- ナノ -
どくん、どくん、と耳に響く音は、憎たらしいほど規則正しかった。頬を寄せた身体も、ただあたたかいだけではっとするような熱を帯びているわけでもない。不意に抱き着いても、イルミは少しも揺らがなかった。ずるい、ともう一度ナマエの口からこぼれる。それから、イルミがこの行動の訳や言葉の意味を問う前に、遮るように言った。
「疲れたの」
嘘ではなかった。やっていたことと言えば、ただ岩場の陰でじっと隠れることだけだったが、今日のナマエは色んなことを考えすぎたように思う。先ほどは憎らしかった拍動のリズムが心地よく聞こえ、テディにはない生き物の暖かさに安らぎを覚える。力を抜けば、その分支えるイルミの腕に力がこもったのがわかった。そんな何気ないことが、泣きたくなるほど嬉しかった。
「来るのが遅いのよ」
「……」
「このまま、放っておかれるんじゃないかって思った」
修行の目的を根底からひっくり返す発言を、イルミは不快に思っただろうか。だが、すぐさま反論が来ないことをみるに、彼も無駄に時間をかけた自覚があるらしい。実際、日はもう沈み始めて、吹き付ける風は湿気を強くはらんでいた。
「さすがに、ずっと放置はしないけど」
「どうだか」
「……考える時間が必要だったんだよ」
頭上のイルミはため息をつくと、躊躇いがちに、ほとんど渋々といった口調で、彼が本気で探さなかったことを認めた。「オレが勝った時は、ナマエに何をしてもらおうかって」そういえば、修行がうまくいったとき、ご褒美があるのはいつもこちら側だけだった。ゾルディックがすべてのイルミにとって、弟たちが成長し、力をつけることこそが、彼へのご褒美だったのかもしれないが、それだけ片付けてしまうにはなんとなく不公平な気もする。
ナマエは顔をあげて、イルミの瞳を真正面からみつめた。
「それで、決まったの? イルミは私に何を望むの?」
「……話はコテージに帰ってからにするんじゃなかったの?」
「説教だったら後が良い。だけど、望みなら、そんな長い話にもならないと思って」
ナマエはそっと身を離した。さて、結婚は嫌だとお前から父さんに言え、と言われるのだろうか。立場で言えばイルミのほうがよほど断りやすいはずなのに、彼は親の前ではいい子ぶるきらいがある。もしくは、もっと悪ければ、消えろと言われるかもしれない。ナマエは血のつながった家族ではないのだ。こうして島に閉じ込められる原因となるような、厄介ごとを起こす存在ならば彼にとってはいないほうがいいのかもしれない。
ナマエは愛されたがりで、みっともなく癇癪を起したり、必死ですがりついて泣きわめいたりする子供のような女だ。だが、同時にぞっとするような諦観も、その身のうちに抱えていた。
――どうせ、私はひとり。だれも望んではくれない。
それが真実かどうかなんて重要ではない。
先に自分でそう思っていたほうが、ずっと生きるのが楽なのだ。
ナマエは勝手な覚悟を決めて、イルミの唇が動くのを見ていた。投げかけられる言葉をただの文字として認識するように、口の形に集中するよう努めていた。たとえ何を言われても、みっともないところは見せないようにしよう。怒ったり、泣きわめくのは終わりにしよう。今更ながら、イルミによく見られたいなんて自分でも馬鹿だと思うが、ナマエの好きな恋愛物に出てくる登場人物も、押しなべて馬鹿だったからそういうものなのだろう。
イルミはそういう愚かさとは程遠いところにいる気がした。
「……え?」
だからこそ、ナマエははじめ、何を言われたのかすぐに理解できなかった。
聞き返すと、イルミはわかりやすく眉をしかめた。それは単に二度言わされる手間を疎んじただけでなく、彼自身もその望みは認めがたいというような雰囲気だった。
しばし逡巡の間があって、イルミは口を開く。彼は確かに勝ったはずなのに、とても勝者の態度には見えなかった。
「だから……ナマエのこと教えてって言ったんだ。ナマエが何を考えてるのか、話せって」
二回聞いても、やはりナマエには理解しがたかった。目の間にいるのは本当に“あの”イルミなのだろうか。そんな馬鹿げた疑問がつい浮かぶほど、ナマエはひどく戸惑っていた。
「……意味が、わからないわ」
「ナマエだって、オレに言っただろ。おんなじじゃないか」
「それは、そうだけど……でも、なんで、」
「質問してるのはこっち。たっぷり考える時間はあげただろ」
確かに時間はたくさんあった。いつになく考えたし、そのおかげで嫌なことだって思い出した。長らく避けてきた自分の心とも、自分なりに向き合ったと思う。けれど、それがイルミの望む回答なのかわからなかった。イルミがせっかくの勝利を無駄にしてまで、知りたいこととは到底思えない。「……質問が、漠然としすぎてる」苦し紛れに発した声は、ほとんど呻くような調子だった。
「その批判も、そのままナマエに返るだけだよ」
「……」
「ナマエは自分が勝ったら何を聞くつもりだったの? オレに答えさせたかった質問を、そのまま自分に向ければいい」
