Re:青春

その日、意外な人と会った。

「やぁ、海堂」

後ろからあまり聞き覚えのない声に、どこの女だと若干苛立ちが湧いた。

キリキリする左のこめかみに振り返ろうかこのまま無視を決め込むかと悩んでいたら、

「ちょっと付き合ってよ」

と右腕を掴まれ斜め後ろのカフェに引っ張られて、やっと相手を振り返った。

目の前で揺れる蒼味を帯びた黒髪、女にしちゃ随分背が高いし、肩幅あるし、俺の腕を掴む手も筋張って力強いな?

女テニにこんな背が高いのいたか?それともバスケかバレーのクラスメイトか?

何人か背が高い女の知り合いがいたからその誰かだと思うが、どうせみんな大学デビューとやらで派手に変身してるから向こうから名乗ってもらうまで待つか。

と諦めていたら、勝手にカウンターまで連行して、相変わらず呪いの言葉みたいな注文を淀みなく唱えた後、

「でいいよね?」

といつの間にか事後承諾で俺を振り返った顔を見て辛うじて頷くのが限界だった。

出会ってから、いや捕獲されてから俺の意思皆無で決定された一連の言動の果てに、甘ったる飲み物が入ったプラスチックのコップを渡されてカフェが並ぶ表通りから二本裏の静かな公園の通りまで連れて来られた。

ベンチがある公園に入るのかと思ったら更に脇道に入り、公園を囲む植樹のレンガに腰を下ろした。

「やっぱりこっちのが好みだね」

とストローでザクザク氷をかき混ぜるこの人は人外の二つ名を付けられるだけあって、全てが予想の範囲を越えている。

いきなり蓋を開けて氷だけ掬うとか、データマンで参謀と呼ばれた柳さんも苦労したに違いない。

「海堂も座りなよ」

タンタンと軽い音を立てて自分のすぐ隣をレンガが叩いて促されたから、とりあえず従った。

ホントは今即行で逃げたいけど切原の実例を何件か見ている。

レンガに座りながら渡されたクリームたっぷりの謎の飲み物はどっから口を付けたらいいのか、うちで飲むラテとはクリームの量が違いすぎるなと考えていた時だった。

「海堂は膝大丈夫?」

「っ?!ど、して…」

それを、は声にならなかった。

完全に不意打ち、いや、挨拶もまだなのにその話題を出すはずはない。

その前にこの人が俺の事なんか気に掛ける以前に知らないと思っていた。

「真田を見てたからね。…あいつも馬鹿正直だから」

俺に微笑みかけた後の間はなんだったんだろう?

「俺、真田はプロになってくれるかと思ってたよ」

この人とは思えない言い回しに汗を掻いたコップを落としそうになった。

「俺の代ではみんな高校でおしまい。でも赤也がインカレで頑張ってくれてるから、…ってこの言い方はないか…」

中途半端なところで切って懐かしそうな、諦めきれないような複雑な笑みを浮かべて静かに蓋を閉めた。

「たまにね」

両手を膝に置いて、

「ちゃんと部長の仕事やってたかなって考えるんだ」

上げた視線の先は最後に立ったコートを見ているのだろうか?

悲願の三連覇をこの人自身で叶えたあの夏の日の午後を。

あの瞬間、負けた俺達ですら優勝が決まった瞬間のこの人達を見て貰い泣きをしたくらいだ。

「手塚を見ていたら夢の続きをまだ探しているよ」

昨日新聞に載ってた部長の名前に息が詰まった。

「やり残した事なんて、俺はないのにね…」

その間が気になる。

自分自身に語り掛けている言い方も、この人に似合わないのに。

迷いなんか似合わない人が何をそんなに怯えているのだろうか?

無意識に出た疑問に、俺はこの人が何かに怯えて、逃げているように見えた。

「海堂は、」

「…はい」

あの頃は名前を呼ばれるなんて考えた事もなかった。

違うか、俺自身がこの人の事を考える事がなかった。

「部長が大変だった?」

「ッス」

共通点と言えば全国制覇した学校の部長をやったというところか。

「あの手塚部長の後でしたから」

今はプロだ、十年先は語られるだろう。

そんな部長の後を継いだんだ。

凡人と比べる方がかわいそうだと言われ続けた。

ふと、風に乗って耳を擽る含み笑いの後、

「手塚『部長』か…」

声をした方を見ると、雲ひとつない深く青い空を瞳に写していた。

「俺も赤也にとって良い『部長』でいられたかな…?」

どうして?

どうしてこの人が迷う必要があるんだ?

合宿で同室になった時に同じ話を飽きるくらい聞かされた。

この人が引退したコートでもその後ろ姿を追っていた視線に嫌でも気付いた。

部長になった切原は神の子の名まで継げなくても、常勝の殉教者になる覚悟で挑んでいた。

これは桃城の受け売りだが、俺の最後の試合相手だった切原を見ていたら、それ以外の例えはないと思う。癪だけど。

「幸村さんは…」

幸村さんなんて気安く話し掛けていいのか分からないけど。

「神の子というより部長だったと、」

そこまで言った瞬間勢い良く俺を振り返られて言葉が詰まったが、

「俺はそう思います」

とても驚いた顔で俺を見つめる幸村さんは思ったより顔色が悪い。

青い隈のせいかな、意外とシャープな頬のせい?

