Re:青春
2BARRICADE


 七日連勤の五日目、シフトは今日も通しで八時半出勤の二十一時半までか、と口の端を歪めながらセキュリティを切ったのを確認し、通用口の鍵を開けた。腕時計は八時二十分を指す頃、ここからタイムカードのある事務室まで充分に余裕がある。同期にあからさまに馬鹿にされようが電波式にしておいて良かったと思う。
 事務室の鍵も開け、照明と暖房を入れ、更に奥のロッカールームも同じようにした。自分の荷物は休憩室のいつもの椅子へ置き、コーヒーメーカーの豆の残量を横目でチェックしながら、水タンクを外して休憩室のシンクで軽く濯いだ。タンクに給水する間にタイムカードを押すと、8:27、一分遅くても遅刻だが余り早くても嫌味を言われるのはどうしたものだと短く息を吐いてカードを元の場所に返す。
 休憩室に戻り、満水になったタンクをコーヒーメーカーにセットし、電源を入れた。数秒後に正常に起動する音を聞きながら、パソコンを立ち上げる。ようこその文字が浮かぶ間にロッカーにある箒とちりとりを出して、最奥の休憩室から掃除を始めた。
 時折ブラインドを上げながら、今日も風が強そうだ、そろそろ車検が近いなんて事を考える。薄い砂埃を事務室まで掃き出して、パソコンを覗いて今日のシフトを三枚印刷する。一枚は休憩室、もう一枚はフロアに繋がるドアの横、残りはミーティング用にだ。
 不意に、印刷をクリックしてそのまま離す手が僅かに痙攣してマウスに貼り付いてしまった。今日、仁王に予約が入っていた。わざわざ仁王を指名した名前に溜め息が出る。
 何故自分を指名したのか。嫌がらせにしか思えないのは六年間立海で過ごしたせいなのか、それともただの自業自得なのかと自身を責めてしまう。
 旧い知人とはとても言えない、今となっては、いや今もただ一方的に仁王がその名を知っているに過ぎない。それ抜きにしても、あの一種独特の髪型をどうにしかしろと言うのはテニスプレイヤーから美容師になった仁王への挑戦状にしか思えない。
 無意識にその答えに辿り着くのも、やはり思春期につるんだ相手が悪いと肩を落とした。しかし厄介な客にばかり指名されるのは、そういうのを引き寄せる体質なのか。厄介な客イコールそれこそ旧知の仲なので、彼らも仁王の為を思ってこそ指名を入れてくれるのは分かっていた。分かっているが、割り切れないのは過去の、と抜け出せない自己嫌悪に頭を抱えてしまう。
 今日も通常業務でミーティングの間に店内の掃除を済ませ、在庫チェックとお客様に提供する茶菓子の用意をする。年度替わりが近く、イメージチェンジを図って大胆に髪型を変える女性客が多い最中に件の指名客はやって来た。
 シャンプーを終えて椅子に座る後ろ姿は今も昔も変わらない。思わず握り締めた左手はラケットの形になっていた。そんな自分に無性に苛立ち、短く息を吐き捨ててから、今の仁王の戦場へ向かう。
 事情を知ってるスタッフと気付いたらしい数人の客が何度も盗み見みている。店長が休みで良かったと思いながら、指名客の後ろに立った。
「いつこっちに帰ってきたんじゃ?」
 鏡の向こうの無表情を見ないように、タオルに巻き上げられていた髪を櫛で下ろす。
「一昨日だ。」
 簡潔に、一言、質問にのみ答える。
「そーか。んで、いつまでいるんじゃ?」
 毛先にかけて強く跳ねるので、濡らすと肩に付きそうな程伸びていた。
 答えがない。
 タオルドライが甘かったのか、櫛を通した時に落ちた水滴が左肩に染みた。
「…辞めんのか。」
 高三の全国大会で辞めると決意した仁王でさえ、その言葉を口にするのは心苦しかった。
「あぁ。」
 また簡潔に返したこの男は、何度も聞かれただろうこの質問に納得行く答えを出せているのだろうか。
 神の子より目の前の男を目指していた時期があった。その時に左肘を壊した。だからテニスを辞めたと言う訳でもなく、なんとなく、自分は部活止まりのテニスで終わるのだろうと仁王はぼんやり思っていた。
 高校から先は付属の大学に進み、父と同じ業界に就くと考えていた青写真は、当時の担任に真っ黒に塗り潰された。原因は仁王の地毛の銀髪が気に入らない、と。黒に染めてくれば推薦を書いてやると居丈高に言われて、指導室のドアを殴り付けてガラスを割り、推薦どころか内申まで悪くした血が上った頭で出した答えが美容師だった。
 待遇に若干の疑問と不満はあるが、この道を選んだ自分が誇りだ。
 仁王と共にテニスをした世代で最後までコートに立っていた男がラケットを下ろす覚悟とはどの様なものなのか。
 高校では悲願の全国三連覇を切っ掛けに、公式戦連勝記録の礎になった立海の王者達はそれぞれの未来の為に卒業と同時にコートを去った。卒業と言う否応なしに訪れる節目ではなく、自ら引き際を決断する勇気。
 急に心臓の代わりにじくりと痛んだ左肘がその答えを拒否している。
「柳の新作読んだぞ。」
「っ?!」
 これが参謀の様に計算し尽くされた不意討ちだったらどれ程良かった、鉄仮面の堅物な言動に潜む妙な純粋さ。学校が違った為に話す機会は少なかったが、確かに旧友の書く小説の通りだ。
「…だからおまんが苦手なんじゃよ、手塚。」
 がっくりと肩と一緒に胃も落下しそうな脱力感に見舞われる。
