短編


断じて行えば鬼神も之を避く


辞書を捲り、見慣れない形の字に筆を置く。

仏語の書物なのは分かっていたが、選択外語も英語の俺でも簡単に訳せるだろうと侮っていたが、予想に反し一単語ずつ辞書を用いなくてはならないので時間が掛かってしまっていた。

更に勉学と部活の合間にしか出来無い故に漸く一ページ訳し終えた。


訳して見て初めて分かったが、これは詩集だとは知っていたが、まさか恋慕を綴った物だとは思わなかった。

何故幸村がこれを俺に寄越したのか分からぬ。

ただ、渡された日の事は昨日の様に覚えている。

まだ幸村が面会謝絶になる前だった。

一人だけで部活の報告を口実に見舞いに行った。

俺の話を聞いているのか、ただ俺の顔を眺めて微笑んでいるだけの幸村に不安を覚える。

さわさわと引き波の様な、弱い力ながら全てを浚われる感覚に似た不安。

妙に穏やかな幸村の視線に耐え切れず、僅かに鼻先を反らした時に目に入った。

何時から支え無しでは体を起こしている事も叶わなくなった。

それが今日は腰の辺りに枕か分からぬが起こしたベッドの上部と幸村の間に柔かそうな物が挟まっていた。

唐突に喉が絞められた様に痛み、鼻の奥を針で刺された。

無意識に啜りそうになるのを堪えると、不思議そうな顔をした後に「そうだ、」と声を上げた幸村は一冊の本を取り出した。

「これやるよ。」

幸村が気に入っている詩集だと一目で分かったが、それよりも表紙の白に溶け込みそうな指先に目が釘付けになった。

「気にするなよ、二冊あるから。一冊はお前にやろうと思ってた。」

だが入院中も片時も離さなかった大切な物を貰って良い物か。

同じ物があるとは言え、どちらかに愛着が片寄ってしまうのではないか。

「そんな顔するなよ。ホラ。」

と非常に緩慢な動作でテレビを置いているキャビネットから同じ本を取り出した。

「な?あるだろ?だから余計な心配するなよ。」

心配なのは幸村自身だと言えたら、俺は楽になるだろう。本人がその言葉を望んでいないから言える筈もなく、ただ金拍が剥げた型押しの読めない題字を眺めていた。

「ばか、いい加減気付けよ。」

そう言った幸村は強引に俺の手を取り、

「誕生日おめでとう、弦一郎。」

照れ臭そうに笑って押した付けた。

ここが病室なのを忘れさせる程軽やかな口調に俺も釣られて口元が緩んだが、左手の甲に刺さったままの点滴が現実を見せていた。

記憶はそこで途切れている。

そして昨夜、幸村から手術を受けると連絡があった。

奇しくも関東決勝の日とは、これは必ずや優勝旗を幸村の元に持って帰らねばならぬ。

そう誓いながら、暫くは縁のない愛の詩を閉じた。

(20120710・'12真誕)
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