Re:青春
5-Illusion


出勤直後に顔を合わせてからチーフのご機嫌が麗しくないと思っていたら、本日仁王に指名が入っていた。
 合点が行ったところでシフト表を覗いたら、恐らく人生の中で最も呼んだ名前が至急の赤文字とともに書き込まれていた。
 その運命のような相手が男なのだがら、全く、自分はそちらの素質があるのではないかと若干自信が揺らぎ始めてきた。
(と言っても俺だけじゃなか…。)
 思い返せば、自分の名前以上に部活仲間の名を口にしている方が多いようなのばかりだ。本当に部活の絆とはおかしなものだ。先日襲来した浪速の聖書の言う通り、競技でなく部活と例えるのが部長らしいと思った。
 さて、と小さく呟きながらシザーケースを支えるベルトを調整して今の戦場に足を向ける。
 時間に小煩い奴が一番迷惑を掛けた仁王のシフトを電話確認にもせずに来店したのだ。きっと開店と同時に飛び込んだ事だろうから、一時間も女性誌と趣味嗜好と真逆な男性誌に囲まれた待合席で内容に表情を変えずに背筋を正して待っているのか。本だけは選ばない男だ、初めて来訪した仁王の部屋に置かれたファッション雑誌を教科書でも読むような顔でページを捲っていた。昨日の事に思い出せるのはやはり白石に会ったからだと、日帰りの出張でなければ世話になった後輩でも誘ってまた飲みに行こうかと思ったくらいだ。
 フロアに出ると左目の隅に見飽きた広い肩幅が映る。相変わらず姿勢がいいと半分だけ誉めて、その背中を目指す。
 話を持ちかけたのは仁王の方だった。積極的になったのは紳士と名高いこの男だった。
「よう、久しぶりじゃの。」
 二つ名にそぐわない伸び過ぎた襟足を見て挨拶をするのは、左右逆になった男が自分自身に見えるからだ。
「十三時から見合いなので急いでお願いします。」
 挨拶も無しに飛び出た単語に櫛を掴もうとする手が止まる。
「安心して下さい、最早恒例行事みたいなものですから。あぁ、いつも通りで構いませんので。」
 早口で言い終えた後に中指で眼鏡を押し上げるのは怒りをやり過ごしている時。
「…まさか、」
 前に嘆いていた政略結婚の話が現実になったのか。
「向こうも分かっていますよ。親と上司の目を誤魔化す儀式みたいなものです。」
 毒と吐くと同時にラケットと同じくらい大切にしている眼鏡を鏡の前の台に置いて、好みではないインスタントのコーヒーを流し込む。
「いっそ、私の代わりに仁王君が行ってみますか。」
「…柳生…、」
 二年近く空いた再会で初めて目が合ったダブルスパートナーは、泣きそうな程疲れた顔をしていた。
 ハサミに持ち替え、柳生の髪を切っていく。そう言えば初めて柳生の髪に触れたのは、入れ替わりでカツラを被せる為に襟足を少しだけ切らせて貰った時だ。潔癖症な紳士が嘘にまみれた自分を簡単に触らせると思わなかったので、髪を切って眉を整えても良いと許可された時は非常に驚いた。
 常勝の為なら何でもすると秘めた情熱が揺れる眼差しは意外と鋭く、作戦を立てた仁王が怖じ気付いた程闘志に怒りを隠していた。
 その怒りは常に自分自身に向けられていた。仁王はそこから柳生になった。無意識だったせいか、誰よりも柳生になれた。それ故、技や仕草、声を真似るだけでは越えられない原因はテニスに対する精神の差だと気付くのが遅れた。
 余りにも似すぎていたのだ、仁王は柳生に、柳生は仁王に。今も鏡に映る二人の男はどちらが自分が迷ってしまう。右手に掛かる商売道具の重さと滑り落ちる髪の感覚だけが、今の仁王だと確認できていた。
 あの頃は銀髪の方が猫背になれば気にならない身長差で、コートの外でも双子が互いの服を取り替えるような遊びをよくしていた。洒落気付き始めた仁王へよく香水のつけ過ぎたと小言を食らったのは風紀委員だからではなく、柳生がその香りを纏うのが嫌だかららしい。
「のう、柳生。」
「…何ですか。」
 外された眼鏡、閉ざされた瞳。兄弟と偽っても疑われないだろう。
「まだカツラ持ってるんか?」
「貴方こそ。」
 スッと開いた眼差しは左右反転した銀髪の男と同じ形をしている。
「ほくろはどうすんじゃ。」
「妹の化粧道具を借ります。」
 その口振りではまだ一緒に住んでいたのか、だったら。
「服は?」
 制服を着ていた時は好みだけ違ったが今はサイズもだ。
「まさか今も母が選んだ服を着ていると思いで。」
 右手をブリッジに添えようとするもケープの袖の幅と密談にその癖は諦めたようだ。
 仁王はハサミをワゴンに置いて、背凭れに両手をついた。似たような顔が並ぶ位置まで身を屈める。口元のほくろと顎の微妙なラインを除いて、今も似ていた。
 歪むように唇の端がつり上がると同時に思考はあの頃に戻る。
「…何を考えているんだ。」
 呻くように声を絞り出して額を押さえたのは柳生だった。
 現実に戻された仁王は直ぐ様体を起こしてハサミを掴むが、喉に何か詰まった思いが取れずにまたワゴンの上に戻した。
「本当は、分かっているんです。ただ、分かっているのを私自身が認めたくないだけなんです…。」
 そう呟いて目をきつく閉じた鏡の中の男はあの頃と変わらない優等生の顔だった。
 出会った日から変わらない柳生の髪型を作る作業の間、新刊の感想を教えてくれた。相槌が少ない仁王に端から聞いていたら客の独り言を聞き流しているように誤解されそうだが、これが普段からの二人の会話だった。
