- ナノ -

■ ▼言わないさよなら

「なにぼうっとしてるの」

「あ………ごめん」

まさか、貴方に見とれていた─なんて言えなくて、ナナは慌てて視線を反らす。
きらびやかなパーティー会場。
反らした先には本日のターゲットが談笑している姿が映った。

「見るなよ」

「へっ?」

「気づかれるだろ」

ほとんど唇を動かさず、囁くようにイルミは言った。
ナナは一拍遅れて、それがターゲットのことであると気づく。
てっきり自分を見るな、と言われたのかと思って、心臓がとくんと大きく跳ねた。

「パーティーが終わる頃、行動に移る。わかった?」

「うん」

スーツ姿のイルミは、いつにも増してかっこよかった。
だから、仕事に集中しないといけないのに、こんなのじゃイルミに迷惑かけちゃうのに、ナナは目の前の彼のことしか考えられなかった。

情けないと思う。
今まで暗殺者として生きてきて、それこそ感情だって殺すように訓練してきたのに、彼に関してはまるで駄目。
どうしてこんなに好きなのかもわからない。
どこが、と聞かれれば、全てと答えるしかない。
ただ、一目見たその瞬間から、私の全ては彼になった。


**


イルミと初めて会ったのは、確か5年ほど前の夏のことだった。
ターゲットを暗殺し、依頼主の屋敷に連絡を入れたが繋がらない。
不審に思って訪ねてみれば、不気味なほど静まり返る館内。

依頼主が絶命していることを確認していれば、遠距離から攻撃をされ、ナナは慌ててかわした。

「へぇ、よけるか。
死体を見ても悲鳴を上げないようだし、もしかして同業者?」

ナナはオーラを纏わせ、じりじりと後ずさる。
同業者、と簡単に言ってくれるが、格が違うのはすぐにわかった。

スラリと伸びた手足、男にしては長い髪。
窓からの月の光を受けて、その人形のような白く美しい顔があらわになった瞬間、ナナは警戒することすらも忘れてしまった。

「悪いね、あんたの依頼人は死んだ」

「…」

「……なに?その顔は。早い者勝ちなんだから仕方無いだろ」

男は何も言葉を発することができない私の態度を敵意と受け取ったのか、首を傾げる。
だが、すぐさま興味を失ったようにじゃ、とだけ短く言うとそのまま闇夜に溶けてしまった。

名前も何も知らない。
だけど、その日からナナは彼のことがどうしても忘れらなかった。
だから調べて調べて調べ尽くして、色んなツテを頼り、彼があのゾルディック家の長男だったと知った。

─彼に近づくには、私も有名にならなければ

ナナの家も代々暗殺稼業であったが、それはもうゾルディックとは比べ物にならないようなごく小さなもの。
別に、彼の婚約者候補として声をかけられたいとまでは思ってない。
ただ、少しでも彼の近くに行きたい。

その想いだけでナナは今まで以上に仕事に精を出した。
危ない橋だって何度も渡った。
そして、その甲斐あって、3年後くらいにはナナもわりと名の通った暗殺者として認められるようになる。

とうとうゾルディックから下請けのようなごくごく簡単な依頼がきた日には、それこそ涙が出るくらい嬉しかった。


***



「お疲れ、そっちも終わったようだね」

「うん」

返り血ひとつ浴びずに、涼しい顔で現れたイルミは、もうとっくに自分の仕事は終えてきたのだろう。
ナナだって、いつまでも死体を目の前にしているのはそう気分がいいものではない。
だけど今日がイルミと出来る最後の仕事だと思うと、あっさり終わらせてしまいたくなかった。

「どうしたの?今日はやけにぼうっとしてるけど」

「……今日で、最後なんだよね」

私はゾルディックの下請けとしても一生懸命働き、そしてついにはその能力が認められて念願のビジネスパートナーにまでこぎつけた。
ようやく再会したイルミは何も言わなかったから、たぶん私のことなんてちっとも覚えていなかったのだろう。

それでも別にいい。
彼と肩を並べて仕事をし、対等のような口をきく。
それだけでナナは他に何も望まないくらい幸せだった。

「最後?何が?」

「……イルミとこうして一緒に仕事するのが」

「なんで?」

見苦しいからやめろ、と囁く声が聞こえた気がした。
イルミには自分の気持ちを伝えたことはなかったし、彼だって気づいていないだろう。
よしんば気づいたとしても、彼にはどうでもいいことだ。
仕事に支障さえでなければそれでいいし、支障が出るようならパートナーを変えればいい。
だから、こんな個人的な話をするのは、ひどく馬鹿らしいように思えた。

