- ナノ -
声が、とても近くから聞こえていた。
「……おはよう、今日は君と一緒にでかけよう……おはよう、今日は君と一緒にでかけよう……おはよう、今日は君と一緒にっ」
ナマエは、綿のつまった腹のボタンをノックした。スイッチが切れて声は止んだ。月明かりのしたに浮かぶ、つぶらな瞳。まんまるい耳。
――テディをくれたのはいいけど、喋るテディはちょっと違うのよね。
ナマエは声に出さず文句をいい、しずかに目を閉じた。波の音が耳につく。それから自分の状態を把握した。
何なりとお申し付けくださいっていうから、「テディがほしい」と言ってみたら数時間で届いた。いったいあの空色着物の女たちはどんなスキルを持って暮らしているのだろうか。
――そんなこと、興味ないけど。
ナマエはテディに抱きつくように横向き、砂浜に寝ていた。
まだ、ぬいぐるみに「おはよう」と言われる時間ではない。ナマエは暗闇の中にいた。真っ暗な空間に、月と星明りが浮かぶ。コテージの方をみると、部屋へつづく階段に、ゆるやかな円をえがいてぽつぽつと明かりが灯っている。
「子供じゃないんだから、もう要らないだろ」といって、大事なテディをイルミに捨てられたのに、ナマエはこうしてまた、テディを抱いている。私はやっぱりテディがないと駄目なの、という思いがどこから押し寄せてくるのか、不思議な気持ちで考えていて、気づいたら眠ってしまっていた。
滞在は一週間ほど、と、お決めになったのもお父さまなのだろう。こんなふうにナマエの無意識を露わにさせる、それがシルバというひとだ。昔と変わらない、とナマエは思う。目を閉じても開いても真っ暗で、闇に漂っているような感覚におそわれる。
一週間。七日間。イルミと二人きりだ。
まだ、二日目の夜。
お互いを理解するよりもまず、自分のことを理解したほうがいいのではないか。イルミにそのようなことを言われたとき、ナマエは返す言葉をみつけられなかった。きっとイルミは、イルミの言葉や態度というのは、自分を理解したうえでの振る舞いなのだ。そう考えるとなぜかくやしいような気になってくる。
イルミの方が歳が上なのだから仕方がないと思おうとしても、胸にわだかまるものがあって、ナマエを素直にさせない。
「……おはよう、今日は君と一緒にでかけよう……おはよう、今日はっ」
「うるさいってば、今は夜よ」
腹のボタンに手の甲があたって、テディは底抜けに明るい声でくりかえす。ボタンに触れつづけたら、ずっとくりかえすらしい。ナマエはほんのり苛立って、ボタンをぐいっと押し止める。
おはよう、なんて、目覚めに言われる日は永遠にやってこないだろうと、昔からナマエは思っていた。テディではない。生身の人間に。
ただ生きているというだけで、息をするように自然に、毒を発生させているのがナマエという人間だ。それをコントロールできるようになるまでかなりの年数を要した。ナマエを家族にしてくれるため、ナマエを鍛えたのは、シルバとキキョウだ。彼らはナマエを二人の娘として、扱ってくれた。努力の甲斐あって、毒の発生を調整できるようになった。
それでも、こわいのは無意識の毒素だ。
寝ぼけて、眠っているあいだ、ときどき毒素が自然に滲みでてしまう。ゾルディック家の家族にこのときの毒素は軽めのものであるらしく、家族の誰かが浴びたとしても、害にはならない。耐性を上げるのにちょうどよいくらいだとシルバから聞かされている。
問題なのは、感情の揺らぎで発生する毒素の方だった。
怒っているときよりも、泣きそうなときのほうが、高濃度になる。泣きそうなときというのが、おそらく情緒不安定になるとき、泣きたくなるくらい、いや、いっそ身を投げたくなるくらいの寂しい孤独を味わうとき、ナマエは猛毒をまき散らす。わかっていることだから、そういうときは引きこもればいい。
だけど、一人ではないときこそ、逃げ場がないときこそ、皮肉にも孤独はやってくる。
