- ナノ -
闇取引があったそうだ。
偽の宝飾品を、最高級の出来だと銘打って売買し、マフィアの一人を騙した。数刻で嘘がバレると理解したときには、欺かれたのは自分たちの方だったことに気づいた。気づいていない愚か者も交じっていた。
きっかけは一人のゴロツキだった。正真正銘、本物の宝飾品を運よく拾った、うまく売らねばならない。ここから這い上がるために。しかし彼はあまり利口ではなかった。一攫千金の話を馬鹿に信じた。本物はすり替えられていた。群がって一蓮托生をたどるはめになったのが、ここキャッスルズ・ホテルのバーにいる、廃部都市からやって来たゴロツキたちだ。
逃げ道はない。ここでおしまい。ミラーボールの灯りのしたで女が踊る。活気づいていて明るい。気づいている人間の顔だけが絶望的な青色に染まっているのだが、アルコールで気が狂っているのとあまり見分けがつかない。ミラーボールが室内に小さな光をまき散らして回っているからだ。
これは本物を手に入れた人物からの依頼だ。
騙されたマフィアは悪趣味で有名だった。殺し方が汚いと噂される。
依頼人はちょっとした悪戯と、かつて相対したときマフィアに放たれた罵声に対する軽い報復なのだと言った。自分が依頼しなくてもどのみち殺される彼らに対し、手引きしたのが自分であることを頭の回らないゴロツキの口から、みっともない形で事実が相手に伝わるのは気に食わない。そういう美学なのでお願いしたい。だから件のマフィアへ送る花束のように、美しく派手やかに殺してほしい。
いや、美しくきらびやかに、だったかな、とイルミは昨夜見直した書類の、依頼人からの文言の書かれたページを、一字一句違えず頭の中で思いだそうとしていた。
暗殺予定時刻まで、あと、二分。
たしかにターゲット数は増えたが、やはりナマエだけで事足りるな、とイルミは思う。スツールに腰かけ、カウンターに頬杖をついて、イルミは隣に突っ伏した客を見た。濃紺のスーツの生地は一目で上等だとわかる。しかし髪や手、靴は薄汚れている。与えられたスーツは着れても、新品の上等な靴は腫れた足に合わなかっただろう。路上で裸足で暮らしている人間特有の匂いが、イルミのほうに漂ってくる。
「殺し方に条件をつけるなら、もう少しわかりやすい表現をしてほしいな。これじゃ、どうしたら納得するのか予測できない」
「芸術家なのよ、きっと。酔ったあげくの突然死とか、首の骨が折れてるだけ、とかじゃ、満足しないんじゃないかしら」
視界の隅に、不意に顔が飛びでてきた。
「お客様、こちらの試作品、飲んでいただけないかしら」
イルミが睨みすえると、ナマエはいっそう微笑んだ。
白い制服に黒の蝶ネクタイをつけたナマエは、イルミの手元に、カクテルグラスを置く。色は薄いブルー。香りがしない。無臭の毒だ。
ふざけるなよ。
イルミは無言でナマエを見た。
暗殺予定時刻まで、あと、一分。
ナマエはバーテンダーに扮して楽しそうに他のグラスにもカクテルを注いでいる。ナマエの両脇に、イルミの針で操作されたバーテンダー二名が、店員の役目をきっちり果たしている。ナマエの手元を見ていたイルミは、あまりにも適当で呆れた。
「電話、かかってきたら繋げるからカウンター付近はオレが殺る」
「わかったわ。それより、このカクテル、いかがかしら」
「……飲むわけないだろ、ナマエ、さっきから何なのその口調。気持ち悪いからやめて」
「あら、私の毒がそんなに怖いの? どうしてもだめなの?」
「……仕事が終われば、いくらでも試してやってもいいよ、オレがナマエごときの毒で死ぬわけないからね」
「どうかしら。あの方ならともかく、イルミはどうかしら」
「……オレの質問がいろいろと気に食わなかったわけか。執着とか、父さんとか、詮索されるのが嫌みたいだね、ナマエは。でもそうはいかないよ、オレは得体の知れない女を娶るのは嫌だからね」
イルミの隣の酔っ払い客が、荒い息を急にとめた。横目で見やると、うなじから耳まで皮膚が変色している。
「ナマエ、まだだよ」
「ごめんなさい」
ナマエは素直に謝る。うそのような従順な態度。
イルミは唇の端を歪めて微笑した。これ以上自分を怒らせるなよという威嚇だった。
暗殺予定時刻まで、あと、二十秒。
そのとき、ナマエが真剣な目つきをした。イルミの前に置かれたカクテルグラスの中身が、薄いブルーから水銀のように変色した。ナマエの念だと一目でわかる。が、仕事を前に散々、今度はいったい何の真似だと、イルミはナマエと目を合わせた。
「これは今、グラスが外側で、白く輝く銀が中身よ。でも、もしこの銀があふれだして、グラスを覆ってしまったら? どっちが外側で中身なのかしら。中身だと思っていたものが、外側にあるのよ。外側が、中身の一部になってしまうの。私たちは中身の一部だと思わない? 外側がどんな形をしているか、中身の私たちにはわからないことでしょ?」
――お前が本当にこだわっているのは、中身じゃなくて外側を捨てたことだろ?
