- ナノ -
いつまでたっても寂しさが埋まらないのは、本当の愛を手に入れていないからだと思っていた。
そう広くはない島。人工物もあのコテージと空色着物の女たちが控える別棟くらいしかないため、まともに身を隠せる場所など限られている。
あるのは海と、砂浜と、温暖な気候のおかげで青々と茂る緑。前者ふたつに長時間身を隠すのは流石に命の心配があるので、必然最後のひとつしか残らない。言い逃げる様にして飛び出してきたのはよかったが、ナマエはちっともイルミから逃げきれる自信がなかった。あの広大なゾルディック家の庭であっても逃げきれた試しがないのに、イルミの出した条件はあまりに無茶苦茶だ。きっと初めからテディを返すつもりなどなく、これも単に嫌がらせのひとつなのだろう。
「……だけど、あの顔はちょっと気分が良かったわ」
瞳を丸くし、虚を突かれたといった表情のイルミを思い出す。彼はまさかテディが切り札にならないとは予想もしていなかったのだろう。この島へ来てからナマエは心をぐちゃぐちゃに乱されてばかりで、反対にいつも通り涼しい顔をしているイルミが憎くてたまらなかった。これでようやく、意趣返しができたというものだろう。この勝負は九分九厘ナマエに勝ち目などないが、テディが手元に戻らなくてナマエが憤慨することも悔しがることもない。イルミは勝手に勝ったつもりになっていればいいのだ。
「馬鹿なひと」
ナマエが負ければ、もちろんもうひとつの賞品も手に入らない。
けれども、ナマエのほうは゛望みを口にしただけで″十分意味がある。あのときは咄嗟のことで、深く考えていたわけではないけれど、勢いで言ってしまってよかったと思う。今のナマエが知りたいのは――ナマエが本当に向き合いたいと思い始めているのは、゛お父様″ではないのだ。自分でもやっと、そうだったのだ、と気づいたばかりだけれど。
日の差し込む場所ではどうしても隠れた気にならず、ナマエは少しでも暗いところを探した。熱帯の植物は葉こそ大きいけれど、その幹は細くしなやかなものが多く、あまり隠れるのには適さない。途中、真水と思われる川があったので、ナマエはその上流を目指すことにした。上流に向かえば、少しくらいは岩場のある場所に出られるだろう。平坦な場所よりもそうした凹凸があるところのほうがまだ身を隠しやすい。水の流れる、本来ならば癒し効果のありそうな音を聞きながら、ナマエは自分の生まれた場所を思い出していた。赤ん坊の頃の記憶はないけれど、とても酷い環境だったことだけは感覚として覚えている。
川の始点に辿り着いたナマエは適当な岩陰に腰を下ろした。重なりにできたその隙間は意外と奥に空間があったけれど、それでも完全な暗闇とは言い難い。少しでも光から逃れるように、ナマエは瞼を閉じた。
――本当に、私と母はこんなところに?
じっとりと肌にべたつく湿気。卵の腐ったような酷い臭い。近くに住宅地はないので、これらはほとんど工業廃水なのだろう。流れる水は濁って、毒々しい色をしていた。あまりにも生き物に適さない環境なのか、下水道の住人であるねずみの一匹もいやしない。
幼かったナマエは目の前に広がる光景に愕然とし、それから傍らの老人を見上げた。彼は過去に仕事でヘマをやったために舌を失っていたが、ナマエの質問に頷いて答えることはできたのだ。
――こんなところに妊婦を捨てるなんて、死ねって言ってるようなものじゃない……
よっぽど、女と腹のナマエの存在が邪魔だったのだろうか。それにしたって、母は苦しんで死んだに違いない。そこまで邪魔ならもっとあっさりと殺してくれればよかったものを、とナマエは妙な憤りを覚えた。こんなところに捨てられたから、こんなところでも生き延びてしまったから、ナマエは恐ろしい体質になってしまったのだと思った。誰の愛も望めやしない、こんな呪われた身体に。
――かはっ、げほっ。
――っ、ごめんなさい!
隣の老人が苦し気にせき込んだことで、ナマエはハッと我に返った。いけない、感情を押えなくては。
慌てながらもしっかりと手袋をはめていることを確認し、老人の背をさする。彼はナマエを拾って育ててくれた恩人だった。世間的には決して褒められた人間ではないかもしれないが、ナマエをこの掃きだめから救いあげてくれた人間。何も知らないナマエに物を教え、一通りの生活をできるようにしてくれたのはこの老人なのだ。
――もう帰りましょう。もう十分。我儘を聞いてくれてありがとう
老人が長くはないこと、他でもないナマエ自身が彼の命を縮めているのだということは嫌でも理解していた。だから、手を握りたい気持ちも、彼にすがりたい気持ちもぐっとこらえて、ナマエは自分が生まれ落ち、母が死んだという場所を後にした。
それからほどなくして、老人はナマエの元から姿を消した。
きっと死に際を見せないことが彼なりの優しさだったのかもしれない。ナマエは責任を感じないようにという、愛のある計らいだったのかもしれない。
けれどもナマエは結局、彼が生きている間も死んでからもその身を抱きしめることは叶わなかった。
だから、あんなによくしてもらったというのに、ナマエの寂しさはいつまでたっても埋まらないままだった。
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