- ナノ -
――互いをもっと理解してみるのも、たまにはいいんじゃないか
月並みで、当たり障りなく、いかにも無関係の他人が発しそうなアドバイスだ。生憎それを言ったのは他人ではなくイルミの父親だが、シルバが言ったからこそ、イルミもナマエも簡単に聞き流すことはできない。
無理やり組まされた暗殺の仕事は、何かをお膳立てするかのように長旅だった。現地に赴くだけで飛行船で片道五日間。着いてすぐ仕事を終えたとしてもまた帰るのに五日間、ナマエと同じ飛行船の中に閉じ込められる。移動とは別に休暇を取っていいことになっていたが、イルミとしてはこれ以上ナマエと一緒に行動しなければならないなんてうんざりだった。そもそも、外での休暇の過ごし方なんて知らない。イルミにとって休暇――つまり仕事以外のスケジュールと言えば、自身の鍛錬か、弟たちの訓練に付き合うことだ。もはやナマエは面倒を見るべき”妹”ですらないのだから、イルミには彼女と何かをする義理などない。ナマエのほうも今更、イルミに指導をしてもらいたいなんて思っていないだろう。だいたい、元からナマエはナマエ専用の修行を受けていた。彼女の特異な、ゾルディック家の遺伝子に由来するものではない体質のために。
「やっぱり今回の依頼、ナマエだけでも行けたんじゃない? お前の”商売道具”とやらを使うまでもないと思ったけどね」
追加で貰った書類を確認すれば、確かにターゲットの数は増えている。だが、多忙なゾルディック家の人間をわざわざ二人も差し向けるほどの内容とは思えない。
既に出発してしまった飛行船の中で言うべきことではなかったが、イルミはこれ見よがしに資料をテーブルの上に広げた。その正面のソファでは、ナマエが知らん顔してケータイをいじっている。初めからずっとこの調子だ。出かける際にシルバに抱き着き、行ってくるわと笑顔を振りまいていたのと同じ人物だとは到底思えなかった。
「ねぇ、聞いてるの?」
「……そうね。確かに使うまでもないでしょうね。でもだからって、イルミが捨てた事実は変わらないわ」
作るの、結構大変なのよ、と彼女は恨みがましく言った。ナマエの能力は自身のオーラを毒に変えること。操作系として針という媒体があるイルミでも、自身の針に強力なオーラを込めるというのはなかなか手間のかかることだ。だから変化系である彼女が自身からオーラを離し、オリジナルの毒薬として瓶か何かに仕舞っておくのはそれなりに面倒なことだというのもわかる。
だが、イルミはこの件に関して、謝る気は一切なかった。
「大事な”商売道具”をぬいぐるみなんかに仕舞うほうが悪いね。だいたい、お前が本当にこだわっているのは、中身じゃなくて外側を捨てたことだろ?」
「……」
「別に目の前で燃やしたり、引き裂いたわけじゃないんだ。探しに行けばよかったのに、当てつけみたいに父さんに話してさ。そのせいでこんな仕事が組み込まれて、オレだけじゃなくお前にとっても不愉快なことになってるんだから世話ないよね」
オフならキルアと一緒に過ごしたい、と言いかけたように、ナマエにとってもイルミとの旅は何ら楽しいものではないはずだ。彼女はキルアをとても可愛がっている。他の家族や執事たちがそうであるように、ゾルディック家の――シルバの形質を強く受け継ぐキルアを愛している。まさかそれを恋愛感情だと言うつもりまではなかったが、ナマエなら”相手はキルアのほうがよかった”と言い出しかねないと思う。「……イルミが言ったんじゃない」ようやくケータイから顔を上げたナマエは、不満がありありと浮かんだ表情でぼそりと呟いた。
「は?」
「オレと結婚するつもりなら、全部捨ててもらうって。だから私、拾いに行かなかったのに」
一瞬、ナマエの言ったことが理解できず、イルミは静かに固まった。
「……する気、あるの? オレに合わせてまで?」
「イルミはないの?」
「少なくとも……お前に合わせる気はこれっぽっちもないね」
「ざんねん。イルミのクマ耳姿、結構可愛いと思ったのに」
ナマエはそこで急に、声をあげてからからと笑った。くるり、とこちらに向けられたケータイ画面には、この前撮られたイルミの醜態が映っている。「キルアにもこの可愛さは通じなかったのよね、どうしてかしら? イルミは細身だけど背は高いし、抱きしめがいもそれなりにあるでしょう?」怒ればいいのか、ぞっとすればいいのかわからなかった。とにかく、ナマエのテディベアに対する執着は悪化している。いや、これまではテディで誤魔化していた別の物への執着が、歯止めを失ってしまっただけなのかもしれない。
「消せって言っただろ」
「私は消せないって言った」
「ナマエ、」
「いやよ。絶対にいや。別にイルミにずっと耳つけてって言ってるわけじゃないし、あれは仕事にも使うって言ったでしょ」
奪おうとするイルミの手を払いのけ、ナマエはケータイを抱きかかえるように胸元へ寄せる。カチューシャのほうはともかく写真は仕事と関係ないはずだ、と思ったが、ナマエの抵抗ぶりを見るに無理に消させても面倒なことになる予感しかしない。
イルミはため息をついた。それは当てつけや嫌味ではなく、思わず漏れてしまったものだった。
「……何にそんなに執着してるわけ?」
昔はただの行き過ぎた幼女趣味だと思っていた。結婚の話が持ち上がって初めて、彼女はぬいぐるみに恋い慕うシルバを投影していたのでは? と思った。ナマエの思慕はどう見ても親愛の域を超えている。それが忠誠心となってゾルディックの役に立つのはいいことだが、そんな女と娶せられるイルミにとっては気味の悪い話でしかない。だからぬいぐるみを捨てた。忠誠の先がシルバでもイルミでもゾルディック家全体の益としては変わらないが、もし本当に妻になるつもりがあるのなら、イルミは半端を許すつもりなどなかった。
が、いざ、こうもあっさりと”クマ耳姿のイルミ”に対する執着を見せられると困惑しかない。イルミの問いに、ナマエはゆっくりと首を傾げた。
「執着? 一体なんのこと?」
「……ナマエは父さんが好きなんじゃないの?」
「ええ、そうよ。シルバ様の――お父さまの為なら命だって投げ出せるわ」
「拾われた恩があるから?」
「それもあるわ。あと、私が唯一殺したかったものを殺してくれた……」
ナマエは過去を思い出すようにわずかに目を細める。そういえば、”妹”だと思い込んでいたくらいだ。イルミは彼女の過去については何も知らない。
記憶をたどることは甘い陶酔をもたらしたのか、ナマエはうっとりとした表情でほほ笑んだ。
「でもね、一番大事なのはシルバ様が死なないということなの」
冗談ではない口ぶりでそう言われて、イルミはなんと返したらよいのかわからなかった。イルミとて父親が強いことは認めるが、それでも死なないとまでは言うつもりはない。
長く一緒に育ったはずなのに、ナマエについては知らないこと、わからないことだらけだった。
――互いをもっと理解してみるのも、たまにはいいんじゃないか
第三者的なアドバイスは、実は的を得ていたのかもしれない。問題は、それを発したシルバが第三者どころか渦中の人物であるということ。
イルミは改めて、つい最近まで”妹”だった女をまじまじと眺めた。今は苛立ちは鳴りをひそめているが、相変わらず異物感は拭えない。このまま結婚することになってもならなくても、もう二度と彼女を”妹”として見ることはないのだろうな、と今更ながら漠然と思った。
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