- ナノ -
ナマエというのは、きっとどこまでも形のない存在なのだろう。
イルミが彼女に初めて引き合わされた時、彼女は"妹"だった。それは単に両親がそうやって紹介したから、という理由に過ぎないのだが、イルミにとってはそれだけで十分な"事実"になりえる。だから、あらゆる日常の端々から微かな違和を感じても、イルミは深く考えなかった。単に、唐突に現れたナマエがゾルディックの娘――つまりはイルミの妹であっても、特に大きな不都合がなかったからかもしれない。
だが、ある日これまた唐突に、ナマエは"妹"ではなくなってしまった。それを話した父の口ぶりには深刻さの欠片もなく、むしろイルミが驚愕したことに驚いているくらいだった。
「年の離れた弟たちが誤解するのならともかく、お前まで本当に妹だと思っていたとはな」
ナマエもこの事実を知っていた”共犯”なのだと確かめた後、イルミはもう一度父親のもとを訪ねた。最初に聞いたときは受け止めるのが精一杯で、ちゃんと話をする余裕もなかった。何より、イルミはこの父親と自分自身に関わる話をするのが久々で、すぐには何を言えばいいのかわからなかったのだ。母さんが、キルアが、という、他の家族を主語にした話題はいくらでもある。だが、イルミがどう思っているかをシルバに伝える機会など、ここ最近はほとんどなかったように思う。
「ナマエと血が繋がってないことについてはもういい。オレが引っ掛かっているのはそこじゃないよ」
実際、イルミが記憶する限り、ナマエの為に母親の腹が膨らんだことはなかった。イルミは彼女の年齢を知っているのだから、少し考えれば子供でも容易にわかることだ。が、一方で「父さんたちが妹だと言ったんだろう」という、非難めいた思いが胸の内でぐるぐると渦巻いてた。それを、今更。しかも、"妹"でなくなっただけでなく、"女"として見ろだなんて。
イルミのやや険のある言い方に、シルバは少し眉を寄せた。それは不快だからというよりも、どうして息子がそこまで騒ぐのかわからない、といった雰囲気だった。
「別に絶対に結婚しろと言ってるわけじゃない。オレはナマエのことも本当の娘のように思っているから、お前たちがそうなってくれればいいな、というだけの話だ。そう深刻に捉えるな」
「でも、ナマエを引き取った時、考えなかったわけじゃないでしょ。ナマエの能力はうちの役に立つし、殺しの適性だってある」
単なる感傷で子供を拾うには、ゾルディック家は殺伐としすぎている。予想通り、シルバはイルミの言葉を否定しなかった。同時に肯定もしなかったが、つまりそういうことだ。絶対の命令ではないけれど、だからこそかえってタチが悪い。なぜならナマエはシルバに救われた存在であり、イルミはゾルディックであろうとする者だからだ。もちろん、ナマエだって息子の嫁になれ、とはっきり言われて育ったわけではないだろうが、ここまで誘導しておいて、むしろ命令でないほうが腹立たしい。
――シルバ様の要望だもの
お前は知っていたの、と問い詰めた時、ナマエの口から真っ先に出た言葉だった。"シルバ様の"、はそっくりそのまま、"父さんの"、という言葉に置き換えても同じ。
別に他に好きな女がいるわけでもなかったし、期待に応えるのは悪いことではないはずだ。ゾルディック全体の利益を考えたとしても損な話ではない。それなのに、そのときどうしてか、イルミは”妹”だった女に初めての感情を抱いた。口では呆れていると言ったし、困惑のほうが強かったが、一旦そこを通り過ぎれば、紛れもなく苛立ちや憎しみと呼ばれる類の感情があった。
――イルミは私とずっと一緒よ。ずっとずっと遠くに行っても、私から離れないで
記憶の中のナマエが、苦く笑う。弟達とは異なる、見知らぬ他人の顔で、ゾルディックの為に笑っている。
別にナマエ個人が嫌いなわけではないけれど、結局二人とも互いのことは手段でしかないのだ。イルミは既にそのことを、彼女の言動から嫌というほど理解している。が、この新しくて複雑な感情と折り合いをつける方法だけが、ちっともわからない。
必然、イルミの混乱は、そのままナマエへの態度に現れることとなった。
「ねぇ、どこへやったの?」
ノックや声掛けの一つもなく。
そう言って、勢いよくイルミの部屋に駆け込んできたナマエは、彼女にしては珍しく取り乱していた。
イルミが表情の乏しさゆえに”何を考えているのかわからない”と言われるのに対し、彼女は逆にいつも微笑んでいるせいで”読めない”タイプだ。そんな彼女が今日に限って動揺し、怒っている原因に、イルミは当然心当たりがある。「イルミなんでしょう? 私のテディを隠したのは」普段の従順さもどこへやら、非難のこもった声音にイルミは肩を竦めた。わざと緩慢な動作で、読みかけだった仕事の資料をテーブルの上に置く。
「捨てたよ。子供じゃないんだから、もう要らないだろ」
「そんな……! 私が大事にしていたこと、知っていたでしょう? どうしてそんな酷いことするの?」
「酷い?」
俯いていたせいで少し乱れた髪を、手でかきあげて元に戻す。ナマエが真剣に怒れば怒るほど、イルミは気持ちが冷えていくのを感じていた。馬鹿馬鹿しい。彼女が仕事の報酬の一部をぬいぐるみで請求していることも、本当は前から気に入らなかった。個人的な依頼でのみそうしているようだったから放っておいたが、関係性が変わると、更に目につくようになった。異常なまでのぬいぐるみに対する執着が、別の何かへの執着を嫌でも連想させたからだ。
「オレが望むなら死ねるとまで言ったナマエが、まさかこんなことくらいで怒るなんてね」
実際にはその覚悟も、”すべてをシルバに委ねた”ことによるもの。しかし、だからこそイルミの指摘に、ナマエは戸惑った表情を浮かべた。
「……そ、それとこれとは関係ないでしょう」
「あるね。”妹”の趣味に口出すつもりはないけど、”夫婦”になるなら別。本気でオレと結婚するつもりなら、全部捨ててもらうよ。あんなものを大量に持ち込まれちゃ迷惑だし」
「私、テディがないと駄目なの」
「そう。だったらナマエはぬいぐるみと結婚すべきだね。父さんにもそう言えば?」
「……」
結婚の話は、あくまで親の”希望”だ。あれ以来正式に話が進んでいるわけでも、他の弟たちにまで知られているわけでもなんでもない。
それでも、ナマエはぐっ、と押し黙って、再び従順さの仮面を被ることを選んだらしかった。後になってテディベアを探しに、執事邸へ向かう可能性はあるが、少なくとも面と向かって”イルミと結婚する気はない”とは言い返さない。
来た時とは違って静かに閉められた扉は、彼女の性格をよく表しているようだった。「少し”父さん”って単語を出しただけなのにね……」扱いやすいこと、この上ない。本来ならば歓迎すべきはずのその事実に、イルミはまたも言い知れぬ感情を持て余していた。
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