「そんなのわからない……」
正直に言うしかなかったが、怒られるだろうと思った。無意味でわけのわからないことを嫌うのは、どっちかというと彼のほうだ。けれども予想に反して、イルミは肩を竦めただけだった。
「だろうね」
なんでも見透かしたような口ぶり。イルミはナマエを見透かしているのに、ナマエはイルミのことがちっともわからない。それが嫌だったのだ。だから教えて、なんて妙なことを言ったのだ。
いつものナマエであれば、超然とした態度のイルミにムッとして終わりだっただろう。しかし、今日のナマエは正直に言うことにした。なぜなら、イルミが――このくだらないゲームの勝者が――求めたことだったからだ。
「イルミに何を聞きたかったのか、わからない。だって、知らないことが多すぎるもの」
「それって矛盾してない?」
「そうかもね。でも、理屈じゃないの。イルミにはわからないかもしれないけど」
言ってから、ナマエはハッとした。つい先ほど、イルミはなんでも見透かしていると腹を立てたくせに、今度は彼にはわからないだろう、と思っている。あまりの自分のめちゃくちゃさに笑いがこみあげてくるほどだ。みっともないところは見せないようにしようと誓ったばかりなのに、思いのほかするりと感情が口をついて出る。
「ただ漠然と、イルミのことをもっと知れたら、寂しくなくなるかと思ったのよ」
なんだかんだ言って、イルミはこのまま結婚を受け入れてしまうのではないかと心のどこかで思っていた。理由は簡単。彼の親が望み、ゾルディックの為になるからだ。実際、ナマエだって、彼と考え方は大きく違わない。父や母のように慕っている彼らの望みであれば、応えたいと思う。娘として必要としてもらえるならば、そこに夫婦の愛がなくたって別に構わないと思っていた。
ほんの少し前までは。自分がイルミに何を望んでいるのか、自覚するまでは。
「オレにナマエの寂しさを埋める気はないよ」
しかし、ナマエの胸中も知らず、イルミはあっさりとそう言ってのけた。いや、実際のところはどうなのかわからないが、少なくともナマエにはひどく素っ気なく聞こえた。
「その寂しさを埋めるのが、誰でもいいと思っているならね。たとえそれが父さんの命令であっても、そんな女とは結婚したくない」
「……」
ナマエはどう反応していいかわからなかった。イルミがこの結婚について、ナマエについて、どう考えているのかは確かに知りたかったが、役に立つのなら愛なんかなくていい、という答えも嫌だし、たとえ家族の期待に背くことになっても無理だと拒絶されるのも複雑だ。だって、これは仮定の話ではなくて、今まさにナマエたちにふりかかっている問題だから。
「ほんとにそう思ってる? その女が、ゾルディック家にものすごく役に立つ能力があっても結婚しない?」
「それは能力によるだろ」
「ほら」
「何がほら、なの。言っておくけど、ナマエの能力にそこまでの価値はないよ」
ぐさり。言葉に形があったのなら、きっとそれは音を立ててナマエに突き刺さっただろう。イルミのことを知りたかった。だけど、知らなきゃよかったかもしれない。
鼻の奥がつん、と痛んで、ナマエは慌てて少し上を向いた。不自然にならないように、話を続ける。自分の考えはまとまりそうにないから、とりあえず相手の言ったことをまとめて繰り返す。
「つまり……その、イルミは家のための結婚でも最悪構わないけれど、できれば自分のことを好きな女がいいってこと?」
「そうだけど。それっておかしい?」
間髪入れずに肯定されて、ナマエは鼻白んだ。たぶん、おかしくはないのだろう。イルミの問いに、ぎこちなく首を横に振る。ずっと一緒にいるのなら、その相手に嫌われているより好かれているほうが良いに決まっている。ただそれだけだ。
「……だけど私は、できればじゃ嫌なの。それに、誰でもいいわけじゃない」
声が震えて、まるで自分ではない誰かが喋っているような感覚だった。イルミの言動をみると、正直さは美徳とは言い難い。ナマエ自身、正直になるのは恐ろしい。本当のことを言えば、欲深いと呆れられるかもしれない。夢見がちと笑われるかもしれない。幼くて根源的な望みだからこそ、大人になれば口にするのがためらわれる。
だが、なかなか言葉を続けられないでいるナマエを後押ししたのは、ただ黙って待つというイルミの態度だった。彼は、彼にしては珍しく、とても気長に佇んでいた。まるで、ナマエが正直になるのを、はじめから待っていたかのように。
「……私は、自分の好きな人に愛されたい」
――ずっとずっと遠くに行っても、私から離れないで
かつて、ナマエは誰にそう言っただろうか。思い出すまでもない。あの時から、誰でもよかったわけではないのだ。
その証拠に、向かい合ったイルミの黒い瞳の中には、あの時と同じ表情をしたナマエが浮かんでいた。
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