「…結婚、するんだよね。たぶん」

「…ふぅん、一応パートナーなんだからさ、そういうことはもっと早くにいうべきじゃない?」

「ごめん……」

確かにイルミの言う通り。
だけど今日までどうしても言えなかったのだ。
言葉の割には彼は別に怒っている風ではなくて、ほっとする反面少し悲しかった。

「そういやナナっていくつだっけ?」

「21」

「お前もどうせお見合いだろ?」

「…そう。親が決めたから……」

私は一体なんと言って欲しくて、こんなことを言い出したのだろう。
イルミは相変わらず表情一つ動かさなかったが、彼がおめでとうと言ってこないのがせめてもの救いだ。
暗殺を生業としている家にとって、政略結婚やお見合い結婚は当たり前。
きっとナナが知らないだけで、イルミにもたくさんの縁談の話が来ているだろうし、遅かれ早かれこういう別れが来ることはわかっていた。

「ま、直接組むことはなくなっても、またどこかで会うかもね」

「うん……もう依頼人を殺されちゃうのはこりごりだな」

へら、と笑ってナナはじゃあね、と言った。
今度は私から立ち去ろう。

ずっとずっと好きだった。
傍にいられるだけでよかった。
でも、貴方を追いかけるのも今日で終わり。

振り返らないと決めて、ナナは会場をあとにした。


一人になると、自然と涙が頬を伝う。
静かに流れていた涙は、やがて呻くような嗚咽へと変わった。


***


─うん……もう依頼人を殺されちゃうのはこりごりだな

そう言って弱々しく笑った彼女の言葉にハッとした。

なんだ、覚えてたの?
そう言う間もなく、じゃあね、と彼女は立ち去る。
いつものように自分もじゃ、と返そうとして、そこにはもう「また今度」の意味が含まれないのだと今更になって思い知った。

「イルミ様、いかがされましたか?」

「…なんでもない」

イルミはこの後、連続して違う仕事へと行かなければならない。
そのため、会場からかなり離れたところに停泊させていた私用船に乗り、次の現場へと向かう。
だから道中は一眠りする予定だったのに、なぜかナナのことばかり考えてしまって眠れなかった。


あれは確か、5年くらい前だったと思う。
先ほど聞いた年齢から考えて、幼く見えたがあの当時ナナは16くらいだったのだろう。

ターゲットを暗殺してさぁ帰ろうという段になって、わずかながら感じられた人の気配。
それも普通の人間ではないことくらいすぐにわかって、イルミは影からそいつの様子を伺った。

結局、現れたのは女だった。
死んでいるターゲットを目の前に、どこか途方にくれた様子で。
おつかいを頼まれた子供がメモをなくしてしまったかのように、その背中は頼りなく見えた。

だから、力試しも兼ねてちょっと攻撃を仕掛けてみる。
単なる好奇心だった。
あの若さで同業者なら、彼女もきっと家が暗殺稼業なのだろう。

しっかりと針をかわした彼女はぶわりと警戒のオーラを纏わせ、まぁこんなものかな、とイルミは満足した。

「…へぇ、よけるか。
死体を見ても悲鳴を上げないようだし、もしかして同業者?」

わかりきっていたことだが、あえてそう聞くことで自分も暗殺者なのだと伝えようとした。
だから別に危害を加える気はないと。まあ、さっき針を投げたところだから信用しろというのも難しい話だったが。

「悪いね、あんたの依頼主は死んだ」

話しかけてみても、返事はない。
ただ距離を詰め、互いに顔がはっきりと見えた瞬間、彼女を覆っていた警戒のオーラは霧散するように消えた。

それは驚きか、困惑か。
もしかして彼女はオレが何者であるか顔を見ただけでわかったのかな。
でも表情には絶望の色はなかった。
だから、もしかして依頼主を殺されたからそんな態度なのかなと考えた。

「……なに?その顔は。早い者勝ちなんだから仕方無いだろ」

どうせなら何か言えばいいのに。
そう思った自分にあれ?と思って首を傾げる。
だけどまぁ、このままここにいたってどうしようもないのだから、オレは今更ながら帰らなければと思い直し、じゃ、と短く告げてその場を去った。

─じゃ、またね。

不思議とその時、彼女とはまたどこかで会うような気がした。
そして、その予感は3年後、見事に的中した。
もともとゾルディックに下請けのようなものがあるのは知っていたが、実際イルミ自身がそこまで関わったことはない。