イルミは自分がナマエに問いかけた言葉をすぐに思いだした。そもそもナマエはゾルディックではないのに、ゾルディックだ。その境界はどこで決められたのだろう。
まだナマエのことを知らなすぎる。
ゾルディックという仮面をかぶり、シルバの教えにあらゆる手を尽くしてここまで成長したであろうナマエが、命を差し出すことさえ喜び願うナマエが、ひとり独房で過ごした数年のことを、イルミは知らない。
狂っているのか、ナマエは。しかしかろうじて会話は通じ、仕事は確実にこなす。狂っていないのなら、ナマエの執着する銀色が象徴するもの、オーラを介して伝わる暴力的なまでに熱い感情が、イルミにはひどく居心地が悪い。
「イルミ、時間よ」
ふっと照明が落ち、ミラーボールの回転がとまる。
今度は薄暗い間接照明だけが点灯した。
電話がかかってきたら、マフィアが駆けつけるまでリーダーの男を喋らせつづけろ。きっちり時間をかけて、喋らせてやってくれ。
きっちり、じゃなくて、たっぷり、だったかな、とイルミは依頼書の最後の一行を思い返す。イルミの仕事は単純だった。そのリーダーとやらを針で操作完了するのみだ。残りはナマエが芸術家の依頼どおりに始末する。
イルミは壁際に凭れて、鳴りだした受話器を取り上げた。隣に突っ立っているリーダーの肩にそれを置いた。針のささった首は、受話器を肩と耳ではさむように動き、意味の分からない言葉の羅列を、垂れ流す。
ナマエがクマ耳カチューシャを両手にいくつか持って、うろたえる人の中へ踊るように入ってゆくのを、イルミは見た。
「あれ、量産型なんだ」と、思わずつぶやく。
キャッスルズ・ホテルのバーは地獄絵図になっていた。
カチューシャは、頭部につけられた人間を恐ろしい惨状にした。まずクマ耳より少し下、カチューシャの付根の本物の耳が溶けた。
以前、あれをイルミ自身、ナマエにつけられた。写真を撮るのが目的だったかはさておき、イルミの頭にもつけたのだ。
ふざけるなよ。
イルミは胸中で毒づいた。
毒液とともに溶けたものが耳の穴へ流れこみ、脳髄を狂わせていった。ナマエは頭部にセットする手間が途中から面倒になったと見え、首に引っかけたり、口に押しこんだりした。胸が、腹が、毒素で膨らむ。床には誰のものかわからぬ肉片が飛んで転がっている。美しいかどうかはさておき、形が残ったものも、残らないものも、絨毯とおなじ朱色に皮膚を染め、真っ赤な顔のないクマの人形がたくさん出来上がっていた。
趣味が悪い、とイルミは思う。武器として「なぜクマ耳カチューシャでなければならないのか」という疑問もかなりある。
「耳、ただの飾りじゃないの」とイルミはぶやいた。その辺も教育しないと受け入れ難い女だな、と考えさせられる。
バーカウンターの内側、針で操っているバーテンダーふたりが、まるで何も見えなかった様子でバーテンダーとしての仕事を続けていた。
「どうなってるの?」
「オレもそれが知りたい」
「どうしたらいいの!」
「オレもそれを考えてる」
仕事は終わった。
なにも考えず(考えなかったわけではない)飛行船に乗ったのが間違いだった。イルミはもちろん、隣のナマエも、顔がひきつっている。仕事が終わったのだから当然家に帰るはずの飛行船が、別の方角へ向かっている。それに気づいたのが、ふたりして翌日の朝で、互いに言いたいことを言い切れず、歯噛みした。
昨夜飛行船に乗りこみ、日が昇るまでのたった数時間、仮眠の間にイルミとナマエは、上をみれば空、下をみれば海という、真っ青な空間を漂っていた。
