- ナノ -
円錐形の塔のてっぺんにつま先立ちして、上から敷地を眺めていた。月も星もない闇夜に紛れて無為に過ごす時間が、暗殺者のイルミにもあるにはある。
地下の独房を通ってつづく無人の塔は修行によく使う場所で、無駄に長い螺旋階段は入り組んで迷路のような造りだ。イルミが立つ屋根からは、ゾルディックの家屋と、木々の先にある執事邸を見渡せる。高い所に立つとゆったり構えていられる気になるのは、ものごとを俯瞰できるような気持ちを起こすからだろうか。
ククル―マウンテンの夜の静けさは独特で、イルミに馴染んだもので、自身の足場を確認するためだけに心は埋まり、他のことを考えずに済む。静寂。束の間の。仕事前の、冷たく融けていく思考のような快さ。
「イルミ、イルミ!」
女の大きな声が響いてイルミは普段、動かすことの少ない眉をひくりとさせた。涼んだ虫の音が止んだ。心地よい風の音もかき消された。面倒なのが来た、とイルミは独房にでも籠っていればよかったと歯噛みし、塔の下に立っている女の方に無表情で視線を投げた。
塔の下の女はいつもの装い顔で微笑んでいる。イルミの妹、ではなく、ただの女。
「イルミ、降りてきて」
ナマエからの何らかの誘いに乗るのは嫌だな、なんて思いながらイルミがそれに従い塔から飛び降りたのは、ナマエの背後に父親がいるためだった。
イルミの視界のなかに、珍しい組み合わせがいる。夜更けにたまたま姿を現したにしては奇妙だ。イルミにしてみれば、いつのまにか付属品を付けられて、扱い方を考えてもすんなり腑に落ちる道すじが見つけられないでいる。理解しても納得できる理由が何もないところから、「家のため」というさっぱりした回答を得なくてはならない。否。
家のため。
答えとして十分ではないか。イルミとて、それなりに努力はしている。能力適性のある女を嫁にもらう。それだけのこと。だからナマエに煩わされる必要はない。父親とナマエが一緒にやって来たことも、不思議に思う必要はない。
「予想通りでよかったわ」
「なに?」
「言ったでしょう、お父さま、イルミはよくここにいるのよ」
イルミが応えたのを無視して、ナマエの顔は父親シルバの方へ向けられていた。
お父さま、とナマエは呼ぶ。とってつけた笑みが、綻ぶ口もとがにわかに優しいものになる。
「ナマエはイルミのこと、よく解ってるみたいだな」
「それはそうよ。ずっと一緒に育ったんだもの」
「そうだな。任せることにしよう」
「ありがとう、お父さま、すぐに片づけて戻ってくるから、次の仕事も入れておいて大丈夫よ」
「仕事ついでだ。たまには外でゆっくりしてこい。二人ともだ」
「え?」
ナマエの視線が揺らいだ。同時に、二人の会話を聞いていたイルミにも、ざわめきがこみ上げてきた。
「父さん、説明して。何の話をしてるの」
「お父さま、イルミには私から話をするから。それに、休暇なんて」
「ナマエは黙って」
「い、イルミ」
「父さん、どういうこと?」
シルバの腕に腕を絡めて、 幼子のようにすがる女を、イルミは蔑むような目で黙らせた。この女は父親を何だと思っているのだろう。ゾルディックに忠誠心があるとしても、頭はあまり利口ではない。例のテディを捨ててからしばらく経つが、ナマエがイルミに突っかかってくることはなかった。
つまり平穏だったのだ。
とりあえずは。
「喧嘩するのも構わんが、互いをもっと理解してみるのも、たまにはいいんじゃないかと思ってな」
「は?」
「……お父さま?」
シルバが動くのを、イルミとナマエは呆気にとられて見ていた。シルバは塔の入口へ行き、照明を探し当て、スイッチを押した。光が差す。 明るさに目が慣れるまでにイルミが見たのは、地下への階段を降りていく銀の髪と、仰ぐ手のひらだけだった。
足音はなく、声がこだました。
「イルミ、来週の仕事、追記書類は受け取ったか?」
「 ……あるよ。受け取った」
「確認しておけ。その依頼はナマエとだ」
「……仕事の話ね。了解したよ。仕事はね」
「ナマエの商売道具を捨てたらしいな、イルミ。少し、ナマエの言い分につき合ってやれ」
「商売、道具?」
イルミはぎこちなく繰り返したが、声は返ってこなかった。
ずしっと、背中に感じた重みの正体を知りながら、イルミはシルバの言ったことの方を気にした。
仕事はナマエと。それから、ゆっくり休んでこい。二人ともって、ナマエと?
