- ナノ -
日が傾いて、辺りが薄暗くなってきた頃、ナマエはようやく瞼を開いた。絶を保ち続けて何時間経っただろう。動いてはいないが、さすがに疲れてきた。もともと絶が苦手なのだ。イルミとの修行では何度も失敗している。
それにしたって、イルミは何をやっているのだろうと思う。
いつもならもう、とっくに見つかっていてもいい頃合いだ。ナマエは半ばあきらめている。こんな狭い島じゃ、イルミを相手に逃げ回ったって意味がない。
「……ほんとに探してるのかしら」
ちょっと疑いたくなるくらい、ナマエはイルミに見つかるのを、この岩場で待っていた。安易に場所を変える方が、イルミには見つかりやすいはずだし、テディのことも諦めている。
待っているあいだナマエはずっと、遠い過去のことに思い巡らせていた。それしかすることがなかった。
掃き溜めから救ってくれた老人を抱きしめることもできなかった昔の自分。それから後に出会ったお父さまは難なく自分を抱きしめてくれた。そのことは、寂しくて堪らないナマエの胸中に甘く響いた。小さな屋根裏に潜んで暮らした年月。小窓から眺めた外の世界。テディを抱く少女を腕に抱きしめる大人の男。抱擁する親子の姿に憧憬を抱いた。ナマエは、好きなだけ抱きしめられるテディだけが救いだと信じた。それなのに、もう、テディを抱きしめたって寂しさは消えない。
お父さまがいても同じことだ。
唯一の例外が、イルミだった。
イルミが全部捨ててもらうって言ったから。
ナマエは過去さえ捨てようと思っただけ。惨めで残酷で冷たい暗闇のなかを生きたことも。お父さまへの思慕も。テディも。まだうまく処理できない感情の発露も。
全部捨てたら、どうなるのだろう。
イルミのことを、特別に感じられるのだろうか。
いや、ほんとうは心のどこかで特別だと、感じていたのかもしれない。
イルミが仕事で発つとき、ナマエはひっそりとその姿を見送っていた。兄ではない。イルミというひとりの暗殺者のことを。家の人間が出払っていて一人になりそうなとき、訳もなく落ち着かなくなり、イルミが乗る飛行船に忍び込んだことを覚えている。
いつだったか、お父さまに言われた。
イルミと一緒になるといい。
そんな曖昧で簡潔な一言に、戸惑いを感じながらも、イルミのことを意識していた。
何も知らずにナマエを妹として扱うイルミに対して、必要以上に恐れを抱いていたのかもしれない。
これから起きるであろう、家族の変化に。
日が傾くにつれて空が薄赤く染まっていった。
ナマエは岩場から顔を覗かせて、辺りをうかがった。水の音がするばかりで、どんなに耳をすませても周辺からは何の気配も伝わらず、とうとう我慢できなくなって、岩場から一歩外へでた。
欲しいと望めばいくらでもテディを手に入れることはできたのに、ナマエが真実求めていたのはあたたかな抱擁だけだった。ナマエの慰めとなったテディにはもうそれほどの効力はない。何故だろう。ナマエは今、拒絶を恐れている。イルミとの関係が、ナマエにもたらすものに恐れている。
岩場に立って、ナマエは肩を落とす。川辺に膝をついて、水の中に両手を入れた。すくってもすくっても手のひらから零れ落ちてゆく。きれいな真水だった。すくった水で喉を潤して、背中を丸め、息をひそめた。
ナマエは別にあきらめているわけではなく、ただ暇だからここにいるだけだ。イルミのことを教えてほしいなんて口走ってしまったが、実際何を教えてほしいのか深く考えて出た言葉ではなかった。だから、テディもイルミのことも、どっちだっていいような気がしている。
「見つけてくれないと、困るのよ」
ナマエはひとり呟いて、川を渡ろうとした。
絶をするのも疲れていた。
気配がしたのは、立ち上がって飛びだそうとしたときだった。
「みーつけた」
腕をつかまれて、ナマエは危うく転びそうになった。
薄暗い空を背景に、イルミが岩場の上に寝そべって、ナマエの腕をつかまえている。
イルミのことだから当然なのだけれど、あまりにも気配がなくて、ナマエは一瞬、悲鳴をあげそうになった。そんな声をあげたらきっと笑われるだろうから、我慢した。
「今、油断してただろ」
「……私の負け、ね」
「なに、その顔」
「なにって?」
「悔しそうじゃないね? もしかして諦めてたの?」
「べつに、そういうつもりじゃない」
諦めてた、なんて正直に言ったら、イルミはたぶん怒る。ナマエは、そっけなく言い返した。
イルミが岩場を降りてくる。腕をつかまれたまま、目の前に立ちはだかるイルミを、ナマエは途方もない気持ちで見上げた。
「オレの勝ち、ってことで、提案があるんだけど」
「話はコテージに戻ってからにしてくれない。疲れてるの」
「……いいよ、わかった」
「こんなの、ずるい」
「なに、何か言った?」
イルミは腕を離してくれない。その温もりに、寂しさが募る。この夕暮れの空さえも切なく映ってみえてくる。
「……ナマエ……?」
顔をしかめたナマエは、イルミの疑問にはこたえずに、距離をつめた。ぎゅっと、イルミの胸の中へ入りこむ。イルミの腕のなかはどんな匂いがするだろう。どんな体温だろう。そんなことが気になって、ナマエはイルミに抱きついていた。
ほんとうはイルミのことが気になって仕方がない。
ナマエは目を瞑って、顔を埋める。イルミの鼓動が聞こえた。
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