- ナノ -
何を言い出すかと思えば。
「……驚いたな」
イルミはぽつりとつぶやいた。
ナマエが駆けだしていったテラスへ出ると、庭の緑が朝露に濡れて光り、遠くの空との境目に海が広がっているのが見える。
――私が勝ったらイルミのこと、教えて
ナマエが去り際に言い放った言葉を反芻しながら、イルミはしばらく砂浜を歩いた。ナマエのことだからテディが必要だろうと思って、イルミは拾ったのだ。だれにも打ち明けられない胸の内を、ナマエはああしてテディを抱きながら、吐息とともに吐き出しているに違いない。あるいはただ愚痴ったりしているのかもしれない。一人きりの夜。誰にも気づかれないよう、暗闇でひっそりと。
「いまさら、オレのことを知りたがるなんてね」
変な感じだ。
日没まで、まだ時間はじゅうぶんにある。
歩いていると、浜に引き上げられたボートをみつけた。これでは浅瀬を漕ぐくらいしかできない小さなボートだった。イルミは何の気なしにそのボートの縁に腰かけ、溜息をついた。
「どういう心境の変化かな」
なにをどう足掻いても、この成り行きが簡単に変わるはずはない。そうでなければこんな孤島に二人きりで閉じこめたりしないだろう。ナマエは昨晩から、ちょっと様子がおかしいようだ。
いきなり、ナマエの口から、”恋”を”知らない”などという単語がでてきた。シルバの言いなりになるかのように従順だったナマエの言葉も挙動も、ただ滑稽で非常にわかりやすい態度にしか見えなかったものが、手が触れあったあの瞬間、なにか別の意味を帯びていた。
シルバの命令なのだから、ナマエは従うだけなのだと、ナマエの答えはただそれだけなのだから、もうなにも考える必要などないはずなのに、それでもイルミはどうにかして言葉を探そうとした。
「……恋なんて、オレだって知らないよ」
イルミは足元の砂を蹴った。
貝殻やひからびた海藻や小枝や、いろいろなものが出てきた。太陽はまだ昇り始めたばかりで、水面はキラキラと光ってまぶしかった。波が綺麗にならした砂の上を、小鳥が飛び交い元気にさえずった。
「面白くないな、テディだけじゃ不満だなんて」
イルミは自然、オーラを練りそうになり、はっとして念を消した。
修行の最中だ。自分は念を使わないという約束だ。
イルミはいったん、コテージへ戻ることにした。ナマエは今頃、必死になって逃げているだろうか。時間はじゅうぶんある。イルミは急ぐ必要もないと思っていた。見つけられると思っているし、もしかしたらナマエが逃げきる可能性も感じている。
もう妹ではなくなったナマエ。
テディなしでは生きられなかったはずのナマエ。
コテージの椅子に座らせたテディを見て、イルミはそれをつかみあげた。ぶらん、と足をたらして頼りなく宙に浮かぶテディ。
テディがあるかないか、それは毒素を振りまいていても触れられるものがあるかないかの、違いだ。ナマエにとって代えがきかない物だと思っていたのだが。
「……オレのなにを知りたいっていうわけ」
イルミはテディに向かって話していた。
イルミにとってはただのぬいぐるみだ。自分とナマエとの間を埋められるものは何もない、そんな気がしている。テディだって関係ない。
「だったら、オレが勝ったら……」
イルミは、テディを持つ手に力をこめそうになってはっとし、自分を押しとどめた。ただのぬいぐるみだ。ただ、ナマエが大事にしているはずのぬいぐるみだ。
今朝、「私が勝ったらイルミのこと、教えて」と宣言して、振り向きもしないで飛びだしていったナマエの姿がよみがえってきた。イルミはぬいぐるみを椅子へ戻した。ふたたびテラスへ出て、ナマエが潜むであろう森へ目をやった。
「オレが勝ったら、ナマエが何を考えているか、話してもらおうか」
そう宣言して、イルミは歩を進めた。
小鳥たちが元気にさえずり、枝葉が風に揺れる音がざわざわと響く。
家中で自分一人が、ナマエのことをこんなにも考えている。ナマエの胸中を判っているのは、自分しかいないように思えてくる。暗がりの中、毒素を振りまいてどうしようもなくたたずむナマエの姿。「おはよう」と言ったナマエの、イルミとテディをみつめる瞳。いつもテディに縋ろうとしたナマエの寂しさが、あの瞳にびっしりと詰まっている。
足音もなくイルミは木々の間を歩いた。
初めてナマエを見たとき、その瞳に映るのは暗闇だった。他に何も映らない、冷たい暗闇。
イルミは風で乱れた髪を指でといた。そうして森の中に姿を消そうとしていた。風が吹くと葉がこすれ合う音がし、イルミは感覚を研ぎ澄ませようとした。
「……だけど、オレはナマエの寂しさを埋める気はないから」
拒絶の言葉には違いないのに、哀しい響きがした。
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