短編


8月32日の向こう側



「幸村がな、」

溜め息と同時に溢れ落ちた友の名に戸惑った。

互いにあえて避けていた話題だった。

弦一郎も自らの口から溢れ落ちた名前に戸惑っているのか、帽子の鍔を下げたのにあてもなく視線を遠くに投げた。

「何をすればいいか分からないと言っていた」

精市の、言わんとする事が解る。

恐らく彼の昔馴染みである隣の男も解している。

ただ、認めたくないのだ。

今、この現実を。

全ては常勝の掟、三連覇の為に生きてきた。

大袈裟な表現だが、事実精市は三連覇の為だけに病より生還した。

その精市が言うのだ、何をしたらいいのか分からない。

データに仮定を持ち込むものは好まないが、もし三連覇した後も今と同じ疑問を抱くのだろうか。

例えば次の三連覇の礎をと気合いが入っていたのか。

分からない。

全く想像もできない、存外三連覇のみが終着地点であり、そこから先を考えた事がなかった。

三連覇のその先を見据えなかったのが我が立海の敗因か。

友との再戦を駒にしても得られなかった優勝旗の指定席は空だ。

突如出現した空間はそのまま胸の穴と同じ。

初めは針穴ほどだった隙間が今は優勝旗と同じ形になっている。

今はもう、幾重に連なったペナントリボンに書かれた優勝校達の文字がどのように滲んでいたか、先の色褪せたフリンジのほつれ、棒頭の剥げ具合が思い出せない。

二年間毎日のように見ていたのに、昨年部室に還ってきた際には旗地と刺繍の手触りで優勝を確認したのに。

今この手にあるのは空のみだ。

広げた手のひらを山から降りた風が熱を奪う。

握り締めた拳の中に残る涼やかな風の気配。

それに胸の内に蟠ったままの熱を逃がす。

この柳蓮二、まだまだ高みを目指さなくてはならないようだ。

もう一度手を開き、次はラケットバッグの紐を握る。

「夏休みは終わってしまうからな」

「夏休みが」と言ったつもりだった。

そこに仄かな明かりが見えた。

無意識か、助詞ひとつで変わってしまう自身の心についていけずに、弦一郎の溜め息を見逃すところだった。

「そろそろ赤也を見てやらねばな」

こちらを見遣る意図に気付き、夏の忘れ物を思い出す。

「何か物足りないと思っていたところだ。最後に良い思い出ができるな」

最後、これもまた無意識に出ていった言葉に、先の精市の事も重なり弦一郎の反応がと焦ったが当人は珍しく眉間を緩めながら苦笑していた。

「こればかりは最後にしてもらいたい物だな」

「今年は精市も一緒だ」

さすがに数学はひとりではきついと言っていた。

「それは困った物だな」

と空を見上げた弦一郎につられるとあの日よりも大分高くなっていた。

(20180831)
[←戻る]

- ナノ -