文字には不思議な力があると言う
幼い頃に貞治と見たドラマの書道の先生がそう言っていた事をふと思い出した。
手元にある半紙に目を落とした。
男らしい力強さの中に、男特有の繊細さがある。
このしなやかな払いは力のある男にしか出せない。
明鏡止水、何を思って弦一郎はこの四字熟語を俺に寄越したのか。
弦一郎は俺に何を期待していたのか、これまで幾枚となく贈られた文字は皺にならない様ファイリングしているが、弦一郎に申し訳無いがこの文字だけは四つ折りにしてテニスバッグの、今まで二度しか開けた事が無いファスナー付きポケットに埋めた。
「柳君、そろそろ行きましょうか?」
帰り支度をした柳生が声を掛けて来た。
「柳生は何と?」
横に並んだ柳生と歩を会わせながら足を進める。
「君子不器、」
そう返した柳生の眼鏡の奥が一瞬鋭く光るも、隠す様に直ぐに眼鏡を押し上げる仕草をした。
「流石に真田君に言われると現実を突きつけられましたね。」
困った様な口調で誤魔化すも初めて受け取った時には指の色が変わる程に震えていたのを記憶している。
自尊心、若しくは自身の否定と取ったか。
紳士と呼ばれる彼も王者の一員だった証拠でもある。
「だが柳生は学級委員をしていただろう?」
柳生に贈られた言葉を文字通りに捉えるなら、君子の器ではない。
だが他の生徒の模範になる柳生は一年、二年と学級委員を務めた、当然三年時もやるかと思っていた。
「規律を違反しないと言うだけ教師は学級委員を押し付けたがりますからね。拙い学級委員に見るに見かねて皆さんの団結力が自然と上がっただけですよ。」
自嘲を刻んだ口許を噛み締めるのはいけないな。
弦一郎は柳生にまだ進化する力があると信じてその言葉を贈ったのだ。
柳生もそれは分かっている、ただ今日の紅白試合で見せ付けられた差が彼の信念を揺るがせている。
「あの二人を見ていると如何に自分が矮小な存在か思い知らされるな。」
溜め息を一つ逃して深呼吸をする。
「柳君には言われたくないですね。」
きつい口調で見上げて来た柳生に苦笑しながら、
「俺はデータ収集を名目に傍観の位置を貰っているだけだ。」
常勝への執念は精市の生きる糧だ、弦一郎の力に右に出る者はいない。
ならば残された技を鍛えるのみ、運良く自分にはデータがあった、ただそれだなのだ。
「止まっている水程濁っている物はないと言うのに。」
初めて精市と弦一郎と試合をしたあの日と、無言で友を置いて来てしまって以来自分の中の時間は止まっているのにだ。
「明鏡止水、ですか。」
「見たのか。」
らしくもなく上擦った声で柳生を振り返ると彼は前を向いたまま、
「本当に真田君は我々を見ていると思いますよ。」
それには答えるつもりはないでいる気配を敢えて気付かない振りをした柳生は歩みを止めない。
「濁った水も鏡の如く写す事もあるでしょう。濁りが鎮まればあたかも清流と思わせる事ができる。」
「ふっ、」
笑みが漏れた。
弦一郎が柳生の様に明確に言葉にする程理解出来る方ではないのに、直感でこの柳蓮二を四字で表すとはな。
天然皇帝の呼び名は伊達はなかったと言う事か。
「柳君、嬉しそうですね。」
「柳生も乗るか。」
「ええ、プレゼント係特権にあやかって。」
弦一郎へのプレゼントは筆にすると前々から部員全員の一致で決まっていた。
相当不評な四字熟語進呈だが、実は密かに偶数月に行われる漢字コンテストのヤマになっている。
90点以下は追試があるので弦一郎なりの優しさだろう、それを部員達は知っている。
お互い口に出さないのは、まぁ、お年頃と言う事にしておいてやろう。
弦一郎、誕生日おめでとう。
蝋燭の数は俺の管轄外だから文句は言うなよ。
(20110525だけど気持ちは0521)
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