Re:青春
Truth.3


 遅番と言っても客の入り次第なので、他業種より拘束時間が長い。早番でもバックヤードの進行状況によっては通しになり、一時間ばかりゆっくり起床出来る遅番はましかもしれないと諦めに近い悟りで溜め息を落とす。相棒のバイクに施錠すれば掌に零れてきた束の中に返しそびれた部室の鍵が混じっていた。
 後輩達の練習を見るのならと条件付きで有無を言わさず合鍵を持たされたあの日を思い出す。あれに何の意味があったのか、今も真意を計り知れないでいる。
 元より寡黙に習熟を重ねる仁王は余り他人を育てる機会がなかった。学生時代のテニスにしても今の技術を要する職場でも、見るに見かねた上でのアドバイスの一つや二つした記憶はある。しかし自分から積極的に指導を買って出る事はなかった。性格なのだろうか、自身が他人の言葉に素直に耳を貸せないせいか、店長の頃も冷たいと裏で言われたのは覚えている。
 役を降りても店が変わってもマメに足を運んでくれる常連客は嘗ての戦友ばかり。中には一つ二つ下の後輩もいるが、この歳になると学歴や手取りで過去の立場とは逆転したのではと思う程彼らも成長や落ち着きを見せる。
 移動初日の顔見せで挨拶した際は初出勤で名を告げた時より緊張した。それなのに人間と言うのは落ちる所まで落ちれば自然と自尊心は低くなるらしい。すっかり他人の城に馴染んだ仁王自身を誉めたくて仕方なくなっていた。今夜は自尊心を捨て去り都合の良い駒に成り下がった自身を祝杯だと花束に見立てたヘルメットを肩に担いで短い廊下を行く。
 通用口から五歩で入室出来る事務所から一歩半前で遮られたのは、満面な笑顔の店長が出てきたからだ。さて、何か御注進があったのかと折角担いだヘルメットを下ろした。
「ややや、仁王チャン。今日もイケメンじゃ〜ん?」
 芸人口調な妙に御機嫌な店長は仁王が再研修で来たと知った時と同じ。
 社会人の基本中の基本である挨拶も忘れて、これは自主退職決定かと優越感も嘲笑も隠せない店長を眺めていた。
 仁王より三年先の入社だが、仁王より一年後に店長になったのが余程気に食わなかったらしい。会社は本店から実力主義だ、その前にスタッフも客もお気に入りばかり贔屓するから出世が遅れたと気付かないのか。
「もう朝イチからお客サマからお待ちかねだよ?今日仁王チャンが遅番とかシフト組んだの誰よ〜?誰よ〜?」
 両手をピストルの形にして首を傾げる姿は芸人その物、シフトを組むのは店長の仕事だ。チーフに丸投げしているのは暗黙の了解だが。
「ウチの店は仁王チャンで持ってるようなモンだからさ?頑張ってよね。」
 然もスタッフ思いな店長を気取って革ジャケットの襟を直されても直ぐにロッカーに預けると知っていてか、残念だがそこまで深読みする必要のない素直な上司だ。裏を勘繰り過ぎる自身に囚われる悪癖も第二の天性かと投げやりにフロアに出る身支度をする。
 今日は指名が入ってなかった筈とベルトを巻き、シザーケースの中身を確認してからセットする。美容師の命とも言えるハサミに何かするのは技術者として有り得ない話だが、実力で敵わないなら他人を蹴落とす為にラケットを切り裂いた輩ならいた。そこは世の中を知らない学生と生活が懸かっている社会人の差か、だが他系列は命と言える商売道具を壊したと聞くから、いつになっても嫉妬は恐ろしい生き物だと背筋が震えた。
 ロッカーの戸を閉める前に鍵の束を目の前に掲げて、ふと溢れた溜め息に会社に飼い慣らされていると安心した。役目を終えたキーホルダーをシザーケースの隣のシガレットケースに投入しつつフロアに向かうが、事務所側と仕切る壁に貼られているシフトを見て愕然とした。
 予約の全キャンセル、A4の紙一杯に書かれたバツ印が意味するそれしか思い付かない。平日で予約客は少ないが、二名程モデルと女優がいた。勿論プライベートでの御来店だ、無料の広告塔を断ってまでの客とは一体誰だなのだ?そこまでしておきながら仁王に押し付けたい程の厄介な客の見当等全く付かないのがまた恐ろしい話だ。
 フロアへのドアを開けた瞬間異様な空気に足が竦む。止まる、ではない竦んだのだ。オフィス側とフロアを隔てる扉の縁から左足を出す勇気が全く出ない。
 初めてこの店に出勤した日の通用口を潜る時の感覚が蘇ったが、自尊心の拒絶より生命の危機に近い。
 花冷えがするこの頃に若干高い室温のせいか、仕事道具から漂う独特の香料がか、不安感を掻き立てる空気が鼻腔から喉を緩やかに絞めていく。喉奥に溜まって呼吸を塞ぐ不安気を無理に飲み込んで、中を窺う様に首を差し出せばドアの両側に立つ黒服。屈強な直線は何度も自分を叱咤した黒帽子を思い起こさせるがそれよりも分厚く頑丈なのがプロだろう。
 映画の見過ぎでもないが、思わず軽く両手を上げて黒服達に敵意も危険物もない事を固い愛想笑いを貼り付けながら第一関門になったドアを通過する。直立不動の黒の門番を抜けて思わず溜め息と共に胸を押さてしまったが、空になった肺に酸素を供給しようとしてまた心臓が止まる。角毎に設置された生きたセキュリティにここは本当に月二十五日以上出勤している自分の職場かと疑った。
