- ナノ -

■ ▼ブラッディメアリー

「ん…待って、ここじゃ嫌。そんな慌てなくたっていいでしょう?」

腰に手を回してくる男をやんわりと押し止め、ナナは男の耳元で囁く。用意された部屋は下調べの時同様豪華な内装で、キングサイズのベッドが綺麗にメイキングされていた。

「あ、あぁ、そうだね」

既に興奮しきっている男はそれでも余裕ぶって笑って見せると、ナナをゆっくりとベッドに押し倒す。「遅い」そのまま覆い被さってきた男はもう絶命していて、ナナは文句を言いながら身体をずらして起き上がった。

「もう来ないかと思った」

「オレが?」

チラリと視線を走らせると、男の後頭部に長い針。いつの間にか部屋の中に立っていたイルミはそれをすっ、と抜くと、乱れた服を整えるナナを見下ろす。長身のせいか、それとも彼の纏うオーラのせいか、部屋の中が薄暗いように感じた。

「そもそもオレのターゲットなんだし、来ないわけ無いだろ」

「遅いから本番始まったらどうしようかと思った」

「そう?ナナも結構ノリ気に見えたけど?」

「そんなわけないでしょ。イルミが来なきゃ自分で殺ってた」

ノリ気に見えたのだとしたら、それはこっちの演技が上手いのだと褒めて欲しいくらいだ。「で、こんなに時間がかかったってことは、私のほうのターゲットも殺ってくれたの?」

ナナのターゲットは女性で、今ここで死んだ男の愛人である。男は愛人が邪魔になって暗殺者を差し向け、その男は自分の本妻から依頼される、だなんて世知辛い世の中だ。
ナナとイルミはお互いの仕事がやりやすいよう、異性のターゲットが相手となる形に仕事を交換したのだった。

「オマケでね。ついイラッとしたから」

「でも、お金は先払いで貰ってるからイルミにはあげないよ」

目の前のイルミに手を伸ばすと、彼はややあってからその手を取った。「別にいらないし」単に立ち上がらせてもらうつもりが思いのほか強い力で引っ張られ、すぐ目の前にイルミの胸板が迫る。
けれどもナナはギリギリで止まると、何事もなかったみたいに手で自分の髪を梳いた。

「ならいいけど」

「……」

お互いのターゲットが死んだ以上、今日の仕事はこれで終わりだ。ここはホテルの一室だからすぐに逃げなければならないわけでもなかったが、暗殺を終えていつまでものんびりしているのも変な話。
しかしどちらも終わり、じゃあね、なんて言葉を口に出さず、何をするわけでもないのにグズグズとしていた。

「……イルミ、仕事は?」

「今終わったけど」

「そうじゃなくてこのあと。何もないの?」

ナナは大きな窓の方に近づいていくと、眼下に広がる夜景を見下ろす。流石ゾルディックに依頼するだけあって、見晴らしのいい部屋を取ってくれたものだ。

時計を見ればまだ23時。夜はこれから、暗殺業もこれから、というところだろう。
早く次の仕事に行けばいいのに、なんて望んでもいないことを考えた。

「だから今終わったって」

「ふーん、じゃあ暇なんだ?」

「暇じゃないよ、これから久々飲みに行くから。ナナこそ暇なら来れば?」

「……一人は可哀想だから付き合ってあげる」

振り返ったナナは、そのままイルミの隣を通り過ぎ部屋の出口へと向かう。
フロントを通る際、行きと帰りで連れている男が違っては怪しいため、こうすることが普通だった。

「ホテルを出て東に向かって。すぐ追いつくから」

「わかった」

ビジネスはこれで終了。だが、逆に落ち着いて振る舞えるのはビジネスという大義名分に守られている間だけ。
束の間一人になったナナは深呼吸をし、あえてヒールを鳴らして夜の街を歩いた。




「……何か面白い話してよ」

カウンターで隣に並んで、何を話すわけでもなくグラスを傾けているのは少し居心地が悪かった。
イルミとはもうかれこれ3年の付き合いで、敵味方立場は様々だが仕事も何回か共にしている。彼は基本的に家族ぐるみの殺し屋だから誰かと組むことに慣れているのかもしれないが、ナナが一緒に仕事をするのはイルミただ一人だった。

「面白い話?
うーん、じゃあ弟が」「ほんと弟好きだね」

遮ったのはそんな話をして欲しいわけじゃないから。
自分から話せと言ったくせに我侭だが、いい歳の男女がお洒落なバーカウンターでする話とも思えない。
だいたいイルミもイルミだ。あのゾルディックに仕事が無いなんて、故意に予定を開けなきゃそんなことがあるはずがない。
一緒に仕事をするようになって回を重ねるごとに、仕事以外で会うことも増えてきた。
具体的に約束をしたわけでもないのに、仕事の後は特に……。

