- ナノ -
人は死んだらどこへ行くのか。その答えを明確に知るものは誰もいない。けれども、もし天国と地獄が存在するのなら、これまでナマエが殺してきた人間たちもゾルディックの家族もみな、天国の門をくぐることは決してないだろう。
こんな形でなければ、天国になんて。
空色着物の女たちに先導されながら、ナマエはいつまでも空と海の境目を探していた。海面が抜けるような快晴の青空を鏡のように映し出しているせいで、島全体がぽっかりと空に浮かんでいるような錯覚に陥る。いや、本当にこれは海なのだろうか。海が鏡のようになるためには、さざ波のひとつもあってはいけない。今ならばナマエの知る世界が、実は巨大な湖に収まっていたと言われても頷ける気がした。
「お二人が過ごされるコテージはこちらでございます」
幾らも行かないうち辿り着いた白亜の建物は、想像よりも随分こじんまりしていた。聞けば、ここは本当にゾルディック家の人間が過ごすためだけの場所のようで、女たちは少し離れた別棟で全ての段取りを行っているらしい。
「滞在は一週間ほどと伺っております」
ナマエはちらり、と伺うようにイルミを見た。歩き始めてからイルミは一言も発していない。ひどく機嫌が悪いのは一目瞭然だったが、滞在期間を聞いても異議を唱えることはなかった。もうすっかり、諦めてしまったのかもしれない。
コテージの中に入って、女から簡単な説明を受ける。身の回りのことはほとんど彼女達に任せればいいようだった。ただ、用事があるときに呼べば対応してもらえるものの、基本的にここはナマエとイルミだけの空間となる。蜜月期の男女ならばともかくも、今の二人には息が詰まるだろうな、と思った。
ナマエはイルミの分までおざなりな返事をしつつ、案内されるまま、最後だという部屋に足を踏み入れる。
中の光景を認識した途端、ぴしりと固まった。
「こちらは寝室でございます」
「……は?」
美しくメイキングされたキングサイズのベッドが、部屋の中央に”ひとつ”。洗練された内装のせいで、いかがわしさはないものの、意味するところは結局同じだ。これにはさすがにイルミも黙っていられなかったらしく、コテージに入って初めて怪訝な声を発した。”怪訝”というより、”剣呑”といったほうが正しいかもしれないけれど。
「どういうこと? ここで最後ってことは、オレとナマエにここで寝ろって言ってんの?」
「お二人の寝室ですので」
「ゲストルームは?」
「申し訳ございませんが、この島にゲストをお呼びされることはありませんので……そのような設備はございません」
空色着物の女は、少し戸惑ったようにイルミを見上げていた。それもそうだろう。生粋のゾルディックであるイルミが家族旅行で訪れたこともないのだ。この地は代々ハネムーン用の土地として利用されてきたと考えてみると、ゲストなど想定されているはずもない。
絶句してしまったイルミを見て、ナマエはひとまず女に下がるよう命じた。これ以上彼女がここにいてもどうすることもできないし、要らぬ不興を買うだけだろう。かといって積極的にイルミの機嫌を取る気にもなれず、ナマエはそっとコテージを後にした。一人になって考えたいのは、イルミだけでなくナマエもだった。
「本当に……お父さまは私とイルミに結婚してほしいのね……」
何気ない調子で結婚の話を持ち出されたとき、それはあくまで世間話の形をとっていたように思った。半分以上ゾルディックとして育ち、能力も殺しの適性もある。歳の頃合い的にイルミがちょうどいいんじゃないか。たったその程度の話だ。けれども、考えてみれば、お父さまは初めからそのつもりでナマエをゾルディック家に引き取ったのだと思っていいだろう。ナマエの毒の能力は生まれつきのものだった。最終的に他所へ嫁にやってしまっては、ゾルディック家の為にはならない。ナマエとしては結婚せずにこのままゾルディックにいてもいいが、曲がりなりにも父親として、義理の娘の幸せを考えてくれたに違いない。
かつて、幼いナマエはシルバという男に願った。自分を仲間に、家族にしてほしいと。そして願いは果たされた。このままイルミと結婚すれば、より家族としての結びつきは確かなものになるだろう。ナマエにとってイルミとの結婚は、恩人であるお父さまの願いを叶えることができ、真の家族になれるという点でメリットがある。
でも、イルミは? この結婚がイルミにもたらすものに何があるのだろう。
寝室に対するイルミの反応を見たとき、ナマエは初めて彼に同情してしまった。ここまでお父さまが強硬手段に出るとは思っていなかったから余計にだ。
イルミにとってナマエとの結婚は、徹頭徹尾家のためでしかない。それも、どうしても婚姻を結ばねば家に取り込めない相手というわけでもないのに。
大事なテディを捨てられて、いかにもくだらないものに執着しているようにあげつらわれて、ナマエは確かに腹が立っていた。ナマエだって、これまでイルミをそういう対象としてみたことがなかった。この結婚話に戸惑っているのはイルミだけではないのに、どうして私にばかり当たるのかという不満もあった。
が、こうしていざ外堀が埋められていくのを目の当たりにすると、イルミへの同情心もじわじわと湧いてくる。
「お父さまたちもこの景色を見たのでしょうね……」
天国と称された美しい風景は、今のナマエにとっては皮肉でしかなかった。
叶うなら、自分がお父さまと見たかった、と思う。分け隔てなく接してくれたお母さまのことは大好きだが、それでも羨ましいと感じてしまう。
二人でこの砂浜を歩いたのだろうか。海の中に足先を浸し、空を乱して微笑みあったのだろうか。そして日が暮れた後は、二人きりのコテージで愛を囁きあったのだろうか。
ナマエはそこまで考えて、ふと違和感を覚える。確かにお父さまとこの島で過ごすのを想像すると、幸せなのだけれど……。
――父さんが好きなんじゃないの?