けれどもある日、仕事でどうしても女のパートナーが必要になって、それで優秀だという一人がオレの仕事に付き合うことになった。

「イ、イルミ様、宜しくお願いいたします」

……2回目の方がガチガチに緊張してるなんてどういうことなの?
会ってすぐにあの日の彼女だとわかった。
いや、会うまで忘れていたくせに、会った瞬間思い出した。
だけど彼女の方は気づいていないみたいだから、あえて言うのもなんだし黙っていた。
ナナという名のその女は、とても一生懸命で、命令には忠実、仕事の手際もいい。

昔、依頼主の死体を前に途方に暮れていた彼女と同一人物とは思えない働きぶりに、イルミは内心驚いた。
そして何度か仕事を一緒にした後で、まぁ彼女ならいいかと思った。

「お前さ、その堅苦しい喋り方やめなよ」

「…ですが、そういうわけにも」

「ねぇ、ゾルディックの下請けなんか辞めたら?」

「えっ?」

「ゾルディックじゃなくて、オレと組まない?悪くない話だと思うけれど」

そう提案した時のナナの驚いた顔と言ったら。
いつも、どちらかといえば目を合わせない彼女だったが、その時ばかりは大きく目を見張ってこちらを見る。
それから、ふわっ、と嬉しそうに笑った。
緊張してない、素の笑顔を初めて見た。

「…いいんですか?」

「お前ほどの腕があって、下請けなんて勿体無いと思っただけ」

「…ありがとうございます!」

堅苦しい喋り方はなし、と言ったのに、彼女は深々と頭を下げた。
注意しようかと思ったけれど、次に顔をあげた彼女の瞳が潤んでいて、なんとなく言うのはやめた。

そんなに嬉しかったのかな。
ナナの家は小さかったけれど、彼女の頑張りのおかげで今やそこそこ名も知られている。
だから普通に考えても、いつまでも下請けなんかやってるのはおかしかった。

別に、オレが個人的な感情でそうしたかったわけじゃない。
彼女が組んで仕事をするに値しただけだ。

……そう、思っている。


**



「…それにしても、結婚か」

正式にビジネスパートナーになってからは、ナナと会う機会も増えた。
お互い口数も少ないし、ナナはあまり仕事以外の話はしない。
だから今回、彼女が個人的な話をしたのは初めてで驚いた反面、なぜもっと早くに言わなかったのかとも思った。

「…次に使えそうな奴、探さなきゃ」

腕が良くて、忠実で、鬱陶しくなくて……
そうやって条件をあげていけば、ナナはオレにとってなんだったんだろうと思う。
これじゃまるでパートナーというより道具だ。
……いや、道具であってなんの問題があるんだろう?

イルミはため息をつくと、執事に珈琲を持ってくるように言いつけた。
いつもは紅茶を頼むことが多かったが、今日はなんとなくあの苦さが欲しい。
一度も振り返らずに目の前を去った彼女の背中を思い出すと、ぽっかりと胸に大きな穴が空いたかのような虚無感に襲われた。

─じゃあね

さよなら、と言わなかったんだから、また会えるよね?
たぶん、ナナと同じくらい腕の立つ奴は、探せば他にいるだろうとは思う。
忠実な奴も、鬱陶しくない奴もいるだろうし、なんならナナよりもさらに優れた人間だっているだろう。
だけど、やっぱりそれではナナの代わりにはなれないような気がした。

イルミは運ばれてきた珈琲を一口だけ飲むと、そのままテーブルへと戻す。
やっぱりいつもの紅茶がいい。

携帯を取り出すと、彼女宛にメールを打った。
いつも電話で済ますのが当たり前だったから、聞くだけ聞いて使ったことのなかったアドレス。

─式はいつ?

メールなんて我ながらまどろっこしいやり方に、イルミは呆れながら送信画面を見つめていた。


**



─式はいつ?

初めてイルミから来たメールは、ひどく素っ気ないものだった。
その簡潔なまでの文章は彼らしいといえば彼らしいし、メールというあたりが彼らしくないとも言える。

これまでだったら連絡が来るだけで嬉しかったナナでも、流石に素直には喜べなかった。

「ナナ、相手方に失礼のないようにね」

「はい、わかっています」

純白のウエディングドレスに身を包んだ私を見て、母親はとても嬉しそうだった。
おかしな話だが、相手には今日式場で初めて会う。
同業としてそれなりに聞いたことある家柄だったし、顔写真も見たが、特に嫌だと思うような点はなかった。
そう、イルミのことを除きさえすれば。
でも、そのイルミのことと言ったって、所詮叶わぬ片想い。
ナナだって政略結婚は当たり前のことだと思っていたし、まぁ無難に済ませられればそれでよい。
鏡の中の自分は、決して不幸せそうではなかった。

