- ナノ -
何事もなく初日の晩が過ぎ、二日目の昼を過ぎても、ナマエはリビングに顔を出さなかった。まさか、イルミの言った「入ってきたら攻撃する」という言葉を律儀に守っているわけではないはずだから、単純に顔を会わせるのを避けているのだろう。
何度か空色着物の女を呼びつけていたようなので、もしかしするとナマエは本格的に寝室に引きこもるつもりなのかもしれない。呆れるくらい、子供じみた振る舞いだった。だが、彼女が反発心だけでそうしているのではないことくらいは、これだけ長い付き合いをしていれば分かることでもあった。
――私、お父さま相手だったら……仕事でもいやだな、って思ったの
昨晩、馬鹿正直にそう言ったナマエは心底困惑しているようだったが、イルミとしてはこれではっきりしたじゃないか、という気分でしかなかった。ナマエがシルバに向ける強い眼差しは、確かに恋慕にも似ているだろう。だが、あくまで恋慕に似ているだけで、男女の色恋ではないということだ。拾われた恩から神格化しているのか、父親という存在に固執しているのかは知らないが、神や父親と”そういうこと”をしたいと思わないのは、至って正常な発想ではないか。
あまりにナマエが強い感情を向けるものだから、最初はイルミも疑ってしまったが、蓋を開ければ答えは単純だ。特殊な性癖でもない限り、普通は父親とセックスなんてしたいわけがない。ナマエがシルバに父親であることを望めば望むほど、男女関係への忌避感は強まるに決まっている。ナマエはいい加減、自分で”これが恋ではない”と気づくべきだ。
そこまで考えて、イルミは吐き出すようにため息をついた。
――私も、仕事ならぎりぎり……と思う
ナマエは馬鹿だな、と改めて思う。イルミも似たような答えを返したが、それはもうイルミがナマエのことを”妹”だとは思っていないからだ。ナマエの視点で言えば、シルバもイルミも血の繋がりなんてないのに、片方はよくて片方はだめ。あの様子では自覚がないのだろうが、結局”家族”としてみているか、”男”としてみているかという話に落ちる。
とんでもない告白をされたものだな、と思った。イルミが思い込みで”妹”として扱っていた間も、彼女はイルミのことをしっかり”異性”だと認識していたわけだ。
イルミは私とずっと一緒よ。ずっとずっと遠くに行っても、私から離れないで。
”兄”だと思っていないうえで、あんな甘えを見せていたわけだ。
「……本人が気づいたらの話だけど、恥ずかしくて死ねるね」
ほんの少し、ざまあみろ、と思ってしまうのは散々振り回されたイルミからすれば仕方のないことだった。ナマエが妹ぶらずに過ごしていれば――もっと自分自身の事をよく理解していれば、おそらく父もここまでの強硬手段を取らなかったのではないか。逆に、父には確信があったからこそ、こんな形で無理を通したのかもしれない。どのみち、イルミにとっては寝耳に水で、巻き込まれたことには変わりないが。
最終的には、ナマエが気づくか、父さんが諦めるか。
正直なところ、イルミはどちらでもいいと思った。気に入らなかったのは、事前に何の説明もなく理不尽な目に合わされたことと、いくらイルミでも自分の父親に懸想している女と娶せられるのは気味が悪かったからだ。しかしナマエの思慕が刷り込みのようなものなら、もともと家に利のある結婚だし、イルミは愛だの恋だのを結婚に求めるつもりはさらさらない。
一方で、ナマエがこのまま一生勘違いに気づかないのなら、どれだけお膳立てされようと進展のしようがないし、周囲が諦めるのを待てばいい。
そんなふうに一旦自分の中で今後の方向性が決まると、ナマエへの苛立ちは和らいだ。イルミもイルミでこの振ってわいた迷惑な休日を、できるだけ有意義に過ごすように努めるほかない。
さて次の瞬間、イルミの思考は”空色着物の女たちはどこまでの準備をしているのだろう”という内容に移り変わっていた。
▲▽
それから、どのくらい時間がたったのだろう。ふと気が付くとすっかり日は落ちていて、揺蕩うような禍々しいオーラがコテージの外から感じられた。いつの間にか、ナマエは部屋を抜け出していたらしい。
イルミは、ふう、と小さく息を吐くと、ゆっくりと自分の額やこめかみ、その他あらゆるところに刺さっていた針を一本ずつ抜いていった。普段は他の仕事に影響が出たら困るからと、なかなか試せなかった針を存分に試せるいい機会だったのだ。雑に操作するだけなら他人で試せばいいのだが、変装などは微調整や使いやすさも含めて自分で試してみるのが一番いい。ごきゅ、と脳髄に響く嫌な音がして、自分の顔が元に戻ったことを確かめると、イルミは立ち上がった。
