Re:青春

 ふとそんな白石について出した事が一つ、高二のU−17合宿だった。何が始まりか忘れたが長い合宿生活で選手間に不満が募り、他校部員が三強、特に神の子にちょっかいを出し始めた。
 プロになったばかりで売り出し中のアイドル部員はいるが、参加レギュラーの三年全員がプロやテニス特待推薦を受けない立海が王者と呼ばれる事実が非常に不都合だったらしい。そんな大人の事情は知らない仁王達立海は受け継いだ名に恥じぬ様に常勝を貫いていただけ。
 テニスの実力が及ばないなら、せめてルックスだけでも飾り立てても我が立海が誇る三強は同じ男でも見惚れる程だ。漢の中の漢、平成のラストサムライと言われる皇帝に、対を為す様な穏やかな顔立ちの参謀は今様小野篁か在原業平、海を越えて諸葛孔明の様だとも歴史好きの女子を沸かせた。
 そして神の子の前ではどんな美男美女も霞む。入学当初はフレスコ画の天使が抜け出した様な美少年、成長期を経て男性性を成熟させてなお女性的な顔立ちを残し、アルトに近い柔らかなテノールで部長の檄を飛ばす姿は正しい意味の天使その物だった。
 今考えると、何故似た背格好と声真似が出来るだけで神の子に化けられると思ったのか、若さ故の無知というのは非常に恐ろしい。
 まだ女性にも間違われる事もあった神の子を執拗にガードしていたのは過保護な副部長だけでなかった。神の子へあからさまに投げ付けられる下世話な視線を見掛ける度に嘔吐が込み上げた。向こうの狙いは言うまでもなく、崖送りになった連中も憤っていた。
 さてどうやって料理してやるかとノートを開いた参謀の横で悪魔が指を鳴らし、それを宥める紳士までも眼鏡を外していた。妙技師の軽口に珍しく同調した皇帝は動き出した仁王を止めなかった。
 それを見て、四天宝寺の天才は言った。薄気味悪いと。何故そこまで排他的になる必要があるのだと。相容れなければ近付かなければいい。仕掛けられても相手にしなければ不快な思いをしない。その上狙いは唯一人。しかも王者を背負う部長ではないか。神の子を名乗る程ならば尚更、金に物を言わせた新設校に胡座をかく輩など何人束になろうが塵芥の如く払えるだろうと。
 確かに。天才の言う事だ、間違いはない。
 これが相棒や頭に血が上りやすい後輩、仁王自身でもそこまで憤らなかった。だが誰に仇なす気でいたのか?神の子だ、王者立海大の神の子にだ。仁王達にとって神の子とは、立海の象徴であり自尊心の権化である。神の子がいて初めて立海である自覚を持ち、遠慮なく王者を名乗れるのだ。神の子に害を及ぼす気配を匂わすものは全力で排除するのが当然である。
 しかしそこに理解を求めた事はない。これが仁王達の王者立海大であり、同じ立海でも理解出来ないと言うならばそこまでだ。故にレギュラーになれないのだとは口が裂けても言う気等なかったが、この男は違った。
 名の通り瞬発力もある、気付いた時には罵声が室内に轟いていた。その声も言葉も初めて聞く。母国語だろうか、随分と荒い声で捲し立てていたから罵声だと仁王は思った。
 体格差で襟首を持ち上げられる形になった天才は目を丸くして見上げていた。恐怖ではなく珍妙なものを見る目だった。本人や他校だけでない、仁王達立海も止める事も出来ずに初めて起きた現象を遠巻きに眺めていた。
 最初に動いたのは今目の前に座る四天宝寺の部長だ。真っ先に部員の失言を詫びる。意外だった。制止するなら先に手を出した他校の部員の方だと思っていた。それが部長の在り方だと思っていた。あの時何故、自校の後輩を叱ったのか。やはり神の子への妨害が聖書と呼ばれる自尊心に触れたのか。その自尊心が青学の天才を本性を引きずり出させた理由だったのか。それが偽物との決定的な差だったのか。仁王自身を否定された苦い敗北を思い出して、無意識に左手を握り込んだ。