たとえ結婚してしまっても、自分がイルミを好きなのは変わらないと知っていたからだ。
これまでもこれからもきっと変わらない。
変われない。
5年前の自分に戻るだけ。
ひたすらに遠い彼のことを想うだけの日々に。

式の日取りは伝えたが、彼は果たして来るつもりなのだろうか。
いつもどおり表情一つ変えずに、形式めいた祝いの言葉を述べるのだろうか。

そう考えると、すっかり摩耗してしまったはずの悲しみが再び胸のうちを満たした。

じゃあね、なんて曖昧な言葉ではなく、ちゃんとさよならと言えばよかったと、今更ながら後悔した。

母も母で色々な準備があるのだろう。
1人控え室に取り残されたナナはぼうっと、これまでのことを考えていた。


イルミが組まないか?と言ってくれた時のこと。
たぶんあれが人生で一番幸せな瞬間だったように思う。
嬉しくて嬉しくて、馬鹿みたいだけど死んでもいいとすら思った。
それまでだって少しでも彼の役に立とうと頑張ってたつもりだったけど、パートナーになってからはもっともっと頑張ろうと思った。

イルミは感情をあまり表に出さない。
仕事以外の話をすることもないし、一緒にいたけれどあまり彼のことはよくわからなかった。
そうだ、思えば私は彼のことをあまり知らない。
本当に今更だけど、恋人だっていたかもしれないのだ。

そう考えると、私の結婚が先だったのはまだマシだったのだろう。
私がそうしたみたいに、ある日突然、「そういや、オレ結婚するんだよね」と告げられる方が辛いに違いなかった。



やがて、悲しみは目に見える形となり、ぽたり、ぽたりと音を立ててウエディングドレスに吸い込まれていった。
たかだか自分の想像で泣くなんて重症すぎる。
泣いたら化粧が崩れるからと、瞬きをこらえて我慢していたけれど駄目だった。
視界が歪み、光を受けてキラキラと輝く。

ひとしきり泣いたあとナナは立ち上がり、恐る恐る扉を開けて廊下を覗いた。
式が始まるまでに、この顔をなんとかしなきゃならない。
誰かに声をかけて、メイクの人を呼んでもらおう。

だが予想に反して、廊下には誰もいなかった。
それどころか、色んな部屋を回って探してみても人っ子一人いない。

式まではもう時間がない。
ウエディングドレスで、うろうろするのは良くないとは思ったが、仕方なくナナは人が居そうな広間の方へと向かった。
広間へ行く途中も、やはり誰にも会わなかった。
ここまでくると流石におかしい。

母の携帯にもかけてみたが全く繋がらず、ナナは徐々に不安になってくる。
いくら派手な結婚式ではないとはいえ、それなりに招待客もいるはずだ。
何か良くないことが起こったのだ、とナナは焦る心を必死で落ち着け、広間に繋がる大きな扉をゆっくりと開いた。

「……っ!?」

他に、ひとけのない部屋の中央に横たわる男の姿。
いちいち顔を見なくてもわかる。
今日この日に白いタキシードを着る人物は、一人しかいないからだ。

ナナは驚いて彼に駆け寄った。
なぜ?という思いで頭がいっぱいで、ほとんど反射的に脈を確認する。

─よかった、生きてる

そう思った瞬間、刺すような殺気とともに何かがこちらに向かって飛んできた。

「ちなみに聞くけど、もしかしてその男も同業者?」

動きづらいドレスのせいで危なかったが、それでもナナはきちんとかわす。
床に深々と突き刺さった針は、声を聞くまでもなく誰のものかわかった。

「…イルミ、どうして?」

まるであの日を繰り返しているようだった。
でも、姿を現した彼は仕事の服ではなく一応正装をしていて。
昼間であるため、初めからお互いの顔は見えている。

「悪いね、お前の夫は大したことなかったよ」

「…」

「…なに?その顔は。怒ってるの?驚いてるの?」

イルミはそのまま一歩一歩近づいてきて、ナナはどうすればいいのかわからなかった。
別に怒ってなどいない。
婚約者は死んでないし、ただひたすらに困惑しているだけだ。
正面に立ったイルミは、ゆっくりと片手をこちらへ伸ばした。

「…泣いたの?」

彼のひんやりとした手のひらが頬に触れ、ハッとする。
慌てて俯こうとすれば、それを遮るようにもう片方の手も頬に添えられた。

「ちゃんとこっち見なよ」

「ど、どうして……」

「ねぇ、こんな弱い男と結婚するのやめたら?」

彼が何を言っているのかわからない。
ナナが誰と結婚しようとも、それこそ相手がどんなに弱い男であろうともイルミには関係のないことのはずだ。
けれども、一度合った視線は外すことができなかった。
やがて、今の状況を思いだしかのように心臓がすごいスピードで拍動を始める。

