- ナノ -
イルミの瞳をみて、怖気づいた風のナマエは、さっと視線をそらした。それから、唐突にその場にしゃがみこんだ。
「疲れたの、もう歩けない」
と、ナマエは言った。
イルミは、顔をふせてうずくまったナマエを見下ろした。その表情は見えないが、声がふるえている。早朝から絶の修行、そして先程の会話、疲れているのは本当だろう。しかしそんなふうに動揺されては、イルミはかける言葉が見当たらない。
――オレにどうしろっていうの
イルミは、溜息を落とした。
それからナマエの前に膝をついて、背中を差し出した。
「背負ってやるから、はやく乗りなよ」
「……ん」
ナマエは短くうなずいて、イルミの背中にひっついた。
イルミはその温もりに混じった毒素を肌に感じながら、コテージへと向かった。薄暗い足場を、難なく乗り越えていく。
ナマエはイルミの首に腕を回して、ぎゅっと抱きついている。
――私は、自分の好きな人に愛されたい
ナマエが、そんな発言をするとは思わなかった。
我儘で、寂しがりで、絶が下手で、相変わらず毒素が滲み出ていて、どうしようもない女だな、とイルミは思う。どうしてそう不安定になるのか。ナマエの寂しさはやはり埋めてはやれない、と感じる。ナマエの寂しさの根源を知らないが、ただ途方もなく大きい。昔からそうだった。
「ナマエ、オーラが乱れてる。深呼吸して」
「……できない」
「いいから、ゆっくり、息を吸って」
「……ぐす」
「……もしかして泣いてるの?」
「ち、ちがう」
「じゃ、深呼吸」
「やだ、今はできない、もう話しかけないで」
そう言われて、イルミは嘆息した。
扱いにくい。しかし、これでも気を遣ってやっているほうだ。
ナマエが自分の好きな相手に愛されたいのなら、この結婚はやはり無理ではないかとイルミは考えた。そしてそれはイルミだって当たり前に望むことだ。相手に拒絶され、自分も拒絶しながら結婚生活を送る気はない。父親は落胆するだろうか。するだろう、とイルミは思う。
ナマエはシルバの命令なら従うと言っていたのに、愛されたいなどと言いだす始末。イルミにどうしろというのだろう。
「ナマエ、絶をしてごらん」
「話しかけないで、疲れてるの」
ナマエは言い切った。
ちょっと涙声で、イルミはひどく居心地が悪い。
「ナマエの毒素は環境に悪いんだよ。父さん達が大事にしてるこの地を枯らしたくなかったら、今すぐ深呼吸しろ」
「……そうやってお父さまの名前を出したら、私が従うと思ってるのね」
「事実だろ」
「事実よ、悪かったわね」
「怒ったり泣いたり、忙しいやつだな」
「泣いてないんだから!」
「ああ、そう、ほらはやく深呼吸してごらん」
イルミはすこし面倒になって言った。なんだかんだ言って、話し合いに応じる程度にはナマエにも元気は残っているらしい。毒素はほんの少し薄れてきた。そうこうしているうちに、コテージに着く。
ナマエを椅子におろして、イルミは伸びをした。
「明日も修行でいいかい」
と、イルミは言った。
ナマエは、驚愕したような顔になって固まった。
イルミは冷蔵庫から水をとりだして、一口、口に含んだ。水をテーブルに置いて、腰に手をやり、首をひねった。疑問をそのまま口にする。
「なに、その顔」
「信じられない、こんな絶景のなかにいるのに、すこしは観光しようとか思わないの?」
「そんな悠長なことを考えていられるほど暢気じゃないから」
「私がなにも考えてないみたいに言わないでよ」
「じゃ、考えてるの?」
「えっ」
「おそらくね、空色着物の女たちは準備してるよ」
「準備って、なに」
「オレたちの結婚の儀について、ね」
「なに、それ?」
「やっぱり何も考えてない。ナマエは気楽でいいね」
ふ、とイルミは笑った。嘲笑以外のなにものでもなかった。
椅子から立ち上がったナマエは、頬を上気させて唸った。
「なにも考えてないわけないじゃない、むしろ、今日一日中考えさせられて、頭がいっぱいいっぱいなのよ!?」
「じゃ、おやすみ」
「ちょっと、待ってよ! 結婚の儀ってなんのこと!?」
「オレに聞かれてもね」
「イルミっていつもそう、肝心な事は黙ってる」
「なに」
「誰のせいで私がぐちゃぐちゃになってると思ってるの」
言うなり、ナマエはイルミの腕をとり、引っ張った。ずるずると引っ張っていって、ベッドの端に腰かけたイルミを、ナマエは怒りに赤くなった顔で、見下ろした。
イルミは、ナマエを見あげた。
その顔を見つめていると、急に瞳が弱々しくなって、へたっていく。頬を染めて、泣きそうになりながら、イルミを見下ろしてくる。
「わ、私は!」
とつぜん大きな声でナマエは言った。
イルミは澄ました顔で、つづきを待った。
「……なに」
「だから、ええっと、その……」
ナマエは勢いをなくす。
イルミは突如、ナマエの両手に頬を挟まれた。ナマエの顔が近づいてくる。かなり近づいてくるので、イルミは咄嗟に手を挟んだ。ナマエの口元へ。
イルミが制さなければ、キス、しているところだった。
目を閉じたナマエが、うっすらと目を開けていく。イルミの手のひらに口づけているのをみとめて、顔じゅうが赤くなる。
「急なキスだね、なんのつもり?」
「……し、してないでしょ。イルミが防いだんだから」
「オレはなんのつもりかって聞いてるんだけど」
ナマエはそっぽ向いた。
逃げようとする身体に腕を回して、イルミはナマエを引き寄せた。
ナマエが涙目になっている。
これでは自分が苛めているみたいだな、とイルミは思う。振り回してきているのはナマエの方だというのに。
「……ったの」
「え、なに」
「ち、近づいたら、好きかどうか、わかると思ったの! お互いにね!」
投げやりな感じでナマエは叫んだ。
それでキスしようなんて真似を。イルミははあ、と溜息をはく。好きな人に愛されたい、という素直な欲求を、イルミで試そうとしたということか。
「そんなことでわかるの?」
「……たぶん」
曖昧だなあ、とイルミは思う。お互いに、などと言われても困惑するだけだ。ナマエがわかるかどうかはともかく、なぜ自分まで試されているのだろう。嫌いな人間とはキスできないのは当たり前として、そうでなくてもキスくらいはできるのではないか。と、イルミは思うのだが、ナマエが真剣な目をしているので、笑ったりできなかった。それよりも疲れているのではなかったのか。いや、疲れているからこうなったのかもしれない。回らない頭で考えた結果の行動、ともいえる。
「いいよ」
と、イルミは何気なく言った。
それで何かがわかるのなら、別にいいような気がしたのだ。そんな方法をとろうとしたのも、それなりの覚悟あってのことだろう。
「えっ」
うろたえたのはナマエだ。
何を今更、とイルミはナマエの背中を抱き、もう一方の手で頭を抱いた。
「ちゃんと答えを見つけろよ、オレのことが好きかどうか、ね」
そう言って、イルミはナマエにキスをした。が、今度はナマエの手が、イルミの唇を押しとどめていた。
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