やがて小さな島が見えた。ゆっくり低空飛行をつづけ、その島が近づいてくる。
ナマエと過ごさねばならない時間が、どうも意図的に作られようとしている。はじめからそうだったのだ。今更何が変わっても、もう何も考えるなと言われているみたいだと、イルミは気だるい気分で進行方向を窓から眺めた。着陸した島に、数人の人間が並んで待機している。自分たちを待ち受けているように、そこにじっと立って、強い風が吹いても動かない。皆同じ空色の着物をきていた。
「降りるの?」
「いったん降りるしかないでしょ」
「……そうよね。なんだか私たちを待ってるみたいだし」
シルバの計らいだとしたら、ナマエは無視できない。イルミは、もう投げやりである。
飛行船を降りると強い風にさらされた。なびく髪を押さえながら歩くイルミのもとへ、空色着物の集団が向かってくる。総勢二十名といったところか。妙齢の女が一人、前へ進み出た。イルミとナマエの前まできて、うやうやしく頭を下げる。そして言った。
「イルミ=ゾルディック様でございますね。当主様よりご予約いただいております。どうぞ、こちらへ」
「予約? 何も聞いてない。どういうこと?」
それには答える声がない。
女はどうぞ、とかしこまってお辞儀し、イルミを促した。女が広げてみせた腕の先に、浅瀬を渡るための橋があった。その先に小さな島がある。自分たちが立っている砂地は、もしかしたら満潮時、海の下にあるのかもしれないと、イルミは思った。
「あちらの島です。どうぞごゆるりとお休みください」
イルミにはもう言う言葉が見つからない。
――たまには外でゆっくりしてこい。二人ともだ
イルミの脳裏にシルバの声が過った。
あれはこういう意味で言ったのか。
わかるはずがない。
さすがのナマエも微笑みが苦々しい。
それで取り繕っているつもりか。
「天国にもっとも近い島、と云い伝えられる島にございます。プライス島民一同、代々ゾルディック様にこの地を提供してまいりました。イルミ様、島には空と海しかありませんが、気候は年中よろしいですし、食事はいつでもご用意が整います。何なりとお申し付けください」
「だったらテディを」
「ナマエはちょっと黙ってて」
「なっ!」
「親父もここに来たことがあるの?」
「ええ、シルバ様もいらっしゃいました。キキョウ様とお二人で……懐かしゅうございます。イルミ様もどうぞここでは、現世を忘れゆるりとお過ごしくださいませ」
父さんが母さんときた? 天国が近い? お過ごしくださいませ?
訳がわからず、イルミはぽかんとなった。ナマエがイルミに顔を向けて、苦々しげに言った。
「飛行船、行っちゃったわよ……」
「……ありえない」
「そうね、ありえない」
互いを理解しろだとか、ゆっくりしろだとか、イルミにはシルバの考えがよく理解できなかった。いや理解したくなかったのだと思う。ゾルディックとして、当たり前の道をまっすぐ生きてきたイルミにとって、ナマエの存在は唐突に異質になり、理解しようという気もなかった。そしてナマエがシルバに求めているものを、イルミに求めているのかどうか、果たして……やはりわからない。イルミの立ち位置と、ナマエの場所は、どこか違う。
イルミは眩暈がするような気がした。身体のどこにも異常はないはずなのに。
島はとても小さい。どこかに休む家屋があるのだろうか。島と海の全体を見まわせば、空と海が溶けあうようにひたすら青く、境目がわからなかった。
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