チクッと頭を締め付ける感触がして、イルミの思考は途切れた。背中に飛びついたナマエを振り落とす。際にシャッター音がした。
「何する気だよ、ナマエ」
「んー… あんまりテディっぽくないなあ。イルミ、もうちょっと目つきを柔らかくして、口も笑って……いや、髪色に合わせたのがまずかったのかな。黒いクマかぁ、でも耳ついてるだけでそこはかとなく可愛さがあるような」
「何だよこれ、ふざけてるの?」
イルミは頭の違和感に即刻気づいて、目の前の女の言うクマの耳らしきモノを引き剥がし、捨てた。声には怒りが含まれた。ケータイで撮影されたらしい、ナマエの気味の悪い行動に嫌悪を覚えた。
「カチューシャっていうの。猫耳とか、よくあるでしょう、それのテディ版。次の仕事にも使うから、壊さないでよね」
「仕事で? このくだらない物を?」
「特注品よ、高かったんだから。それにテディがないなら、イルミをテディにすればいいのよ、いい発想よね。他に選択肢がないんだから」
「あのさ、ナマエ、あたま、だいじょーぶ?」
「ええ、だいじょーぶよ。私の大事なテディのお腹に詰めた、オリジナル毒薬ごと、あっさり捨てちゃうイルミの方がうっかりさんよね、だいじょーぶ?」
クマ耳姿のイルミの画像が、ナマエがひらひらさせるケータイ画面に映っている。
まるでイルミに見せつけるように。
「父さんが言った商売道具って、毒薬のこと……どうせ話盛って父さんに報告したんだろ。予備は確実に保管してるくせに。何がいい発想だって? おかげでいったい何日間、一緒に行動する羽目になるんだよ? ナマエ 、最近オレから逃げてるだろ。逃げてるくせに余計な問題発生させたの自分だって自覚ある? バカじゃないの」
「仕事は仕事よ、私関係ない、暗殺行程で必要だからスケジュール組まれただけだもの。休暇のことなんか知らない」
「あの様子だと、仕事後お互いオフだろーね」
父親のあの言い方にはもう否定の余地はなさそうだ。休めというのだから仕事は入れないだろう。個人的に入ってこない限り休みだ。が、仕事がなくてもやることはたくさんある。
「オフなら、キルアと一緒に…っ」
言いかけたナマエの胸ぐらを、イルミは掴んでいた。
「それはオレのやることだ。邪魔するな」
話の流れでつい凄んだものの、イルミに気圧されるほど、ナマエはうろたえなかった。腐ってもこの山の住人なのだ。ナマエには矜持はないが、覚悟はある。何を捨てられても、奪われても、揺るがないものがその眼に宿っている。
「……この画像、キルアに見せるから」
「は?」
「きっとすごく笑ってくれると思うの。 普段の恐ろしいイルミの欠片もないから」
「消せ」
「消せない、おやすみ、イルミ」
イルミの腕をふりほどいて、ナマエはスマートな笑みを浮かべた。「父さまから」と、浮わついた声で言う。
「テディがなくても眠れるように、キルアのお部屋で休んでいいってお許しもらったの。私のなかの毒、気化するように設定して、キルアの耐毒のためにもちょうどいいって。キルアの役に立てるなんて、最高に気持ちいいし、少しは眠れる。それじゃイルミ、おやすみなさい。また来週」
誇らしげな女の顔を、イルミは張り飛ばしたい衝動にかられたが、それもバカらしくなってやめた。
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