ナマエの件だ。
放っておこうかと思ったが、どうもオーラが乱れている。本人もそれを自覚して屋外に出たのだろうが、彼女のオーラの性質上、迷惑なことには変わりない。
昔からナマエは絶が下手くそだったが、原因は感情の乱れが大きいからと実にはっきりしている。ナマエの場合、毒が能力、自分のオーラで慣れたせいで毒が効かないのが体質、というほうが正確なのだ。精孔さえ閉じてしまえば、気配を消すことも、周囲に被害を出すこともないのに、一度コントロールできなくなるとパニックになってしまうことに問題がある。
夜の島の景色は天国から一転、果てしなく広がる宇宙のようだった。波打ち際で佇むナマエはこちらに背を向けているが、抱きしめるようにして何かを腕に抱えている。確かめようとしてまた一歩踏み出した時、ナマエがくるりとこちらを振り返った。
「安心して、イルミ。これも捨てるわ。ただの気まぐれよ」
彼女の腕に抱かれていたのは、嫌になるほどお馴染みのテディベアだった。イルミに区別はつかないので、イルミがかつて捨てたものと全く同じなのかはわからなかったが、ナマエはまた空色着物の女たちに性懲りもなくねだったのだろう。そのままこちらが口を開く前に、ずんずん近づいてきたナマエは乱暴にテディをイルミの胸へと押し付ける。
「こんなテディ、いらないの。何だったら、あげるわよ。捨ててよ」
「……」
あてつけのように押しつぶされたテディから漏れたのは、場に似つかわしくない朗らかな声だった。
「おはよう、今日は君と一緒にでかけよう」
瞬間、決まり悪そうにナマエの唇が引き結ばれる。
「……今は夜だよ」
自分でも、なんでそんな返事をしたのかはわからない。ただ、まさかイルミがそんな返しをするとは思わなかったのか、ナマエは困惑したような、ある種笑いをこらえるような、なんとも言えない表情でこちらをまじまじと見た。
イルミもイルミで、気まずさを埋めるように言葉を続けた。イルミに腹のボタンはないはずだが、まるで誰かに押されたかのように自然に口をついて出た。
「だけど、日付は変わってるし、誘いに関しては了解」
「……え?」
「ナマエもこのままだらだら過ごしてたら身体がなまるだろ。絶すらまともにできなくなってるみたいだし」
そもそも、イルミはナマエのオーラの件でここへ来たのだ。生態系や環境問題などにはつゆほども興味がないが、両親が気に入っている土地を汚染してしまうと後々面倒なことになるに違いない。不安定になられるたびに毒が漏れるのではたまったものではないというわけだ。
「違っ……これはできないわけじゃなくて……」
「なにが違うの? この場にいるのがオレじゃなかったら死んでるよ」
父さんでも死なないだろうけどね、と心の中で付け加える。が、実際にナマエの体からはすでに高濃度の毒が出ており、弟たちなら死なないまでも倒れているだろう。
おおかた、イルミが「自分の事を理解しろ」なんて言ったから、急に迷子になってしまったような気持ちになって、不安定になっているに違いない。
「落ち着いて、深呼吸して。そのままそこで絶をするんだ、いいね?」
「で、でも……」
「口答えはいらない。息を吸って、吐いて」
有無を言わさず促せば、ナマエは押し付けていたテディをしっかり抱きなおし、渋々といった様子で従う。
イルミは彼女の顔の前でゆっくりと手をかざした。
「これからオレが何を言っても、何をしても絶を保つこと。オーラを乱してはいけない」
「だ、黙って攻撃されろってこと!?」
「ほら、言ったそばから乱れた」
「だ、だって!」
「攻撃はしないから安心していい」
安心させるつもりで言ったのだが、ちっとも信用がないらしくナマエをとりまく毒のオーラは強くなる。それでもイルミは構わず彼女に手を伸ばした。
ナマエはぎゅっと目を瞑る。
「……っ、」
「おはようにはまだ早いから、部屋へ戻っておやすみ」
ぽん、とナマエの頭に手を置けば、自分のものとも、キルアのものともまた違った髪質が手のひらを擽った。「へ……?」強張っていたナマエの腕から力が抜け、砂浜にテディベアが転がり落ちる。
「出かけるのはその後でね」
してやったり、とナマエの間抜け面をからかわなかったのは、イルミが彼女よりも大人であるからだ。
きっとナマエは今も混乱しただろう。戸惑っただろう。それなのに今の彼女のオーラは、先ほどの嵐が幻だったかのように凪いでいた。
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