こんな顔だったろうか?と思い返したけど、データマンじゃあるまいし、幸村さんの事は幸村さんの特徴でしか覚えてなかったから、どんな声で、どういう表情を作る人かまで知らなかった。

「部長かぁ…」

詰めていたらしい息をふっと吐き出して安心したように微笑んだ幸村さんは、コートでは絶対しない顔だなというのだけは分かった。

なんとなくだけど。

「ありがとう」

そう言った時の微笑みはコートでよく見た顔、いや今となってコートでしか見られない顔なのかもしれない。

「ッス」

急な感謝の言葉に照れ臭いような戸惑いで軽く頭を下げて、溶けかけたクリームをストローで掬って口に含んだ。

夏に近い風が緑を揺らす。

そろそろ地区大会でも始まる時期か?

「一つ聞いてもいい?」

確認じゃなくて宣告なのが立海らしい、真田さん達見てたら拒否権の概念すらないようだった。

「テニスを止めたのは膝のせい?」

ストローを噛みがちに吸うのが少し意外だった。

なんて気を反らしてみても、神の子にはお見通しか。

俺はストローをクリームの山に刺して、右手を広げた。

「卒業したらどうしてもやりたい事があったんで」

嘘じゃない。

膝の怪我は成長期にオーバーワークしまくった結果だ。

初めて病院に行った時、母さんに泣きながら叱られた。

その時ちょっと、手塚部長も家族とこんな葛藤が起こったのかなと考えたりした。

「…というか、膝を理由にしたくなかっただけかもしんないッス…」

本音が漏れたのはこの人が神の子と呼ばれたからじゃない。

「…奇遇だね…」

疲れたように覇気のない声で微笑んでくるのは間違いじゃない。

きっと会った時からどこかで気付いていたかもしれない。

ただそれを認めたくなかったから…。

この人が王者立海大の部長だったイメージのままだから、弱い姿を受け入れられなかった。

「これからまたアメリカに治療に行くんだ」

また、という言葉に青白い横顔を凝視してしまった。

三連覇達成前の関東大会辺りから調子が良くないらしいという噂があった。

それでもS1でなくS2で積極的に試合に出る姿に立海よりも他校の俺達が不安になっていたくらいだ。

中学の時の驚異の復活は奇跡だから、そんな何度も起こらないんじゃないかと、今も思ってしまう…。

「日本に戻ってきたのは、俺もようやく二十歳になったから、休学やら年金やらなんやら手続きを自分でする為」

戻ってきた、と言ったのを幸村さんは気付いているのかな?

これを聞いたら、真田さんや切原はどう反応するのだろうか?

いや、それより立海の誰かじゃなくて、なんで無関係な俺なんかと話をしてるんだ?

たまたまあの場所にいたからか?

「ホントは学校辞めた方が気が楽なんだけどね」

その方が治療に専念できるし、と呟いたのは嘘だと思う。

「…会っていかないンスか?」

揺れた蒼い瞳は見なかった。

見せる相手は俺じゃない。

「海堂はそのまま青学に進んだの?」

「…いえ」

こっちの質問に答えないで、全てを知ってるように見透かす言い方が不二先輩みたいだ。

今ついた溜め息が少しわざとらしかったけど、俺は腹を括った。

「やりたい事があったんで、高卒で働いてるッス。今月誕生日だから引かれるのが多くなるンスかねぇ?」

膝の事があってテニスは高校までが家族との約束、テニスの次にやりたい事が見つかったから、テニスの思い出しかない実家から早く逃げたくて働き出した。

それだけ、それ以外言いようがない。

それ以上突っ込まれたくなくて、最後は曲者風に誤魔化しておいた。

「海堂も二十歳かぁ…、じゃぁ、今同い年だね」

「…ッスね」

同い年と言い方がなんかおかしくて、どこか懐かしくてやっと肩の力が抜けた。

「今日はありがとう」

と俺に向かって差し出された右手は、出来ればネット越しで受けたかったと思うのは身の程知らずだろう。

「海堂部長」

握り返されると同時に、遠目に見慣れた微笑みとその一言に全てを悟った。

そうか、そういう事だったのか…。

幸村さんが迷い続けてたやり残した事。

幸村さんは本当は最後の部長の役目で切原を「部長」から解放してやりたかったんだな…。

俺は、手塚部長はプロになったし、切原はインカレだ。

理由を付けてテニスを止めてしまったから、まだコートにいる相手に合わす顔がないんだと思う。

例えそれが幸村さんでも…。

ふと、空が揺れる気配に顔を上げる。

「それじゃ、」

「いってらっしゃい」

立ち上がった幸村さんの唇が次の文字を作る前にとっさに言った。

焦っていたから少し声が大きかったかもしれない。

「いってらっしゃい、幸村さん」

驚いた顔の幸村さんはこのまま誰にも会わず、もしかしたらもう戻らない気だ。

それが幸村さんが部長としての最後のプライドなのか?

でも俺も部長だったから、それは許せない。

「…あぁ、」

半歩踏み出した足を留めて、急に何かに弾かれたように顔を上げて振り返った。

「行って来るね」

そう言って見せた笑みは応援席にいる仲間に見せた顔と一緒だった。

そして先に歩き出した背中はコートに向かう時と変わらず、勝利を手にして帰ってくる確信をくれるものだった。

無意識に出た別れの言葉が幸村さんの本心。

行って来るは必ず帰ってくる約束だと聞いた。

戻るなんて無理して言っただけなんだ。

赤の他人の俺に見栄を張る必要なんかないと思うけど、それが部長なんだろうな?

今日、似たような境遇で同じ立場の部長だった人と出会えてよかったと思う。


'15海堂誕生日SS・企画お題「BORDING」


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