- ナノ -

■ ▼悪い人ではないけれど

兄貴が珍しく私服を着ている……。

廊下の向こうに苦手とする長兄の姿を見つけたキルアは、ほとんど条件反射のよう立ち止まる。いつもならそこでなるべく迂回するようにしているのだが、今日はその兄の格好がいつもと違うことに興味を惹かれたのだ。

基本的に仕事人間な兄は休日なんてほとんどないし、だいたい見かける時は仕事着。それ以外は比較的ラフな格好をしていることもあるが、今みたいに出かけます、と分かりやすい格好をしているのを見るのは初めてだった。

まあ有り体に言うと普通の人のようにお洒落をしている、兄の姿に驚いただけなのだが。

そして驚いたまま凝視していると、兄はそのままこちらに近づいてくる。いつもならここで「訓練は終わったの?」だの「ゲームばっかしてちゃだめだよ」だの母親ばりの一言がとんでくるのだが、今日の兄貴はやっぱりおかしい。
自分の横を何も言わずに素通りしていくその姿にほっとしつつもそれはそれで不気味で、キルアは我慢ができなくなって自分から声をかけた。


「イ、イル兄、どっか行くの?」

どこかに行くのは一目瞭然である。問題はどこへ。もっと言うなれば誰と、だ。
本来なら兄のことなんてどうだっていいんだけれど、普段自分が干渉される分こういう時こそ詮索してやりたくもなる。
だいたい兄貴には一緒に遊びに行くような友達なんていないはずなのに……。

声をかけられた兄はまるで今しがたこちらの存在に気付いたかのように、ゆっくりと振り返った。

「あぁ、うん。そうだけど」

「……仕事?」

「違うよ」あぁ、もうわかってんだよそんなことは。

ここ一番で核心をつけないキルアは自分のことながらもどかしくなる。「じゃ、どこ行くんだよ?」あの兄貴が、と付け加えそうになって慌てて誤魔化した。

「どうしたの、キル。兄ちゃんがいないと寂しい?」

「バッ、そ、そんなんじゃねーよ。ただ…珍しいな、と思ってさ」

「ふぅん、ま、確かにここんとこずっと仕事ばっかりだったからね。ちょっとデート」

「デ、デート!?」

耳慣れない言葉過ぎて眩暈がしてきた。兄貴がデート……。あの、兄貴が。女っ気なんて全然なくて母さんが勧めるお見合いも軒並みシャットアウトしてきた兄貴が……デート?

思わず今日はエイプリルフールかと思えど、そんなわけはないしそもそも兄貴はそんな冗談は言わない。キルアがどう返してよいものやら固まってしまっていると、いつになく浮ついた様子で兄は「じゃ、いい子にしてるんだよ」なんて言って歩いて行ってしまう。


「ど、どうなってんだよ……」

キルアはその場に立ち尽くしたまま、呆然と兄の後姿を見送った。





「あ、イルミ早いね、ごめん」

「ううん、オレが勝手に2時間前に着いてただけだから」

「に、2時間!?」

今日は仕事の関係上、知り合いで腐れ縁のイルミと買い物に行くことになっていた。
実はナナは趣味としてナイフを集めるのが好きで、いい店があると言ったイルミに是非教えてくれと頼んだのだ。
中でもベンズナイフを置いている店は数少ないし、プロの暗殺者である彼の紹介なら品質の方もばっちり。ただいちげんさんはお断りなようで、こうしてイルミに付き合ってもらっている。

だが、楽しみにしていたナナが15分前に待ち合わせ場所に着くと、もうすでにイルミがいるではないか。
しかも彼に「今来たところ」と言う気遣いなんてあるはずもなく、遅れたわけではないのにかなり申し訳ない気持ちになった。

「なんでそんなに早く…っていうか、イルミの私服初めて見たかも」

改めてまじまじと見てみると、スタイルもいいしモデルばりの美形。今まで変な格好をしていたし暗殺者だという先入観があったが、こうして普通の格好をしているといい男だ。ちょっとドキドキする。

「あんまり見られてもなんだけど」

「そ、そっか、ごめん」

だが、自分は特にいつもと変わらぬ服装のため、もう少しお洒落をするべきだったと後悔した。現に周りの視線は不釣り合いだ、と言わんばかりに自分に注がれているのだ。

「じゃ、どこに行こうか?」

「へ?」

ちょっと待った。ナイフの店はどうしたの?と尋ねるとイルミは可愛らしく首を傾げる。「それは今日じゃないと駄目なの?」「え、いや……」ただのコレクションなのですぐに入り用というわけではなかったが、それなら今日何をしに来たのかわからない。

返事に詰まっているとイルミはまじまじとこちらを見てきた。一瞬動揺したがこちらに非はないはずなので負けじと見つめ返す。「な、なんなの…」あ、反らした。なんか今日のイルミ変。