「そう?普通じゃない?家族なんだし」

だからイルミだって満更でもないのだと思う。ヒソカがいつも揶揄してくるように、少なくとも嫌われてはいないはず。けれども表情の読めない彼が何を考えているかも読めなくて、ナナは当たって砕けることもできずにいた。
勘違いだったら恥ずかしいし、そもそも言うのなら男の方から言って欲しいし。

店に流れる心地いいBGMを聞きながら、ナナはゆっくりとした動作で頬杖をついた。

「イルミの家族は幸せねー……あ、そうでもないか」

「失礼だね、試しにナナが来る?お互い暗殺業なんだし問題ないでしょ」

「…馬鹿言わないで、私家業がこんなのでも恋愛結婚を諦めてないの」

動揺を誤魔化すようにグラスに口をつけた。
今のは他愛ない冗談?それとも本気?
ちらりと横目でイルミの表情を伺うが、相変わらず憎いくらいの整いようである。

紛らわしい。ナナがそれでもその横顔から視線を逸らせずにいると、大きな黒目がくるりと動いてばっちりと目が合った。

「恋愛結婚なんて言ったってさ、浮ついた話もないくせに」

「いちいちイルミに言わないだけよ」

「ふーん。
で、いるの?そういう相手」

「……そういう相手って、恋人ってこと?」

「恋人じゃなくても、ナナの一方通行でもなんでも」

イルミはちょっと首を傾け、肩にかかった髪をさらりと後ろに流した。他の人なら重たそうにさえ見える長い黒髪が、彼のものだと滑るように軽やかである。
流れていく髪を無意識のうちに目で追いながら、ナナは「いるよ」なんて口に出していた。

「いるけど、いるだけ」

「…なにそれ」

「今の関係で結構居心地いいし。
っていうか自分から言うの、嫌でしょ」

本当はそれに加えて関係を壊すのが怖かった。今の仕事仲間と友人との間、そしてほんのちょっぴり意識しあってる関係が、もどかしくて苦しいのに嫌いではなかった。

「だから絶対好きだって言ってやらない」

ナナはイルミの瞳の中の自分に、宣言するように言う。
気づけばグラスの中身は空っぽになっていた。


「……意地張ってたら勿体ないのにね」

それを聞いたイルミは呆れたように呟いて、少し視線を遠くにやる。「言いなよ」そして新しくお酒を頼もうとしたナナを遮って、はっきりとそう言った。

「え…嫌だって」

「じゃあせめて、言われたときくらいは言いなよ」

「言われたとき…?」

イルミが珍しく言葉を濁すから、周りの時間もゆっくり流れているように感じる。わかったようなわかってないような、ぬか喜びをしたくはない乙女心が、いつもと変わらぬ調子で疑問を投げかけさせた。


「…だからオレ、ナナのこと好きなんだけど、それでも言ってくれないの?」

「…っ」

どこか苦々しげに返された答えは、彼なりの照れ隠しだとすぐにわかって。
それでもまさか本当に言ってくれるとは思っていなくて驚いた。

「…何その顔。まさかオレじゃないとか言わないでよね。あんなに思わせぶりなくせしてさ」

「…思わせぶりだなんて、そんなことしてない」

「……で、返事は?言ったんだから、今更引くつもりないよ」

口ではそう強気なことを言いつつも、あまり目を合わせないイルミの腕をぐいと引く。一瞬虚をつかれたような表情になった彼に向かって、ナナはにっこりと笑った。

「好きだよ」

「……そ。待ってないで言えばいいのに、意地っ張り」

「その台詞、そっくりそのまま返すよ」

「……」

好きだと言ったところでそれなりに長い付き合いだ。いきなりキスをするわけでも、すぐに何かが変わるわけでもない。
それでもこれからは別れる時に、次はなんて仕事の理由をつけて会おうかな、だなんて悩む必要はなくなったのだ。

「ブラッディーメアリー、2つ」

ナナが頼んだ、血のように真っ赤なそれは暗殺者たちにふさわしい。イルミはそのカクテル言葉を知っていたのか、グラスを手に取って少し眉を寄せた。

「先に言ったオレは負けってこと?」

「ちゃんと二つ頼んだじゃない」

「言わなきゃよかった…」

「今更引くつもりないって言ったのは誰?」

ナナもグラスに手を伸ばし、胸の高さまでそれを持ち上げる。

─勝利の表明

300人ものプロテスタントを処刑した女王の名前のカクテルには、確かそんな意味もあった。

「…ホントに引かないからね。後悔しても知らないから」

「後悔なんてしないよ」

ずっとこの時を待っていたんだから、後悔なんてするはずがない。
ナナは持ち上げたグラスを目の高さまで軽くあげ、にっこりほほ笑んだ。

「「乾杯」」


END


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