イルミはにこりともせずに、ナナを見つめていた。


**



「こんな奴じゃなくて、オレと結婚しない?悪くない話だと思うけれど」

そう提案した時のナナの驚いた顔と言ったら……

いよいよ教えてもらった式の日、イルミは迷っていた。
自分がどうしたいのか、もう答えはでているはずなのに、なんとなく気が引ける。

それは今まで、彼女のプライベートなことは全く聞いていなかったためだろう。
親が決めたといいつつも、彼女も今回の結婚に納得しているのかもしれない。
しかも、女にとって結婚式というものはとても重要なのだと母さんは言っていた。
だからそれを台無しにしていいのかわからなかったが、もうチャンスはこれきりなのだと思えばやるしかなかった。

「…イルミ、何を言ってるの?」

「何って、プロポーズしてるつもりなんだけど」

「………なんで?」

なぜ?という疑問は当然だと思う。
今まで二人でいても、そういう雰囲気になったことは無かった。
イルミ自身も、彼女が結婚すると聞くまで特に意識をしてなかった。
傍にいるのが当たり前で、してもらう事ばかりに慣れていて、彼女が離れてしまうまで気づかなかった。

「…中毒、みたいなものかな?」

他の奴とも組んで仕事をしてみたけど、やっぱり駄目だった。

「ナナがいないと落ち着かない」

その言葉にまたも驚いたように瞬きを繰り返す彼女だったが、前と違って微笑まない。
微笑む代わりにみるみるうちに、瞳に涙の薄い膜が広がる。

「嫌?」

イルミは手を離して首を傾げた。
ナナは答えない。
代わりに大きく首を振った。

言葉はなくても、それだけで十分だった。

「そ。よかった…」

実のところ、結婚式を中止にさせるのは思ったよりも容易かった。
突然白紙にしろと言われて面食らっていた親族たちも、オレが誰かわかるやいなや押し黙ったし、そしてこの男、ナナの夫になる予定のこの男も簡単に気絶させることができた。
たった一つ不安だったのは、まさにそのナナの反応だった。

「……初めて」

「え?」

「初めて会った時から、好きだった……」

絞り出すようにして言葉を発する彼女は、今まで見たことがないくらい儚げで綺麗だった。
そして、じゃあ彼女は5年も前から想ってくれていたのかとやっと気づいた。

「…それは、知らなかったな」

「うん…でも、ずっと叶わないと思ってたし、それでもいいと思ってた…」

だからね、と彼女はようやくそこで微笑む。
目もとが涙でキラキラと光り、思わずそれに見とれた。

「信じられない…夢みたい……このまま死んでもいいって思う」

「何言ってるの、死んだらオレが困る」

「そうだね…」

ぎゅっ、と彼女を抱き締めれば、彼女の方もおそるおそるといった感じで抱きしめ返してくれる。

─やっと取り戻せた

なぜかそんな気がした。

「う……ううっ」

「あ、そろそろ起きるね」

元新郎のお目覚めだ。
彼には悪いけど、殺さなかっただけ褒めて欲しいくらいだな。
倒れてるこいつにナナが駆け寄るのを見たとき、一瞬本気で殺意が湧いたんだから。

「…どうするの?」

「どうするって、普通にナナは貰っていくけど?」

オレは白いタキシードじゃないけど、まぁいいか。
少しだけ彼女から身を離し、驚く彼女に素早く口づける。

「…イルっ」

「早い者勝ちだから、仕方ないだろ」

彼女が耳まで真っ赤になるのを見ているのは面白かったが、今はそれどころではない。
ふわり、と彼女を抱き上げると、男が目を覚まさないうちに式場を抜け出した。

「さよなら」

もう二度と会うことのないだろう人間には、その言葉が相応しい。
そして、その言葉を彼女に告げることはないのだろうと思った。

「ナナはどこにも行かせないから」

イルミは腕の中の彼女のぬくもりに、胸のあたりが暖かくなるのを感じた─。




End

++++++
虹彩さん、リクエストありがとうございました!

イルミに一目惚れした夢主がなかなか想いを伝えられないまま、親に決められた婚約者とイルミの間で揺れる話……ということでしたが、あまり揺れてないですね(;^ω^)
しかも短編のくせにすごく長くなってしまい、読むのが大変なことに。

シリアス好きな私としては楽しく書かせて頂きましたが、同じように楽しく読んでいただけると幸いです(*´∀`*)
リクエストありがとうございました!

[ prev / next ]