Re:青春

 もっとも仁王にしてみれば相手の理想を演じる方が楽な性分なので、周囲が勝手にキャラ作りしてくれる方がありがたかった。
 だからと言って仁王にサボリ癖が本当にあった訳ではない、公欠と単位を計算して体調不良の名目で保健室で仮眠をする事が度々あっただけだ。サボリ、一回の無断欠課で学期中の校外活動禁止、テニス部の仁王であれば大会出場禁止。
 そんな事になってはチームメイトに迷惑が掛かる、それ以上に恐ろしい男が三人だ、立海三強、部長だったあの男は当然の事、厳格が服を来て歩いている副部長にして風紀委員長、あの忌々しい本の作者が許す筈がない。
 この三人から一勝ももぎ取れなかった屈辱はテニスだけにしたいのが彼の今の目標でもある。それすらも危うくさせるのが参謀だ、本当に厄介な男と長年付き合う羽目になったと胃が痛む。
 だから、偶々だった。偶々その日は屋上だった。そこに偶々あの男がいた。それだけだった。
 大気を切る様な寒風が時折吹く屋上に佇む同級生。テニスも勉強も優等生だと女子達が噂していた。そんな奴が何故この時間、こんな場所にいるのか。
 一応は同じ部活だ。それなのに声を掛けられなかったのは、深海を思わせる髪色が荒波の様に蠢いて仁王を拒絶していると思い、ドアを開けた次の一歩すら出せなかった。
 一年生でレギュラーになり、同時に全国制覇まで導いた一人。完璧な勝利を見せるプレイスタイルから神の子と呼ばれていた。
 仁王とは真逆な人間だと信じていた。テニスを介しても交じり合う事はない存在だと悟ってしまっていた。痛む胸の奥が空になる感覚。思い出したくない。
 それなのにあの日、神の子と交わした言葉が甦る。
「この風はどこへ行くのかな。」
 どういう意味だったのか。仁王を振り返って、一言。稀に神の子はこの様な理解不能な発言をする。いや、無垢な幼子の如く純粋な疑問を口にする男だったと今なら思える。
 世を斜に構えるのが格好良いと思い始めた仁王は反射的に唇を歪めて言っていた。
「だったら追いかけてみたらどうじゃ。」
 一人になりたかった仁王は神の子に近い人間が好んで使いそうな言い回しを選んで、一刻も早く屋上から追い出そうとした。聡いこの男なら真意に気付いて大人しく教室にも戻ると踏んでいた。
 穏やかな見掛けによらずテニスを阻むものは徹底的に排除する冷酷さも持ち合わせる次期部長様だ、ゆっくりと仁王を振り返り微笑んだ。
「そうだね。」
 仁王の予想通り同意し踵を返して扉口に立つ仁王の方に爪先を向けた事に思わず安堵した。五歩半進めた時、仁王に微笑みかけたのは社交辞令だと思っていた。
「おいっ!?ゆきむらっ?!」
 それがいきなりを後ろを向くと二歩で元の位置に戻り、次の二歩で視界から消えた。
 一瞬何が起きたか分からなかった。千切る冷たさの風が耳元でもがる。急激に乾く喉と震え出す脚に事態を飲み込んだ仁王はフェンスに向かう。今はパワーアンクルをつけてない筈なのになんでこんなにも歩みが重いのか。
 後一歩でフェンスに手が掛かるという所で足の裏がコンクリートの床に縫い付けられてしまった。確かめなくてはならない恐怖が全身の血を冷やす。
 せめて身を乗り出すだけでもと覚悟を決めて息と一緒に唾を飲み込んだ時だった。
「なんちゃって!」
 満面の笑みの神の子が両手を広げてフェンスの向こうから飛び出して来た。その時仁王はどんな顔をしていただろうか?直ぐに顔に似合わず腹を抱えて爆笑し出したのは覚えている。
「飛び降りるわけないじゃん。」
 そう、顔に似合わずぞんざいな口調だった。
「三連覇するまでは殺されたって死なないよ。」
と言いながらフェンスを乗り越えてこちら側に戻ってきた。
「さぁ、教室に戻ろうか、仁王。」
 立っているのが仁王自身でも不思議なくらい脱力した体を現実に戻しながら、先に屋上から出て行く背中を目の端で追っている自分に気付いた。
 知っていたのか、レギュラーでもないただの平部員である仁王を。あの神の子が自分の名を知っているのか。沸々と込み上げる感情は全てテニスへ向けた。次はテニスであの男を振り向かせてやる。そう誓った。何年経とうが覚えている、肩に置かれた右手の感触と「仁王」と呼ばれたあの日の声が今も仁王の原動力だ。
 かちんと鳴る音と共に離れる髪の様にいかないのが現実らしい、それも一年前の事で学んだ筈なのだが…。
「で、幸村って今何してんの?」
 不意打ちだった、否、無意識に過去に向く程考えていた相手の名前が他人から発せられたせいで手元が狂うところだった。
 古い馴染みだろうが数少ない仁王を指名してくれる大切な客、舌打ちを無理矢理飲み込んで、鏡の中の菊丸を斜めに覗き見る。呑気に月遅れの雑誌を眺めて「これほしいなー?」と抜かす、アイドルだったら仕事着としていくらでも経費で落とせるだろうに。何か一気に色々な差が仁王の胃にのし掛かり、菊丸のパートナーだった大石の気持ちを今全て理解した。
「さぁのう?」
さっきと同じ台詞に鏡の中の菊丸の眉が動いた。
「うん、まぁ、大人になっちゃったしいろいろあるよね、うん。生きててくれるだけで奇跡だもんねぇー。」
 仁王と視線を合わさない様に雑誌を読んでいる振りを装って誤魔化されてくれた。
 これが大人になると言う事か、猫の様に天真爛漫だった男も気を使う事を覚えていた。少し寂しいと思った仁王の方が大人になりきれてないのか。
「そういえばさ?幸村って結構いい趣味してたよね?」
 テニス以外では色々な方面に中々に良い趣味を見せる神の子だったが、悪戯を企んでそうな笑顔に合宿の自由時間を思い出した。
「あぁ?アレか?」
「そうそうアレアレ〜?アレで幸村も俺たちと同じ中学生なんだなぁって思った!」
 そう言い終わった直後鏡の中で口の端をつり上げた処を見るとアイドルと言えども彼もまた只の男で、まだまだ大人になりきれてない仲間なのだと仁王も懐かしさに苦笑するのだった。

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