- ナノ -
ふに、と唇に触れた手のひらは、本当に暗殺稼業の娘なのかと思うほど柔らかかった。ナマエの戦い方を思えば仕方がないことなのかもしれないが、ろくに武器すら持ったことがないのではないかと思う。
元はと言えばそちらが先に仕掛けてきた行為だった。それをどうして今更になって拒否されなければならないのかわからない。
イルミはムッとして、ナマエの背に腕を回すのをやめると、代わりに彼女の手を掴んで下ろさせた。
「ちょ、」
そんな子供みたいな手のひらで、止められると思っているのか。動揺するナマエからぶわりと濃い毒が拡散されたけれど、イルミは構わず強引に口づける。
ナマエの唇は、手のひらよりももっとずっと柔らかかった。その柔さを確かめるように何度も下唇をはんでみる。そして、混乱して彼女が固まってしまったのをいいことに、イルミはそのまま舌を侵入させた。
「っ!? ん、んんっ」
すると思い出したように胸元を強く押されたが、イルミは構わず逃げるナマエの舌を追う。鼻で呼吸をすればいいだけなのに、頭がまわらないのかナマエは苦しそうだった。彼女が動揺し、苦しめば苦しむほど、毒は強く濃くなっていく。
「ん……」
たっぷりと時間をかけて咥内を犯しつくしたあと、イルミはくらりと眩暈がするのを感じて、ようやくナマエを解放した。
ナマエはというと息を荒げて、涙に潤んだ目でこちらを睨み上げていた。
「っ、な、んで……こんな……」
「ナマエが先にやろうとしたことでしょ」
「ちがっ、こんな……! 触れるだけでよかったのに、ここまでやるなんて!」
「まったく、とことん子供だね」
イルミはそう言って馬鹿にするように笑ったが、一方で指先が痺れてきているのを感じていた。悪寒に背筋がぞくぞくとし、冷たい汗がじわりと流れる。久しぶりの感覚だった。いくら耐性があるとはいえ、直接粘膜を触れ合わせたのはまずかったみたいだ。少し休めば回復すると思うけれど、ナマエに気取られたくない。
まだうまく感情を整理できないでいるナマエをそのままに、イルミはベッドから立ち上がっておやすみ、と背を向けた。
「ま、待ってよ! 逃げるつもり!?」
「逃げる? この場にとどまって何かあるの? それとも早速わかったとでも言うわけ?」
「わかったって、何が、」
「キス。したら好きかわかるかもしれないって言ったの、ナマエでしょ」
それは彼女の主張ではお互いに、という話だったが、イルミは一方的にそう聞いた。なぜならイルミにわかったのは、ナマエの唇が柔らかくて、溶けそうなくらい咥内が熱くて、尋常じゃないほどの毒が含まれていることくらいだったからだ。
「……わ、わかるわけないじゃない! こんな突然、強引にされて……」
「そう。じゃあ失敗だね」
極力、顔に出さないようにしてはいたものの、既に視界はぼやけ始めていた。早く一人になって身体を休めたい。
イルミはいつも以上に素っ気ない態度で、さっさと部屋を出ようとした。
「待ってったら!」
ほとんど泣いてるみたいな声で。後ろから、思い切り腕を引かれて。
ナマエも焦って相当な勢いで引っ張ったのだろうが、イルミは柄にもなくよろめいた。そのまま倒れそうになるところを、足を踏ん張って必死に耐える。体勢を崩したことで、ナマエと視線の高さが同じになった。結果、真正面から顔を見られることになって、しまったと思ったときにはもう遅かった。
「酷い汗……。もしかして、毒のせい?」
さっきまで怒っていたはずのナマエは、今や驚愕に瞳を見開いていた。息を呑んで、イルミ以上に顔を青ざめさせている。ナマエの前で、ここまで毒にやられる様を見せるのは初めてだったから、余計に衝撃だったのかもしれない。
「別に……これくらいどうってことないよ。少し休めばなんとかなる」
「で、でも、イルミがここまでなるなんて、」
「大丈夫だって言ってるだろ」
「いやだ、やだ、死なないで!」
「……勝手に殺そうとしないでよ」
死ぬほどの重症ではない。むしろ、ナマエが取り乱すほどまた強い毒がまき散らされているので、彼女の心配は逆効果になっている。
バレてしまったのなら仕方がないと、イルミは諦めてもう一度ベッドに腰を下ろした。平気なふりをしていても、リビングに向かうそのちょっとの距離ですら既に耐え難かった。
「イルミ、」
「頼むから……ちょっと静かにして、落ち着いてよ」
「だけど、私の毒のせいで……!」
「ナマエからしたら、いい気味でしょ……無理矢理キスしたせいで、こうなってるんだから」
「嫌! もし、もしもイルミが死んじゃったら、私……生きていけないもの!」
だから、死なないって言ってるのに。本当に人の話を聞かない女だ。
そもそも死なせたくないと思うならさっさと距離をとって離れるべきなのに、彼女は泣いてイルミに縋り付く。
「……馬鹿じゃないの」
呟いてみたが、声がかすれたせいで彼女には聞こえていないようだった。それでも、ナマエがこうして必死になっていることにはイルミも悪い気がしなかった。
近づいたおかげで、わかったこともあるじゃないか。
「ねぇ、ナマエ、落ち着いてったら」
「無理よ、落ち着いてなんかいられないわよ!」
「……オレはナマエの毒くらいじゃ、死なないから」
――このままずっと、ナマエが泣きわめいていたらどうか知らないけど。
イルミはだるい腕を無理に持ち上げて、ナマエの身体を引き寄せる。そして優しく背中を撫でながら、あやすようにぎゅっと抱きしめた。
イルミ、と不安げに名前を呼ばれても、動きの悪くなった口で大丈夫だから、と返す。
「お願い、一人にしないで……いやなの」
「してないでしょ」
どこまでいっても自分本位な物言いに一瞬呆れたものの、イルミはナマエを離さなかった。
そうやって根気よく抱きしめ続けていれば、やがて彼女の周囲にまき散らされていた毒はだんだんと弱く薄くなっていったのだった。
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