イルミの探るような目が思い起こされる。もちろん、答えは迷いなくYESだった。結婚したい? と聞かれても同じだ。昔はよく、大きくなったらお父さまと結婚するのだと言っていたし、大人になった今、その気持ちが特段変化したようにも思わない。
でも、さっきの寝室……私は、お父さまと”そういうこと”もできる?
当てもなく付近を散策していたナマエの足は、ぴたりと止まった。
抱きしめてもらいたい、腕の中で眠りたいと思うのは確かだけれど、なんだかそれとは違う気がする。考えてみて恥ずかしいとか、気持ち悪いという感情でもない。想像すると、ただひたすらに違和感だけがある。
イルミならどうだろう?
ナマエはしばらくその場に立ち尽くしていた。景色を眺めるわけでも、腰を下ろして休憩するわけでもなく、ただ棒立ちしている彼女の姿は、傍目があれば奇異に映ったに違いない。そうやってしばらく考えていたナマエは、やがてゆっくりと踵を返した。数歩ほど歩いたと思うとすぐに駆け足になり、飛び込むようにコテージに戻った。
「ねぇ、イルミっ!」
呼びかけた声は、自分でも驚くほど上ずっていた。この程度走ったくらいでは息は切れないが、勢いのあまり、扉の蝶番が軋む。リビングのソファに腰かけていたイルミは、無聊を慰めるかのように針の手入れをしていた。どこへ来ても変わらない彼の姿に、少し呆れつつも安心する。
「聞きたいことがあるんだけど」
ナマエが重ねてそう言えば、イルミは黙ってこちらを見る。返事はないが、耳を傾ける気になるくらいには気持ちも落ち着いたらしい。せっかく凪いでいるようなのにわざわざ波風立てなくていいのではないか、と迷ったが、ナマエは覚悟を決めて聞くことにした。どうせ、いずれは避けて通れない話題だ。
「イルミは私のこと、抱こうと思えば抱ける?」
一息に言い切ってしまうと、瞬間、イルミの目がまん丸になる。彼にしては珍しい、純粋な驚愕だ。ぬいぐるみのつぶらな瞳が思い出されて、ナマエは場違いにも少し可愛いと思ってしまう。
しかし、イルミの反応が可愛かったのは最初だけだ。すぐに瞳は険しく細められ、不快そうに口元が歪む。
「……気持ちの悪いこと言わないでくれる? オレ、ソファーで寝るつもりだから」
「私も一緒に寝る気なんてないわ。ただ、イルミがどう思ってるのか知りたいと思っただけ。お互いの事、もっと理解しろって言われたし」
「それで一番最初に聞く話が夜のことなわけ?」
「だって、それが無理なら結婚なんて無理じゃない」
子供が成せないのなら、イルミにとっては結婚のメリットが目減りする。ゾルディックに益となる嫁というのは、子孫を残すことも含めてだからだ。
ナマエが黙って答えを待つと、イルミはますます嫌そうな顔になった。「……仕事だと思えば」返ってきた絞り出すような返事に、イルミが感情をあらわにするなんて珍しいな、と的外れなことを考えてしまう。
「私も、仕事ならぎりぎり……と思う」
「は? オレのほうがもっとぎりぎりだよ」
間髪入れずに言い返されて、何をムキになって競っているのかと呆れた。「あのね、聞いて、イルミ」ナマエが慌てて帰ってきたのは、そんなことで言い合うためではない。先に質問したのは、仕事なら、という自分の考え方がイルミも同じだというのを確かめたかったのだ。そして同じ考えのイルミなら、ナマエが混乱したわけもよくわかるだろう。
「私、お父さま相手だったら……仕事でもいやだな、って思ったの」
「……どういうこと? 好きなんでしょ?」
「どういうことだと思う?」
「あのさ、いくらすることがないからって、お前のくだらない謎かけに付き合うつもりは――」
「違うの。ほんとに、どういうことだと思う?」
ナマエの好みは力強く、筋肉質な男性だ。好きなテレビはスポーツ番組で、特に体操競技がお気に入りだし、次に好きな恋愛もののドラマでも、細身の柔和な王子様風の男よりがっしりとした男らしい男性のほうに惹かれる。年上だとなおいい。それも一つ上の先輩より、ストーリーのテーマになるくらい歳の差があるほうが見ていてどきどきする。だからナマエの好みでいうなら、お父さまは申し分ないはずだ。お父さまが好きだから”そう”なのか、元の好みが”そう”だからお父さまが好きなのかわからないけれど。同じく家族として過ごしてきたうえで、好みのお父さまがダメで、イルミなら大丈夫というのは変だと思うのだ。
「こんなの、おかしいよね?」
本気で困惑した様子のナマエに、イルミは何か言いたそうに口を動かした。それから、逡巡したらしい間をみせて、おそらく彼が最初に言おうとしたのとは別のことを言った。
「……オレを理解しようとするより、まずナマエが自分のこと理解したほうがいいんじゃない?」
最近聞くことの多い、馬鹿にしたような口調だ。手元に視線を移したイルミは、こちらを見もしないで続ける。
「とにかく、オレが寝てる間にリビングに一歩でも足を踏み入れたら攻撃開始の合図とみなすから」
「……」
「わかった?」
「ええ、私も寝室に毒ガスを充満させておくわ。入ってきても知らないからね」
ナマエも半ば反射的に買い言葉を返した。会話が終わると沈黙が下りたが、不思議と重苦しさはない。言葉ほどの敵意がこもっていないことを、お互い感じ取っていたのかもしれなかった。
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