蜃気楼
今日で中間考査は終了したが学校側の諸事情で同様に本日まで部活動停止だったのを失念しており、背負って来たラケットが無駄にならぬ様蓮二をスクールに誘おうかと渡り廊下に差し掛かった時だった。
「やっと見つけたぜぃ!」
聞き覚えのある声の方向へ目線をやると踊り場より顔を出した丸井が珍しく安堵した表情を見せた。
「探したんだからな!」
二段飛ばしで駆け寄ってくる部員を注意すべきだと思ったが、今は副部長でもなければ風紀委員でもなかった。
一瞬の躊躇いに旧い学舎で染み着いた習慣は未だに新しい環境に不慣れだった事に気付かされた。
情けない己を恥じ、友に見られぬ鍔を下げながらやや背を向ける。
「つかシカトすんな、おっさん」
「む?」
解せぬ、何故に同学年におっさん等と呼ばれる謂れは無いぞ。
そして蹴られる所以も無いのだが、丸井も癇癪に似た気難しさがあるのが厄介だ。
「ハイ、おたおめ」
無理矢理俺の右手を取ったかと思えばCDケースを一枚渡された。
学業に関する物以外はと脳内で己の声が響くが口に出していなくて良かった。
「…また面妖な言葉を…」
これはどういう事か?音楽鑑賞自体馴染みがないのだが、これでも聴いて世間の流れでも覚えろと言う丸井の気遣いか。
「メンヨーなのはお前の方だし?お誕生日おめでとう、弦ちゃん」
この歳の男子にちゃん付け等屈辱以外何も無く、だが咄嗟に言い返す良い言葉もなく詰まってしまった処へ以て、
「コレ、幸村くんに返しといて」
この場にいない友の名に本当に声を失ってしまった。
「ホントはさー?CD返さないの口実に幸村くんと連絡とろうなんて考えてたんけど、俺知らされてないんだわ」
今丸井がどんな表情しているのか、釘付けになっているCDから顔を上げられない。
「お前なら知ってんだろぃ?電話でもしてやれば?」
小気味良く踵を返す音が廊下に反射した。
「待ってんじゃね?真田からの電話」
溜め息の様で、吐き捨てる音に近い。
下校で賑わう遠くのざわめきが耳元で聞こえるの何故か。
僅かに震えた指先を叱咤する為にCDを強く持ち直した。
俺も溜め息を一つ、床に捨てた。
「俺も連絡先等知らぬ。第一携帯を解約して行っただろう」
「そりゃー…、」
唐突につぐんだ言葉を追及しないのが常になっていた。
「海外じゃ使えない機種じゃなかったっけ?つか、料金高いし?フリーのアドとか聞いてないのかよぃ?授業で作った奴とか?」
短い吐息の後矢継ぎ早に問い掛けたのは自身にだろう。
「…彼奴がそんな用意周到な奴に見えるか?」
蓮二とジャッカルが本を貸したままだったと見送った後に笑っていた。
逆に柳生と赤也が何かを借りたままだと。
丸井もその一人だったというだけか。
仁王はあの場で何も言わなかったが、何かしら帰る口実をつけられているのだな。
「…だな」
和らいだ気配に漸く首を起こすと、窓の向こうを見上げる丸井はとても安心した顔をしていた。
長い旅路の為に充分な時間はあった筈なのに全て放り投げて行ったと時々妹から愚痴の電話が入る。
前より長い留守になる事は最初から決まっていた。
だからか。自分の帰る場所と理由を残したのは。
空いた窓からの薫風に揺れた赤毛が一瞬幼馴染みの表情に変えた。
もう二ヶ月も会っていないが、今度も勝ち取ってくるだろうと目的地を向いたままの爪先を進めた。
「あ〜あ、つか今日これから暇だろぃ?赤也に会ってやれよぃ」
「む?」
何の脈絡も無く出てきた後輩の話題に驚愕して、断腸の思いで預けられた品を落としそうになってしまった。
「副部長っていうのに悩んでるみてぇだし、親父面して顔出してやれば?」
「…たわけが」
唯一の全国・U−17経験者の赤也を部長にするか否かで俺達は揉めたが、当時の部長である幸村の最後の強権で赤也は役職から外した。
その俺達が卒業後に形だけと言う事で副部長に収まったと聞き及んでいたが。
今更俺の出る幕では無い。
それを口に出す前に奴の本音をぶつけられた。
「サンキュな」
弾かれたが如く上げた視線の先には、既に背を見せて歩み出し、右手を振る丸井に悟った。
それこそが俺にとっての最高のプレゼントだ。
(20150521)
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