そして目を反らしたイルミは急に何も言わずに歩きだした。歩き出したかと思ったらまたすぐ急に踵を返して、ぽかんと突っ立っていたナナの腕をとる。無言……よりもとりあえずは掴まれた腕が痛い。

「……イルミ怒ってる?」

「別に、なんで?」

「いつも以上に喋らないから。あと目もあんまり合わせてくれないし」

「そんなことないよ」

まぁ確かに元々喋らないから、そう言われるといつも通りな気もする。ナナには残念ながら、イルミ変だよ!と食い下がる勇気もなく、腑に落ちないながら腕が痛いとだけ訴えた。

「あ、ごめん。繋いだ方がよかったよね」

「繋ぐ…?」

「はぁ、本読んで勉強したのに全然生かせないや」

「勉強…?」

びっくりするくらい会話が噛み合わない。イルミは誰と喋っているんだろう。もしかしてこれは声の大きい独り言なんだろうか。

「……で、結局今はどこに向かってるの?」

もうこの際イルミの状態がどうだろうと構いやしない。深く考えてもどうせわからないなと諦めて、一番聞きたかったことを尋ねると彼はまた突然ぴたりと足を止めた。手を繋がれているわけだから、ナナは思わずつんのめる。さっきからなんなのよ、一体。

「映画館と遊園地と夜景と水族館とショッピング」

「んん?」

「嫌?一応人気そうなとこ調べたんだけど」

「何の」

「何ってデートの」

「デート?」

「付き合って、ってナナが言った」

「私が?」言ってないよ、そんなこと。

どういうことだ?とナナは必死で脳を回転させて、ふとある答えにたどり着いた。
もしかしてイルミは何か大きな誤解をしているのではないか。ナナが付き合ってほしかったのはそのいちげんさんお断りのナイフの店だったのだが……。

「付き合って、ってナナが言った」

しかしイルミは駄々をこねるみたいに、同じことをもう一度繰り返しただけだった。「いや、私が言ったのはね、そういう意味じゃなくて…」「言った言った言った言った言った言った言った」「怖いよ!!わかったから!」「言ったよ、ナナは」

─嘘だったの?

首を傾げるイルミはいつものようなきょとんとした表情ではない。確実に目をきゅっと吊り上げて怒っている。ナナがどうやってこの場を切り抜けよう、と焦っていると、イルミは突然「あ」と声をあげた。

「ナナがやり直したいならそれでもいいよ」

「え…?いいの?じゃあひとまず誤解なんだけど…」

「うん、わかった。好きだよナナ、付き合って」

「何が?何がわかったの?」

「オレから言って欲しかったんでしょ」

「……」

何を言ってももう無駄な気がして、ナナは深い溜息をついた。っていうか、イルミが自分のことを好いていてくれたなんて知らなかったし。今更ながら好きと言われたことに、逃げ出したいくらい恥ずかしくなる。
それに全てがわかったうえで彼の行動を顧みるとなかなかに可愛げがあった。本で勉強してきて、2時間も前から待ってて、目が合えば反らして……。

「……わかったイルミ、映画館と遊園地と夜景と水族館とショッピングに行こう」

「うん」

「だけど一日じゃ無理だから、何回かに分けようね」

付き合うんだったら、これから何回デートしてもいいでしょう?

照れながらもそう微笑んだ瞬間、繋がれた手に激痛が走る。「痛っ!!痛い痛いイルミ痛い!!」「あ、ごめんつい…ドキドキして」

じゃあ今日はどこにする?なんて何事もなかったように言ったイルミの肩にナナは鞄をぶつけた。「病院!折れた!イルミの馬鹿!」「涙目も何かクるものがあるね」「やっぱ訂正、イルミ可愛くない。ついてこないで!」

彼の行いを非難したところで、きっとイルミの脳内はまだお花畑状態なのだろう。人が本気で痛がってるのに、それを見てうっとりするな。頼むから変な趣味に目覚めないでね。


結局その日はナイフも買えず、代わりに危ない恋人ができ、即日病院送りになったナナであった。


「もう二度と手なんか繋がない!」

「え、もう次の段階に進みたいの?ははは、ナナってば大胆だね」

「……毎回病院デートにしよっか。イルミ精神科ね」

「え?なんで?」

病院のデートプランなんてどこ探してもないんだけど…とぼやくイルミは悪い人ではないんだと思う。
ナナはギプスで固定された右手に視線を落とすと、利き手なのにこれからどうしようかと頭を悩ませた。

「あ、うちにおいでよ、オレが世話してあげる」

「遠慮します、帰れなくなりそう」

イルミだったら監禁とかそれ以上のことも躊躇いなくやってしまいそうだ。変なフラグが立ってしまいそうになって断ったのに、イルミはもう早速その気みたい。

「心配ないよ、今すぐ執事に連絡して色々用意させるから」

「…いいって言ってるのに」

「うん、いいよね」

「……」


本当にこの男は。

End


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