シルバは、死ななかった。初めて逢ったときも、その猛毒のなかにいても、シルバは死なない。家族として、かけがえない存在だった。テディのように代えはきかない。生身の男。ナマエの父親。
父親になったシルバは、鍛錬の途中、ナマエに言ったことがある。
「一人がこわいか」
ナマエは身を竦ませた。図星だった。
――だれも私に触れることなんてできない。
――だって触れたとたん、相手の温もりに感激して、私は私を見失う。
やっと手に入れた繋がり。一度触れたらもう二度と、離れたくはないと願ってしまう。そこで実感させられるのだ、ひとは孤独であることを。どんなに近くにいても不安はぬぐえない。その痛みを知り、ナマエは極限状態に陥る。そうなるとそばにいる人間が死んでしまう。
「ナマエは一人より二人のほうが、強くなるだろうな。調整はできるようになった。頃合いだな。オレの息子たちと仕事に励め。一緒に暮らせ。そこから学ぶこともできる」
「お、お父さま、私は、こんな状態では、誰かが死んでしまうかも」
「案ずるな。オレの子だ。死なないさ」
「……わかりました、お父さま」
シルバの言い切りの強さに、ナマエは頷くしかなかった。
ナマエの猛毒に死なない人間がまだほかにいるというのか。このときはまだ信じられない気持ちのほうが大きかった。
はじめて兄弟に逢った。
イルミに逢った。
シルバの子だという。ナマエは家族になった。それに兄弟まで。シルバから受けた恩恵に、感謝しなくてはいけない。
そう思いながらも、やはり一抹の不安はぬぐえない。いつかナマエが無意識のうちに兄弟と過ごしているときに猛毒を浴びせてしまうのではないか。けれど、ゾルディック家はナマエの予想をはるかに超えていた。
イルミと出逢ってすぐの頃、一緒に独房へ入ったことがある。
イルミはシルバに似ていない。キキョウに似ていた。
キキョウとはシルバの美しい妻だ。ナマエは二人の娘となり、イルミの兄妹となった。シルバという男に真実愛されているのは自分ではなくキキョウなのだとはっきり認識できた。
――では、私は誰を愛せばいいのか。
――家族になりたかった。家族という繋がりを以ってしても超えられぬほど深い愛が欲しかった。お父さまは私にお父さまの娘という存在意義をくださった。本気で失いたくないと思っているのは私だけなのかもしれない。私は家族をも超える愛が欲しいのではないか。私にとって、相手にとって、唯一無二となる存在を求めているのではないか。
独房での体術戦はひどいものだった。
イルミに散々、打撲を食らわせられた。襟首をつかんでひっぱられ、よろめいたところを膝蹴りされる。
「だれが休んでいいって言った?」
イルミの声には抑揚がない。お腹をおさえて這いつくばるナマエに、今度は肘がふり下ろされた。まったく容赦のない力に、ナマエは身悶えた。ナマエを抱き上げて頭をつかむと壁にたたきつけ、イルミはなぜか楽しそうに言ったのだ。
「オレと一緒に仕事ができるなら、ちょうどいいパートナーになると思ったのに。妹っていうのは、この程度か。ざんねん」
足から力が抜ける。ナマエは倒れこんだ。地面に落ちなかったのは、意外にもイルミが腕で支えたからだった。ナマエはその時点で兄に恐怖していたので、腕の中におさまってしまったそのとき、慄くほど緊張した。
腕の中は温かかった。
ナマエは力つきた。
父親ではない者の腕に初めて抱かれた。父親ではない。兄だけれど、兄ではないとナマエは知っている。ナマエは思う。それでは、これはただの男ではないか。
極限状態はふいにあらわれた。
一緒に仕事ができる。イルミが言った言葉を反芻した。
ナマエを一緒に連れていこうという考え、ナマエの孤独に差しこまれた指の温度、ナマエは強烈な痛みをはらんだ。
いけない。
死んでしまう。
ナマエはイルミの腕をふり解こうとした。
猛毒が、発生していく。制御ができない。独房という狭い密室。
はやく、離れなければ。
それなのに、イルミはナマエを腕に抱えて、手近な椅子に優雅に腰をおろした。刻一刻と、毒は満ちていく。
