短編


千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす


不織布のキャップと長い割烹着のような物を身に纏う。

姿見で確認した後に、消毒薬で手を清める。

手前を行く小さな背中を追い掛けて二枚の自動ドア、その間にあった空気の扉を潜ると、白一色の無機質な空間が広がっている。

場所は違えど何度訪れようが慣れる事は出来ない。

ましてや、これを生業するのは自分には無理だろう。

一歩踏み出したら自身も白に染まってしまいそうな錯覚に、白い床に足の裏が固定されていたが、「こっちよ。」と消えそうにも優しい声に自我の輪郭を取り戻し、導かれた方へ足を進める。

左に一回、右に二回、また左に曲がった場所にいた。

透明な帳の向こうに静かに横たわる人形。

余りの穏やかな寝顔が焦燥感を掻き立てた。

「まぁ、この子ったら…、」

急に足早になってビニールのカーテンを開けて、

「自分で柳君を呼んでおいてね。」

仕方なさそうな、それでも少し嬉しそうな声とともに手招きをする。

「夜は全く寝られないのに、昼はよく寝るのよ。」

隠し切れない疲労の色に安堵と笑顔を見せて、まだ中に入れない俺の手を掴むと、

「起きないかもしれないけど、側にいてあげてね。」

そう言って俺を椅子に座らせて、カーテンの外に行ってしまった。

気を使わせてしまったのだろうか?

本来なら家族以外は立ち入れない場所らしい。

感染症対策とかで面会受付で氏名と連絡先を書く手が不覚にも震えた。

続柄欄で友人と記入した際、係員が訝しがったが、面会患者が幸村精市と見ると眉が下がり、許可証を渡した後に小さな溜め息を落としていた。

その理由に気付かない振りを出来る程、俺も割り切れない。

目の前の現実を見せられては。

「かあさん…?」

思わず吐き出そうとしていた溜め息は運良くマスクに塞がれた。

俺とは異なる緑がかった透明なマスク越しに精市の唇が震えた。

透明な管に繋がれた指が白いシーツの上を這う。

可笑しい、これ以上にない清潔な場所だと言うのに急に喉が痛み出した。

「ふふ…」

一瞬目を反らした間に消えそうな笑い声が落ちた。

「なんだ、蓮二か…、」

微か布擦れの音に目線を上げると、精市が俺を見上げている。

確固たる信念と強靭な意思を写す瞳は、今は薬か病のせいで飴のようにとろりとしている。

「れんじ、れんじ…、」

幼子のように俺の名前を呼びながら手招きをする精市の口元へ耳を寄せると、

「あの匂い、する…?」

あの匂い、精市と俺にしか分からない言葉に心臓が大きく跳ねた。

「俺、から、…あの匂いしてる…?」

やや体を起こして精市の顔を覗くと、俺が知っている幸村精市ではなかった。

同時に、神の子ではなく、精市もまた、俺達と同じただの中学生なのだと。

「大丈夫だ、精市。あの匂いはしない。」

どんな花も敵わない芳しい香りを放つ、あの匂い。

いと簡単に人を惑わせるのに、本能が嫌悪と逃走を刺激するあの匂い。

個室にいた精市に会いに行く時に感じた病棟にそこはかとなく漂っていた香りだ。

昼にあの匂いを嗅いでしまうと、夜には自分を追い掛けて来て纏わり付き、ついには自分から発せられる錯覚に陥ると言っていた。

俺も同じだ。

あの匂いを感じてしまうと、連れてきてしまうのではないかと怯えていたから。

「本当に、しない…?あの匂い、しない?」

なおも恐れている精市の右手を握って、

「あぁ、本当だ。あの匂いはしない。だから精市は俺を呼んだのだろう?」

嗅覚ならば精市にも、余裕で部内いや校内一くらいはと自負している。

あの匂いを知り、その上で自分よりも嗅覚が優れている俺だからこそ、様々な無理を通して呼んだのだ。

家族以外は面会出来ない事に加えて、面会時間は学校にいる時間帯しかない。

県大会と考査間近で友人の見舞いが理由の遅刻を、プレゼントにしてくれと俺の家族と仲間に頭を下げた。

「よかったぁ…、」

ようやく安心したように深く息を吐き出した精市が握り返してきた。

それでも、掌を重ね合わせている程の力しかない。

「蓮二の匂いだ…、良い匂いで安心する…。」

「そうか。…それは嬉しいな。」

そっと盗み見た冷たい精市の指は、長期の点滴のせいなのか水っぽい柔かさに変わってしまっていた。

手の甲や腕に残る紫斑は点滴を受け付けなくなった血管から液が漏れた跡なのか。

俺の手が冷たいと笑っていた精市の手を冷たいと感じる日が来るとは…。

孤独な闘病の証しを静かに撫でると、また小さな笑い声が聞こえた。

「そうだ、蓮二?匂袋ちょうだい。ここは薬の匂いしかしないから、生きてる感じがしなくてね。」

「…ぁ、あ…、」

酸素マスク越しなのにコートにいた時と変わらない笑顔を見せた精市に、俺は上手く返事が出来ただろうか?

急に滲んだ視界に、これは誰の現実なのか分からなくなった。

「蓮二の涙、あったかいね…。」

「っ、申し訳ない…、」

不甲斐なく溢した雫を拭ってくれた冷たい指先を生涯忘れないだろう。

俺の匂袋を緩く握り、安らかに眠りつく精市に酷く不安になったが、それから四日後に透明な部屋から脱出出来たと精市の母がわざわざ我が家まで挨拶に来た。

そこまで思い出して、やはり筆を置いた。

俺は、いつになっても、いくつになっても十五になったあの日を記せはしないだろう。

日記帳を閉じて、障子の隙間から覗かせる月を見上げた。

明日から関東大会、精市との誓いをお前との約束で果たさせて貰うぞ。

(20120717・'12柳誕)
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