短編


一日一善


あれは小学二年の時でした。

一日に一回、友達の為になる事をしましょうと担任の先生がおっしゃってました。

淡い憧憬を抱いていた私は先生の言葉を忠実に守っていました。

幸村君を泣かせてしまったあの日までは。


──「神がいるなら私が幸村君の病と代わりたい」


あの時耐え切れなかったのは私の方でした。

両親の期待とレギュラーの重圧と、妹の苦悩と…。

全てから逃げたい、それしか考えられなくなってしまい、幸村君に会えばそんな甘えを叱ってくれると半ば縋る思いで一人で見舞いに行きました。

思わしくない状態が続いているのは聞いていました。

それなりの覚悟で会いに行った筈なのに、余りの痛ましい姿に涙腺が緩むのを止められませんでした。

同情だったら幸村君も冷たく突き放せたでしょう。

しかし私が彼に抱いた感情は恐怖でした。

幸村君が怖い、死がすぐ側に迫る彼が怖かったのです。

そして。

恐怖故に憧れてしまった。

気付けば、長期間の点滴に浮腫んだ冷たい手を取って懺悔をしていました。

彼の身代わりを望んでいる事を。

この頃の私は疲れていました。

いえ、私だけではないのは分かっています。

ただ、私には一つだけ、皆さんより家族の事があっただけで。

それが私がテニス部に在籍する事が起因だっただけで。

私がテニス部だと言うだけで、妹が理不尽な思いをしなければならなかったと…。

ただ、その個人的な事で、私の弱さを晒してしまって、幸村君を泣かせてしまいました。

──「…ダメだよ、柳生」

起き上がるのも辛いだろう幸村君は空いた方の手を必死に伸ばして、

──「お前の妹さんにとって、兄は柳生しかいないんだから…」

いつもは切原君にそうするように、ぎこちない動きで頭を撫でてくれました。

その優しさに、更に溢れた雫が幸村君の手のひらから手首を伝います。

それの行く先を辿る事もできずに、幸村君の手に全てを預けていました。

懐かしく、心地よい髪を撫でる音。

いつ以来でしょうか、無条件に誰かに心を許せたのは。

その安心感から眼鏡の下から次から次へと雫が零れ落ちました。

──「俺は必ず戻るから」

そういう言って力強く握り返した指先の微かな震えには私も気付かない振りをしました。

幸村君も、私の弱さを見なかった事にしてくれましたから。

これ以上の醜態は病人の士気に触ります。

それではと、幸村君の両手をベッドの中に戻して立ち上がりました。

その際に、今更ですが幸村君に気付かれないように袖口で眼鏡の下を拭ったのはいつ以来でしょうかね。

こうして幼い頃のように私が妹の目元を拭ってやれば済む話だったのでしょう。

何を逃げていたのか。

何に怯えていたのか。

幸村君へ次は部員全員で来ると伝え、まだ乾かない頬が恥ずかしくて足早に病室を後にしました。

臆病者の私の背中へ幸村君が一言。

その一言が今も私の支えです。

一人で幸村君に会った翌日、仁王君の突拍子もない作戦に乗ると決めました。

私が私であり、私の信念と常勝を貫く為にも。

(20141019・'14柳生誕)
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