弟だって辛いよ
部活終了後に、部誌を書いていた最中に、突然目の前にいた仁王が椅子から転げ落ちた。
何事かと思い返し、その前に携帯を手にしていたかと床に這いつくばる仁王を見た時、
「どうした、仁王?女からか。」
と向かいに座る蓮二が薄い笑みを張り付けて仁王を見遣った。
「ナイナイ。仁王先輩の携帯に入ってる女のアドって姉ちゃんだけッスから。」
蓮二監修の下、英語の課題をやる赤也がシャーペンを回しながら笑っていた。
仁王は軽薄な外見と言動は正反対に内面は堅実な努力家なのだ、故に噂の様に派手な交際関係等していない。
赤也が揶揄する様に家族の女性以外が登録されていないのがその証拠だ。
(だが、しかし──)
「赤也、口を動かすより手を動かせ。」
「…へーい。」
俺が注意する前にその意を汲み取った蓮二が促していた。
俺が言うより蓮二が言った方が角が立たないのでそれは助かるが、今は仁王か。
何故か未だに床の上で震える仁王は、
「さんぼー、助けてナリ…。」
と携帯を恐る恐る蓮二に差し出した。
「精市に無茶振りでも──」
そこまで行って仁王から携帯を受け取った蓮二は言葉を切ると同時に目を見開いた、だけでは済まずに瞳孔まで急激に小さくなる。
「どうしたのだ?」
蓮二の余りの様子に声を掛けると、蓮二はらしく無く思い出したかの様に息を吐き出し仁王に携帯を返しながら、
「本当に姉とは恐ろしい生き物だ。」
と呟くと目頭を押さえて口を閉ざした。
「さんぼー、お願いナリよ、一緒についてきてくれんかのぅ?」
「つか、ナニそんなにビビッて、ゲッ?!マジッスかっ?!」
「さんぼー?」
「仁王先輩御愁傷様ッス。」
無言の蓮二の前で仁王の携帯を覗き見た赤也は引きつった顔をしている。
当の仁王は蓮二の脚に縋り付いたまま。
「仁王、情けない格好は辞めんか。蓮二も少しは仁王の話を聞いてやったらどうだ?」
とても他人には見せられない部室の状態にここに幸村がいない事に安堵した日は無かった。
「弦一郎。」
蓮二は切れ長の目を見開くと、
「何が悲しくて仁王と、男子中学生二人が女性の必需品を買いに行けと言うのだ?」
「……。」
疑問の形を取っているが答えは聞いていない、蓮二の意思は否の一文字だと嫌で分かる。
「…その、だな…?」
俄に重苦しい沈黙が立ち込めそうな中、不安そうに俺と蓮二を交互に見比べていた赤也に気付き、何とか声を発した。
「…何故、そう言った大切な品を弟の仁王に頼むのだ?」
「えっ?!真田副部長、ナプキンだって分かったンスかっ?!」
然も意外と言う顔で赤也が俺を見るが、…まぁ、それくらいは分かる。
「赤也、明らかな名称は伏せてくれ。」
とまだ目頭を押さえた蓮二が呻いたが、赤也は一度瞬きをして、
「なんでッスか?つか、ナプキン買って来いなんてまだマシッスよ。ウチの姉ちゃんなんか普通に『昨日のオカズ、ナニ?』って聞くンスよ?」
と頬を膨らませたのに対し蓮二は深く息を付き、仁王は床に這いつくばったまま、
「ウチの姉貴はエロ本にダメ出しするき…。」
携帯を閉じて、備品入れの篭と壁の隙間に入ってしまった。
「…仁王、まず出て来い。」
こうなった状態の仁王は相当の間機嫌を直さないので、最終下校時刻前に出て来て貰わないと鍵を預かる俺が帰宅出来ない。
「エロ本にダメ出しってなンスか、それ?」
最早完全に集中力の切れた赤也は指先でシャーペンを回している。
「大方、この女は目鼻口を整形し、胸にシリコン、脂肪吸引に、臀部のリフトアップと言った事を言うのだろう、我が家の姉上も男の浪漫を壊す事が生き甲斐だからな。」
筆記用具を片付け始めた蓮二が吐き捨てる様に言った。
確かに、義姉さんもテレビを見ながら女優に対してそう言った事を言う、あくまで笑顔で言う処が何か空恐ろしい気がする。
「あ!!あと、風呂先に入ると怒らないッスかっ?!」
「…あるな。」
思わず頷いてしまった。
義姉さんはあからさまに嫌がっている訳では無いが、俺が先に風呂に入ってしまうとその日は入らないらしいので、出来る限り一番最後に、湯船には浸かる時は翌早朝にしている。
理由は分からない。
別に特に嫌われている節は無く、風呂に限ってそうなのだ。
女性とは不思議な生き物だ。
「俺も帰宅すると姉に『男臭い』と足蹴にされ、更に姉より先に風呂に入った場合は風呂掃除をして湯を張り直さなければならない。」
ノートを揃える振りで机に打ち付ける蓮二も姉上で相当苦労している様だ。
「えぇっ?!柳先輩のどこが男臭いンスかっ?!真田副部長なら分かるッスけどっ?!」
「俺の何処が臭いのだっ?!」
目を丸くして俺を指差す赤也に思わず叫び返してしまったが、
「おー、俺も姉ちゃんに言われよるよ。脂臭いっつーか、野菜炒めを作ったフライパンを洗わないで三日経った臭いがするとか。」
とよく分からない例えが隙間から聞こえた。
だがそう言われると無性に己の体臭が気になって、ワイシャツの二の腕の辺りに鼻を近付けていた、俺の真向かいで赤也が俺と全く同じ行動を取っていた。
「自分の体臭は自分自身では分からない物だ。」
懐紙を取り出し額を押さえる蓮二に赤也が手を伸ばして、
「俺に下さいッス。あと、風呂もそーッスけど、朝の洗濯はそっとしておいてほしいッス、マジ本気に。」
…そう来たか。
視線を感じると振り返れば、義姉さんが微笑みながら去って行った時には…、暫く女性不信になりそうな衝撃だった。
「鼻で笑われた日には血を分けた姉とは言え殺意が湧いたな。」
「…蓮二にもそう言う──」
余りにもさらりと言う物だから聞き返してしまうと、射殺さんばかりの鋭い視線を返された。
「そりゃ、弟は避けて通れない試練じゃけ…。俺、もう、家に帰りとうなか…。」
完全に篭の後ろに隠れてしまった仁王に珍しく赤也も溜め息を付いた。
「あー、俺も今日は嫌ッス。あのアニメがあるんで、姉ちゃんのBL話とか聞きたくないし。」
「ふ…。俺は帰ったら夕食より姉のリンパマッサージが待っているな。」
だから蓮二のマッサージは上手いのだなとは言えない。
俺も帰宅すると風呂に入れないので、脱衣室で体を拭かねばならない。
何故なら汗をかいたまま食事の席に着く事を義姉さんが嫌がるのでな…。
(20120819)
[戻る]