 それが、今は何かおかしくて。ここで笑うとまた話を聞いていないと静かに怒り、きっと仁王が忘れている痛い思い出を攻めてくるに決まっている。懐かしさと、少しの苦さに任せて指を動かす。
 この苦さも全て懐かしさに変わるには後何年必要なのだろうか。それなのに一向に変える事がない思い出がひとつ。
 筆者近況の心配と創作に改編された過去を三割増に誉めた懐古が一段落ついたタイミングで切り出した。
 柳生なら聞ける、答えてくれる。
「のう、柳生。」
「なんです、仁王君?」
 二度目の呼び掛け合いで漸く懐かしいあの頃を思い出す。
「おまん…、」
 思い出したから続きを躊躇った。ハサミの止め玉が鳴るタイミングで言ってしまうかと何度も口を開閉させた後、両腕を下ろす。左斜め下へ溜め息を落として、言った。
「テニスが楽しかったか?」
 テニスは楽しいか、常勝立海大の三連覇を阻止したスーパールーキーが我れが神の子に投げつけた挑戦状、だそうだ。
 楽しめないから負けたのか、楽しむか否かの次元ではないから負けたのか。聞かれた本人は答えを出せたからコートから降りだろう。仁王はそう信じている。
「楽しくなかったから六年も在籍していませんよ。」
 ここに来てやっと眉間の皺が薄れた柳生は口角は優しく上がっていた。
「立海には進学の為に入学したのでテニスはスクールだけにしようかと思っていたのですが、冷やかしに部活見学に行った際に目の当たりにした自分の知らない全く新しい世界に惹かれました。」
 鏡の中で閉ざされた目に映っているのは潮風が夕日を連れてくるコートか。
「当然母は反対しましたよ、勉強する時間が減りますから。でも意外な事に父が賛成してくれましてね、今思うと教育について口を出したのはあの時だけでしたね。」
 柳生の御母堂に何気無い口振りから息子が随分気疲れしている様は周知の事実だった。だから正反対の仁王と入れ替わる奇策に乗ったのか。
「テニスが母への反抗だったのかも知れませんね。」
 青いですね、と当時の自身を懐かしむ様に微笑んだ柳生も充分テニスを楽しんだのだろう。最も多くダブルスを組んだパートナーの本心に仁王も詰めていた息を吐いた。
「…俺も、」
 柳生の髪を止めていたヘアピンを自分の袖に挟んだ。
「楽しかったぜよ。」
 楽しかった、コートから降りて久しい今だから楽しかったと思えるのではない。小さい黄色いボールが見えなくなるまで追っていたあの頃も意識しなくても楽しいと思っていた。新しいイリュージョンの習得も越えられない壁に挑み続けるのも楽しかった。
 例え前時代的な練習と習慣、勝つだけのテニスと言われようが外野と敗者の戯言にしか聞こえない。常勝を貫く為に何でもしてきた。王者であり続けるにはいくら練習時間があっても足りる事がなかった。寝る間を惜しんで倒れた挙げ句鉄拳を食らったのは一度や二度ではない。ダブルスパートナーになった後輩が追試で大会出場を阻まれたら代わりに受けたし、予算が足りないのなら増額の為に他部活を活動を自粛させる種を探した。
 他人に理解されないのは解っている。自慢も自嘲も出来ない思い出話だから内輪だけの酒が旨くなるのか。
「本当に楽しかったのう。」
「…そうですね。」
 仁王の後を取った柳生は無意識に眼鏡を押し上げる仕草をし、何もなかった眉間に苦笑して掌を元の位置に戻す。
「あの時はすみませんでした。」
 視線を膝に下ろした柳生の懺悔に心当たりがなかった。止まりそうなハサミに指に挟んだ髪が溢れる。
「手塚君がいない精神状態の不二君に勝てると思っていたんですがね。本当に彼は怖いです。」
 肺に溜まった悪い気を逃す様に言葉を吐いた柳生に仁王はこめかみが痛んだ。柳生にこんな事を言わせる相手は分かってる、一人しかいない。柳生も読者で被害者の一人だ。自分で参謀で呼んでおきながら、罠に嵌まったのは仁王の方だ。だが罠に嵌ったままも仁王の性に合わない。真っ先に切られるかと思ったら長い付き合いになっている、香典を持って行く前に何か返してやるつもりではいる。そう企みながら最後の夏の日と同じ様に、何があっても伸ばされている背筋へ斜めに立った。
「柳生が気にすることなんかなか。俺なんか万全な状態のアイツに負けたしの。」
 青学の部長ではないがあの男はどこかおかしい。元から勝敗に重きを置いてない。そんな相手に王者の自尊心を懸ける方が間違っていた。
「…仁王君からそんな殊勝な言葉は初めて聞きましたよ。」
 眼鏡を外しているのを忘れて少し右上から見上げるように視線を投げつけるのはこちらを警戒している時の癖だ。
「プリッ。」
 条件反射で次のペテンの相手は紳士でない事と追及を逃れる為に口癖だった意味不明な単語を音にしたのは何年ぶりだっただろうか。
 それに紳士は笑った。
「久しぶりですね、それ。」
 こんな風に感情を素直に出す男ではない。そこが自分に似ていると初対面時に仁王が抱いた印象だった。
「本当に久しぶりです、懐かしいですね。」
 柳生は深い溜め息をついて、また目を伏せた。
「こうやって貴方に切ってもらっていると、関東大会の前日を思い出しますよ。」
と先程まで仁王が感慨に浸っていた思い出と同じ事を言ったので、本人は気付いてないだろう増えてきた白い髪を短めに切ってやった。

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