 その白石部長に副部長の顔を取り戻した皇帝が手を放す様に行ったが、二人の責任者の声が届いてないのか見知らぬ言葉で怒鳴り続ける。普段温厚な相手が本当の意味で言葉が通じない程怒り狂っている姿は未知のものへの恐怖に等しかった。
 誰もが仲裁に入れず暴力沙汰だけは起きない様に願わずにいられなかった時、ついに乾いた音が響いた。その場にいた全員が仲間の退去命令を覚悟した。
 二度目の乾いた音に漸く異国の言葉が止んだ。それから声の主がゆっくり後ろを振り返ると、仁王からは影になっていたが赤い髪がつい今し方叩いた格好で立っていた。
 場を読めない男であるまいし、新たな火種に皇帝が鍔を下げたと同時に「落ち着けよ」と降り下ろした右腕を頭の後ろに組んだ。一番付き合いの長いダブルスパートナーにも喉笛を食らい付かんばかりの険しい顔を向けたが、普段と変わらぬ口調で「ガム食う?」と甘い香りがする束を差し出した。
 それを凝視していたが、悪ぃと呟くと手を離すと同時に表情が解れていく。ガムを一粒受け取り、四天宝寺の天才に背を向けたまま、「でも俺は謝んねぇぞ。」と吐き捨て足音も荒く立ち去った。
 やっと訪れた平穏に誰かの溜め息が落ちた。それに誘われた様に「俺もすんませんでした。でも間違ったことは言ってないっすから。」と不貞腐れた顔だが確かに謝ったのも意外だった。
 その生意気の塊に仕方なそうに溜め息をついても直ぐに部長の顔で、
「光、…ウチの部員が本当に申し訳なかった。」
と頭を下げた。それに釣られて立海の副部長も帽子を脱いで体を折った。起こった事態に対して当然の流れだが、酷く不思議な光景だったと仁王は記憶している。
 これは誰が悪い話ではない、互いの正義の名の下に自尊心がぶつかり合っただけ。それがコート外だっだけとあの頃誰もが理解していた。
 あの頃は、か。無意識に緑のコートが世界の中心だった学生時代が思考の原点になる。
 例えば、今。神の子のように純粋に、盲目に慕い従う相手に出会えるのだろうか。恋慕とは違う、どんな犠牲も厭わずにこの身を差し出せる唯一に。恐らく十代だから成し得た相手なのだろうと無意識に左肘に触れた。
「そういや、光がな。」
「ん?…あぁ、…あいつがなんじゃ?」
 急に話し掛けれた、と言うほど時間は経っていないだろう、ほんの2、3秒の間に思考が飛び火して途切れた会話の隙間が濃縮されたように感じた。
「エラく仁王クンの事心配しとったで。」
「ん、…悪いのう。…それよか、あいつの方が大丈夫なんか?」
 全てを面倒臭がる言動を取りながら、時候のメールは欠かさないのが彼らしく、その際に転職をしたという近況報告を四回は受けている。
「まーた去年の十二月に仕事辞めよった。今年こそ年末の聖戦に参戦するんやとか言いくさって。」
 鏡の中で仕方なさそうに笑う白石は部長の顔で、年末と言う単語に男ばかり六、七人で三ヶ日まで缶詰で飲みながら麻雀漬けだった年越しを思い出した。その時も財前はりんかい線に乗って聖地巡礼する予定だった資金を、男だけのつまらない飲み会に溶かした。存外そんな男だ、財前は。いや財前もだ。
「で去年は念願のりんかい線に乗れたんか?」
 何人か聖地巡礼者を知っているがボーナス全額定期全額注ぎ込むのが普通の感覚になっている奴ばかりだ、さぞかしクールの代名詞の天才も熱く成らざる得ないだろう。
 白石はひらひらと包帯のない左手を振って眉を顰めて、
「乗れたどころか破産一歩手前のクセに今も無職や。…あいつ、今な、」
潜めた後に、アフィブロやってんや。それだけで財前に心配される理由は十分だった。仁王が討伐される武勇伝で卒業後に出来た数少ない友の稼ぎになるなら歓迎だ。
「光、興味ないフリして火消しに必死やで。」
「…ありがたい話ぜよ…。」