 脳内ではお馴染みのコメディアン俳優吹き替えの早口を再生しながら愛想笑いで角毎に出会す黒服達をやり過ごしていると、本当に映画の主人公ではないのかと仁王は錯覚してきた。
 そして漸く辿り着いた壁一面の鏡の前に椅子が並ぶフロアは不自然な程神々しい。上客の中でも店長が指定した客しか座らせない一等席でさえ霞む眩しい背中。鏡越しに厚顔不遜な見慣れた顔。
「よぉ。」
「…ぉ、おう…、」
 退屈そうに頬杖をつく反対側の手を軽く上げられて、反射的に仁王も利き手を上げ返した。
 挨拶をされるくらいの知り合いには知り合いだが、果たして今でも知り合いと仁王が自惚れてもいいのか、それ程に時間は経ち過ぎている。
「遅番だったってな。」
「お、おう…。」
 顎から指を離し伸ばされた背筋にまだ一歩踏み出すの勇気がない。
「悪かったな。」
「……」
 こういう男だったろうか?会釈程度に過ぎなくても、簡単に頭を下げる男だったろうか。
 職務も思い出も自尊心さえも放棄して立ち尽くす視界の先で何かが翻る。
 鏡に映る巻いているタオルですら王冠に見える男と呆然と立つ仁王、その右側のスタッフ駐在のカウンターに肘をついて手を振るどこか蠱惑的な美貌の男。
「萩乃介だ、虫除けにはちょうどいいだろう。」
 学生時代に群がる女共を雌猫と言い捨てたが、今は虫とは流石世界が平伏す経済界の帝王だ。
「…お久し振りです、仁王さん。」
「おっ?!お、おう?!」
背後から声を掛けられて飛び上がるくらい吃ってしまう。
 守護獣の様に静かに主に付き従った巨漢の男は合宿の時に世話になった。
「樺地、脅かすんじゃねぇよ。」
「…すみません、跡部さん。…仁王さん。」
 キングも昔に返ったのか似合わない眉間の皺から解放されて楽しげに喉を鳴らした。この主従のやりとりも高三最後の合宿以来だと思い出したら、仁王も自然と口許が緩んでいた。
 懐かしい気持ちのまま、あの頃の世間知らずな無鉄砲さを掘り起こしてキング・跡部景吾の後ろに立った。
 その途端にフロアの全角から鋭利な視線が突き刺さる。これではハサミを持った瞬間に左手を撃ち抜かれるのではないかと息を飲みながら跡部からタオルを取った。
 タオルを取っただけで女性スタッフから溜め息の嵐。日本人離れした端正な顔立ちは母方の祖父譲りと何かの雑誌に書いていたか、男も羨む美形であると同時に努力の塊でもあり、男が尊敬して止まない男だった。
「なんぞ、俺んとこ来たんじゃ。」
 テニスをしていた時分は跡部の姿や技も世話になった身ながら突き放す言い方になってしまったの無理もない。跡部の専属ヘアスタイリストとコンテストで腕を競った事がある。向こうは完全にスキルアップの様だったが、上位に食い込んだ仁王にも他系列店からの引き抜きの話があった。しかし端から自店と系列グループの為になればと思い、即座に断っていた。
 まさかそのスキルアップの最終点が帝王専属になるとは、常に頂点を目指す相手の上昇思考に限界はない。
「アーン?」
 鬱陶しげな溜め息を一つ溢した跡部は何時の間にか癖がついてしまったらしい眉間に皺を立て、
「俺はあいつの人形じゃねぇんだよ。」
 左手で払う仕草に樺地が一礼して五歩離れた。それを視界の隅に捉えながら、クシを手に取りキングの髪に触れると先程よりは幾分か抑えられたが厳しく監視されている気配をひしひしと感じる。
「あいつは作品を創るが、仁王。」
十数年振りに名を呼ばれて、思わず鏡の中のキングを見る目が鋭くなる。もう背中に突き刺さる玄人の気配は感じない。
「お前は俺を創る。」
 中学三年の晩秋、キングとダブルスを組んだコートに戻る。
「だから今日俺はお前を選んだ。」
 山間部のせいか雪混じりの風が氷帝の帝王を飾る。部員200人を背負って立つその肩に六花が触れる前に熱気で消えてしまう程の苦戦された試合だった。
 仁王等、自身でも跡部のダブルスを務めるのは不相応、実力差でも釣り合わないと解っている。それでもあの帝王に指名されたのだ、一人では倒せない相手でも二人なら突破口があると。
 あの試合で跡部が今も焦がれて止まない手塚のイリュージョンで壊した左腕は勲章だ。
「…そう言ってくれると、」
 あの時、跡部にとっての手塚になれただろうか?
「美容師冥利に尽きるの。」
 この機会に聞いてみたいが、跡部の答えがどちらにしても今の仁王には何かが足元から崩れ落ちる切っ掛けになりそうで怖かった。
「ハッ、随分殊勝な事言ってくれるじゃねぇの、」

短く息を付いた後に右手を顔に宛て、
「ペテン師が。」
 あの日と同じように指の間から真実を見抜かれた。

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