「私から、離れて」
それだけを言うのがやっとだった。何しろイルミにやられた全身打撲がひどい。肺が痛くて声を出すのもつらい。力が抜けきって自力で離れることも叶わない。
なんて温かい腕だろう。抱き抱えられて歯痒い想いがする。そのとき、ナマエの顎を、イルミの指がすくいあげた。
イルミの表情は、思いのほかやわらかかった。ナマエをみて、喜々として笑ったのだ。キキョウによく似た、美しい男の笑い方で。
「へえ……久々だな、この感覚。すこしぞっとするよ……かなりの毒だね。いいね、すごくいいと思う。ナマエ、これなら一緒に仕事ができそうだ」
イルミは死ななかった。兄となった男は、死ななかったのだ。
”一度触れたらもう二度と、離れたくはないと願ってしまう”
家族が欲しかった。
死なない男に出逢った。
――お父さまは私の敵を葬ってくださり、私を娘にしてくださった。私に居場所を、私に兄弟を与えてくださった。
――だけど私はお父さまに何を返せばいいのでしょう。
――どうして何も命じてくださらないのでしょう。
――仕事は振り分けてくださる。衣食住には不自由なく。お父さまの期待は、三男、キルアに注がれる。私はお父さまの判断にそって生きている。私もキルアに期待をしている。とても大切で愛おしいと思う。
――では、私はだれにとって、価値のある存在なのでしょう。
寂しい。
ナマエは唐突に思った。
いつだったか、家族が出払ってしまって、屋敷に取り残されそうになったことがある。イルミが飛行船で発つと知って、一人きりになるのが寂しくて寂しくて、がむしゃらに忍びこんだ。
ナマエはそれを思い出していた。
――イルミは私とずっと一緒よ。ずっとずっと遠くに行っても、私から離れないで。
必死でひきとめた。あのとき無意識にこぼれた言葉が、鮮明によみがえる。と同時にナマエは赤面した。おそろしい。なんてことを口走ったのだろう。
波の音が耳につく。
テディを持つ手がふるえる。
砂浜でも音をたてずに近づいてくるのは、私の間合いに入ったら、即戦闘態勢をとるつもりでいるのだろうか。夜更けに浜辺へやってくるイルミの真意がわからない。
ナマエは意を決してふりかえった。
イルミの姿は月明かりでぼやけてみえる。
――ああ、そうか。
イルミは、このテディについて、苦情でも言いにきたのだろう。
ナマエが取り寄せたことについて、説教をするのかもしれない。
言われずとも捨てるつもりだ。おしゃべりなテディは好みではない。
イルミはまだ、近づいてくる。
「安心して、イルミ。これも捨てるわ。ただの気まぐれよ」
イルミは答えない。
ナマエはむっとして、自らもイルミに近づいていった。
「こんなテディ、いらないの。何だったら、あげるわよ。捨ててよ」
イルミの表情までは、はっきりとみえない。
何も言わないので、ナマエはイルミの胸にテディを押しつけてやった。
その拍子に、腹のボタンがふれた。
「おはよう、今日は君と一緒にでかけよう」
テディの声は洋々とひびいた。ナマエは、すごく間抜けな感じがした。
「……今は夜だよ」
テディに向けてか、ナマエに向けてか、イルミはナマエと同じことを言った。
そのことが、なんだか可笑しかった。笑える空気ではなかったのだけれど。
――お父さま、私はだれにとって、価値のある存在なのでしょう。だれにとって。どうして。……私は、必要とされたかったのか。私は私自身のことをよく知らないみたいだ。今まで、こんなに走りつづけてきたのに。何もわかっていない子供のままだ。
巨大な湖だ。どうにかしなければ、ナマエは溺れてしまう。
ナマエの世界はぽっかりと昏い、巨大な湖だったのだ。
自分を理解し、イルミを理解することなんてできるのだろうか。
この島で、七日目までに、そんなことができるだろうか。
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