短編


冬の寒きを経らざれば、春の暖かきを知らず


朝起きただけで大歓迎だった。

いつもは悪態ばっかりの妹も「何時に帰ってくるの?時間通り帰って来てよね。」とうるさかった。

誕生日くらいで大袈裟なと苦笑いしながら、玄関を開けた時の眩しい朝日に踏み出す足が止まった。

そうか、去年はここにいなかったか。

あまりにも当たり前で、普通の日常に忘れていた。

決して忘れないと胸に刻んだ激痛と苦悩なのに。

自然に閉まったドアノブの音がやけに大きく響いた。

「……」

振り返って確認する。

俺はここにいる。

夢じゃない。

右手を開くと堅くなくなったラケット胝がある。

一生取れなかったらどうしようと笑っていた幼い頃が昨日のようだ。

たった八ヶ月。

八ヶ月持っていないだけで柔らかくなった手のひらなんてなかった事みたいだ。

奪い返した日常を逃がさないように右手を握り締めて顔を上げて歩き出す。

雨上がりでもないのにキラキラと光る通学路は、退院して初めて通った時を思い出した。

そうか、俺は帰って来れたんだ。

また立海のコートに立てているんだ。

そんな単純な事に物凄く感動的だ。

幸せっていうのは、本当に些細な事なんだろう。

目も開けていられない痛みに踞る一秒は一時間に思えた。

消灯後にぽつんと浮かび上がる真っ白なベッドで眠れずに過ごす一夜は一ヶ月に感じた。

まめに来てくれる部員達の顔も一日振りで一年振りに会ったように顔付きが違う。

俺一人だけ時の流れが切り離されたのかと思った。

早く戻りたくて焦った。

焦って八つ当たりをしてしまった。

それでも待っていると言ってくれた。

差し出された温かい手に泣いた。

賭けのような手術に、練習よりハードなリハビリからやっと戻った。

戻ったのに、やっぱり俺だけ取り残されている感じがした。

練習やミーティングを口実に八つ当たりをしてしまった。

それもみんなと同じ時間を過ごせなかった焦り。

俺のわがまま。

それなのに。

無様に負けたのに。

笑って迎えてくれたみんなに、俺はやっと戻ったんだなと安心したんだ。

負ける事は許されない、敗北は最大の恥だと言い続けていた。

でも負けて知る事もあったなんて、今まで知らなかったよ。

それだけはあの坊やに感謝かな。

正門が見えてきた頃、柱の影からワカメと銀髪が逃げていくのが見えた。

あー、これは俺が来るタイミングを知る為に張り込まされたクラッシャー達だな。

見なかった振りをして、少しゆっくりめに歩きながら桜並木を見上げれば、まだ寒さにつぼみも見えていない。

桜は冬に寒さを経験した分、きれいに咲くんだよ。

初めて聞いた時はこの言葉が大嫌いだった。

でも、それはまだ冬を経験した事がないから言えたんだろう。

身動き出来ない寒さと飢えを経験するからこそ、春が与える恩恵の素晴らしさに尊敬と感謝をするのだから。

部室のドアの前に立って、ラケットバッグを背負い直した。

何やら小声ではしゃいでいるのを、叱って宥めて煽る低音が聞こえる。

ねぇ、俺はどのタイミングでドアを開ければいいのかな?

ちゃんとクラッカーのヒモを持って待機してるかい?

俺はお前達と一緒にテニスして、泣いて、笑って、馬鹿やって。

毎日が楽しくて、泣きたくなるくらい嬉しいよ。

本当に生きてて良かったと思う。

俺はきっとお前達に会う為に生まれて来たんだね。

だからお前達は今日の俺の誕生日を盛大に祝うべきだよ。

(20120305)
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