削除依頼が出ているのかアフィリエイトブログ系でも記事が消えていると旧友が態々教えてくれた。教えてくれる友も仕事の息抜きに専用ブラウザ開いているだけと嘯くが、詐欺師の誘導尋問の前では息抜きのし過ぎで査定がと知らずに白状している。所帯を持ってる連中までこんなつまらない男と一蓮托生になる事はないのに──
「ほんま、部活の絆ってのは不思議やね。」
「っ、」
「学校越えてもまだ健在や。」
「……」
 だから、白石は万人に好かれるのか。
「…じゃな。」
 仁王はコートを去ってから胸に巣食う黒い靄を短い吐息を共にようやく吐き出せた。
 全てはテニスから。テニスがあるから、今の仁王がいる。テニスを通して現在の交遊関係が築かれている。
 本当は学校なんて枠は大して意味はないのは解っていた。自分達にとっての枠はテニスコートのみ。ラインの内か外か。ただそれだけだった。
 まさかこんなにも時間が経った今それが解るとはあの頃は考えた事もなかった。
「…なんじゃ?」
 反転した世界の正面から視線を感じて素で返してしまったが、まだオーダーをとっていなかった事に気付いた。懐古から再発見している場合ではない、明らかにチーフの視線が後頭部に突き刺さっている。
「せや、柳クンの本読んどるで。」
「っ?!」
 嘗ての後輩達に注いでいた表情を向けられて、掛けられた台詞よりそちらの方に動揺した。何故、今このタイミングで糸の様に細い目で人の心を見通す戦友の名が出るのだ。
「俺もな、」
 鏡の中で視線が外された。
「ほんまは聖書なんて嫌やったよ。」
 唐突な告白をしながら意味もなくケープの袖を直しながら、どこか照れたように告白した彼も聖書の看板を下ろせた日があったのだろう。
「せやけど、このメンバーで天下取りたいと思ったら、つまらんて言われたプレイスタイルでも最後まで貫けたんやと思う。」
 まさか白石がそんな戯れ言を気にしているとは思えなかった。限界を越える技巧や体力勝負が目立つ激戦の中でプロ顔負けのパーフェクトな試合展開をする白石にもスカウトの声が掛かっていた。
 それよりもこのメンバーとは四天宝寺中のかU−17選抜の時か、少し嫉妬している自分に気付いて仁王は妙に笑たくなった。
「あの本読んでようやく謎が解けたわ。みんなの立場や考え方。俺自身の事もや。…柳クンも大人になって解った事があって、無性に書きたくなったんやね。」
「…こっちは恥を晒されてるがの。」
 仁王を訪れる他校の選手全員に言われる、参謀の思い出語りを読んでいると。公に出版されているものに読むなとは言えない、読んでも構わないが仁王に報告するのを止めてほしい。感想は筆者本人に伝えた方が喜ぶ筈だ。
 接客業で職場が知られているだけの元チームメイトの仁王に言われても困るのだ、誰にも知られたくない青い話を文字にされた仁王も被害者だ。
「そう言わんと。仁王クンの守り方は最高にカッコええって俺は思うで。」
と息もつかせない恥ずかしい言葉を吐いた白石は鏡に写る消えない痛みを抱える仁王の左肘を見ていた。
「…俺は、俺のやり方は…。」
 言葉は続かなく、今の武器も触られない。いつだって白石は唐突に気負い無く本音を語る。
「内側から守るばっかりやなくて、外から守るってのもアリって気付かせてくれたのは仁王クンやから。俺にはそんなん器用な真似はできへん。」
 こんな顔をするのか、するようになったのか、軽く振った左手は無意識に浮かんだろう自嘲を隠せていない。
 もっと早く白石の内側を理解していたら、あの男に勝てたのか。十数年ばかり遅かったが大人になった今でなければ分からない事が多い。
「それに立海はあの三強がおるしね。仁王クンも十分好きにできたやろ?」
片目瞑って無駄に色気垂れ流しておいて本音を探り当てる憎たらしさはあの頃の比ではないくらい男前だった。

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