- ナノ -
「こんやく?」
ナマエは、まだうまく意味がのみこめないでいるような、不安そうな声で聞き返した。
イルミはナマエの頬に手をのばして、涙のあとを拭うように頬に触った。そしてゆっくりと繰り返した。
「そう、婚約」
「それって、結婚の約束をするっていうことであってる?」
「うん、そーだよ」
頬をなでるイルミの手に、ナマエはされるがままにしていた。人を殺す指先が、あたたかくて気持ちがいい。イルミが思いのほか優しい態度なのでこみあげてくるものがあって、ふいに涙が沸いてきそうになる。
「イルミは……私と結婚する気があるの?」
「あるよ」
ためらいがちに問いかけたら、間髪入れずに応えられて、ナマエは目をまるくした。イルミが結婚を受け入れているという事実に、内心おどろいたのだ。
ナマエは混乱していた。イルミの質問に否応なく答えさせられて、まだ自分でもうまく感情の整理がつかない。こんなにイルミのことを想っている自分の感情が煩わしいほど苦しくて、ようやく絞り出すように言えたのは、イルミを好きだというのが仮の話などではないということだけだった。面と向かって想いを告げる勇気はなかった。それがひどく苦しい。
「ほんとうに、私のことを知りたいと思ったの?」
「そう言ってるでしょ、じゃなきゃ婚約しようなんて言わないよ」
「婚約……」
「なにか不満でもある? 言いたいことがあるなら言ってみな」
言葉につまるナマエの頭をぽん、と撫でてイルミは言った。その手が遠ざかるのに不安を覚えたナマエは、咄嗟にイルミの手首を両手でつかんでいた。なに、という顔をするイルミから視線をそらして、ナマエはイルミの手のひらに頬をあてがった。イルミの手のひらのあたたかさを味わって、鼓動がふるえるのを感じた。ナマエはどうしても、この手を離したくない。
「私、素直じゃないの、そういう性格なの」
「それは、わかってるよ」
「わかってないわよ、イルミはまだ、私のこと全然知らない、と思う」
「うん」
「だから、知ってほしいと思う」
素直になれなくて、それなのにイルミに甘えてきた自分が狡いとナマエは思い始めていた。そうだ、イルミはナマエを妹だと思ってきたのに、自分はイルミのことをずっと一人の男として、いずれ一緒になるかもしれない相手として意識して生きてきた。そしてナマエはゾルディックにふさわしい人間であろうとしてきた。それでも、この毒素だけが取り柄みたいな自分は、どう足掻いても、ほんもののゾルディックの血を継いだ者には近づけなかった。ゾルディックでありたい。イルミみたいになりたくて、心のどこかでいつも縋りたい相手でもあった。自分には誰かが必要だ。自分ひとりじゃどうにもならない。この力をゾルディックのために活用して、生かしてくれる誰か。その誰かは、いつしかイルミだと思うようになっていた。
「私もイルミのこと、もっとよく知りたい」
シルバ様のためなら何だってできる。それは本当のことだけれど、ナマエはナマエなりに命をかけて支えたい相手を見出していたのだ。この身にあふれる毒素のせいで、誰にも抱きしめてもらえずに育った。抱きしめられるのはテディだけだった。昨夜、イルミに抱きしめられてほんとうは嬉しかった。毒素を浴びて、それでもナマエを抱き寄せてあやしてくれたイルミを、どんなに大切な存在に感じたことか。
「もうテディなんて、いらないの」
「うん」
「私、イルミと婚約する」
「うん、いいよ、オレもそれがいいと思う」
「でもね、イルミ」
「なに」
「婚約って、具体的にどんな関係なの?」
「それは……」
イルミが言葉につまった。ナマエはじっとイルミを見あげた。一瞬、考えて、ナマエはイルミの手を引いた。イルミがナマエを見つめるので、ナマエは頬を染めて顔を反らした。
「……海」
とナマエは言った。
「海?」
とイルミも言った。
「海が見たい。一緒に来て」
「……いいけど」
いったいどういうつもりなのか、という雰囲気を纏ったイルミの腕をぐいと引っ張って、ナマエはコテージの外へ向かった。ナマエがいそいそとイルミを引っ張っていくので、ふたりとも浜辺に裸足で駆けだしていた。潮の匂いが鼻につく。波の音がする。空と海の境目がない。砂浜に立つと、島全体がぽっかりと青い空間を漂っているような錯覚に陥る。
こじんまりとした白亜の建物をふりかえって、海を見渡して、ナマエは隣に立つイルミを見あげた。二人きりだ、と今更だが思う。つかんでいた腕をおそるおそる下ろしていって、ナマエはイルミの手のひらに触れた。すると握り返してくる手のひらがあって、ナマエは心臓をつかまれたみたいに胸苦しくなった。ナマエがよく見る恋愛もののドラマに出てくるときめきというのは、こういうものなのかもしれない。
「私たち、いつか結婚するのよね?」
「……まあ、そうなるね」
「じゃあ、そのときはまたこの島に来る?」
「え?」
「こうして二人きりのときを、夫婦として初めて過ごすのは、きっとここでしょう?」
「ああ、そうかもしれない。ここなら、二人きりだからね」
イルミは何もない海を眺めながら、応えた。
ナマエは、そんなイルミを見あげていた。風が吹く。波の音が、まるで自分の複雑な心境を語っているように、響いてくる。
「お願いがあるの」
ナマエは、消え入りそうな小さな声で言った。
その声はイルミにちゃんと届いたらしく、イルミはナマエをみた。「なに?」と、イルミはかがんでナマエの顔に耳を近づけた。
「今のお互いの気持ちを確かめたいの、だから、その……キスしてほしい」
「……ほんとにそれでわかると思ってる?」
「……い、嫌ならいいの! 別に!」
「嫌だなんて言ってないでしょ」
ナマエはイルミの手のひらをふり払って、そっぽ向く。
自分から言い出したことだがあまりに恥ずかしく、イルミにからかわれた気がしてくやしく、目が潤みそうになった。婚約してるんだから、付き合っている恋人と思って接するのが普通じゃないのだろうか。イルミの感覚とはもしかしたらずれが生じているのかもしれない。その辺りのところを、ちゃんと擦り合わせておかないとすれ違ってしまうんじゃないか。ナマエはそんなことを思って、空と海の青を見つめた。ここから、二人の関係は始まったばかりだ。果たしてどうなるのだろう。
「仕方ないな……ナマエ、こっち向いて」
イルミが何気なく呼ぶので、ナマエはふりかえった。
見上げた先にイルミがいて、ゆっくりと顔が近づいてきていて、唇と唇が重なった。止めようと思えば止められたけれど、受けとめることにした。早速、恥ずかしくてたまらないのだけれど。同時に満たされる何かがあった。気持ちを確かめる、なんてただの口実だった。
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