鏡ケース踏んじゃったから…っ。」
そこまで言うとぎゅっと唇を噛んだ切原君は知ってしまったのですね、入学祝に父から貰った物だと。
凝り性な父らしく、しかし残念ながら私には価値が解りませんが舶来のブランド物とか。
それを自分の不注意で壊してしまったと、ここまで気にして下さったのですね。
切原君は純真で心優しい子ですから、余計な心配を掛けさせてしまいました。
「私は切原君が怪我をしなくてよかったと思ってますよ。」
素足で踏んでいましたから、そもそも一時的とは言え床に眼鏡ケースを置いてしまった私に非があるのです。
「っ、でも…。」
「大丈夫です、気にしないで下さい。」
「っ…、」
まだ何か言いたそうな切原君の頭を撫でました、よく柳君や真田君がしているようにゆっくりと髪を滑らすみたい。
癖が強いので硬い髪質かと思いましたが、意外に柔らかいのですね。
初めて切原君の髪に触れましたが、確かに癖になってしまいますね、彼らが先輩の特権を強行して頭を撫でたくなる気持ちが分かります。
「あの、やぎゅうせんぱい…?」
大きな瞳を何度か瞬きする切原君の声に私とした事が彼の気持ちも考えずに失礼な事をしてしまったと慌てて手を下ろしました。
「これ、…その、あのことを気にしてないっていうなら…、誕生日プレゼントでいいから、受け取ってもらえないッスか?」
おずおずと両手で差し出された眼鏡ケースに笑みが漏れました。
こんなに立派な物でもなくていいのに、切原君が好きなゲームソフトを一本我慢してまで、わざわざ似たデザインを見つけて下さったのですね。
「ええ、喜んで使わせていただきますよ。」
そうお礼を述べると途端に太陽のような屈託のない笑顔になった切原君は、
「ありがとうございます!!」
と直角にお辞儀をして、
「それじゃ柳生先輩、部活で!!」
既に背中を見せながら振り返り右手を上げる切原君の足取りは羽根が生えたかのように軽やかで、やはり切原君はああでなければなりませんね。
「おー、赤也。廊下走んなよー?」
大きく息を吐き出した後に眼鏡の位置を直し、入れ違いにやって桑原君と向き合います。
「続けて悪ぃな。」
「いえ、構いませんよ。」
人の良さそうな笑顔の桑原君に私も釣られて笑顔になりました。
「これ、向こうの特撮ってかヒーロー物。つか、ビデオでも大丈夫か?」
と不織布の袋に入った数本のビデオテープを私に見せて来ました。
「実は我が家まだビデオなんですよ。」
駆け込みで地デジチューナーを導入したくらいなのでDVDはどうなる事やら、パソコンもありますから恐らくはないかもしれませんね。
「そりゃ、よかった。デッキないっ言われたらどうしようかと焦ったぜ。」
「その時は柳君辺りにお願いしますよ。」
「あぁ、そうだな。」
と笑い合った後に桑原君は、
「んじゃ、部活でな。」
と爽やかな笑顔を残して屋上を去って行きました。
一人、青空の下に残った私はこれでやっと活字の続きを追えると何気なく覗いた袋の中に「ゴメン」の三文字が落ちていた事に気付きました。
拾い上げたそれは眼鏡拭き、見慣れた細い癖のある右上がりの字に私は首をゆっくり左右に振りました。
そしてベンチに腰を落ち着け、開いた携帯で「ありがとうございます」を送り、ポケットに仕舞います。
そして第一章から急展開の次のページを捲る頃、右手に紅茶ポットを持った丸井君に引きづられるようにして現れた仁王君は「おたおめ」と返事をくれたのでした。
※ヨメさまに捧ぐ
(20111022)
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