 何だって日本テニス界の至宝と呼ばれるこの男がしがない再研修中の美容師を指名するのか未だに理解できないでいる。だがこれだけで留まらないのが手塚国光と言う男だ。
「真田と幸村なら、どちらへ先に連絡をした方がいい?」
「は?」
 主語のない質問にドライヤーのコードを伸ばす手が止まる。
「青学には大石と海堂に伝えるとして、越前と菊丸には先日の収録の合間にそれらしい話はしたからな。」
 手塚と同じプロになった越前は一昨年子供が生まれたのに機に引退し、現在絶賛アイドル中の菊丸が何やらラジオを持った際にかつての戦友達を一般人だろうが自由奔放に呼びまくっているらしい噂は聞いた。
 日刊紙のスポーツ欄もを飾る手塚と会う機会はいくらでもあると推測されるが、何人か足りない気がする。
「…他はどうした?」
「今夜河村の店で海堂達と会う約束をしているが、不二は…、」
 そこで言い澱んだ部長はコーヒーに手を伸ばした。
 青学の天才と呼ばれた不二周助、仁王も一度だけ対戦した事がある。小柄で体力も並みで立海ならばレギュラーどころか入部試験すら怪しいが、テクニックと技の多さでは手塚に次だった。千の技を持つと囃された氷帝の忍足とは違う、決して底が見えない不気味さがある。
 味気ない紙コップが置かれる音に止まり掛けた指を無理に動かす。自分のやるべき事に気付いた手塚がU−17合宿の途中にドイツに立つ前、不二と試合をしたと聞いた。コートに倒れて泣いていた不二の、その意味と理由を考えもせずに仁王の理解の範疇ではないと通り過ぎた自分は所詮道化でしかないのだろう。
「…真田が先でいいじゃろ。」
ペテン師でもイリュージョニストでもなく道化と真実を言い放った副部長を仁王は推した。持病を盾にテニスを諦めた部長より、家の為にテニスを辞めた真田を悔しがらせる事が出来るのはもう手塚しかいないから。黙ってプロでもインカレでも行けば良かったのに、夢よりも期待を選ぶ男とは思わなかった。
「やはり真田に先に話しておくべきか。約束は守れなかったからな…。」
「……」
 ドライヤーの音に掻き消されなかった呟きに指名客の髪を乾かす左手が仕事を放棄する。
「今日こそ不二も来てくれるといいのだが、…昔からあいつは何を考えているか俺は分からなかった。」
 本人モデルの眼鏡の奥の瞳を閉じて長く息を吐く様は同性の仁王からしても出来る男の苦悩の様などこか憧れる物があり、一つ向こうにいた客とスタッフは手塚に見入っている。
 自身の夢を叶える為に青学を離れた手塚国光を最後まで悩ませ続けてのは、スーパールーキーの越前でなくは不二周助という男だった。手塚と越前が抜けた後の青学でナンバーワンに繰り上がった天才は本人のやる気まで抜けたのかとても本気と思える姿を見せずに、キャラが似ていると周囲に囁かれた我らが神の子をこめかみを引きつらせていた。当然公式戦で対戦した事がある仁王も不二のテニスを見る度に舌に苦味が残るような苛立ちに見舞われた。
 それなのに、ペテンの片棒を喜んで担ぎたがる紳士に勝ったのだ。関東決勝のS2、ここで落としてもプラチナペアと皇帝が控えたオーダーに問題なく優勝で全国に行った。
 だが、今でも仁王は不二を許せない。中三の全国決勝で青学の天才たる所以の片鱗を見せつけられた詐欺師だからこそ、どんな試合も全力で自身の信条を懸けて勝利を掴む紳士に対して、片手間に勝ち星を掠めるテニスをする男を天才と認めない。
 天才とは神の子と畏怖された幸村にこそ相応しい称号だ。いくら上手に化けようが所詮は道化、絶対に立ち入る事ができない才能と精神の領域にいる男。
 それが王者立海大の神の子・幸村精市。
 その幸村に化け切れなくて、目の前に座る同じレフティーの男に成りきろうとした結果がこの様か。ドライヤーを片付ける延長でしくりと痛む左肘を撫でた。手塚本人でさえ左肘を犠牲にしたテニスをしていた時期に、常勝無敗の掟の為にそれを真似ようなんて青く若かったと自嘲した。
 と過去に苛立っても、紳士本人が決着を出した話に他人の仁王がどうこう言うのはお門違いだ。解っている。解っているから不二を許せないのだ。
「…何があったんじゃ?」
自分無き後の天才の所業を部長だったこの男はどう思っているのか。本人を直視できずに手塚のカルテに問う。
 鏡越しの手塚は目を伏せて、
「…何もないからだろう。俺よりも柳の方が良く分かっているようだ。」
吐いた緩い溜め息が紫煙をくゆるらせるそれに似て、本当にテニスを辞めたのだと胸が痛んだ。
「離れているからこそ出る答えがあると思ったが、」
 一度そこで何かを耐える様眉間に皺を寄せて、
「俺は目を反らしただけのようだ。」
 短く息を吐き出す癖は合宿中よく見掛けた。あれは、天才と呼ばれた男に向けられたものだったのか。
 好敵手の熱烈な視線達に気付く事はなく、手塚は何をあの男に求めていたのか。自分不在後の越前進学までの青学の柱だったのか本人の資質か、他校の仁王には分からない。全ての好敵手に爪跡を残しドイツへ旅立った手塚。コートを去って数年経っても、叶うならばもう一度あの時の様な熱い試合をしたいと言った副部長の熱意は報われないの変わらないだろう。

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