- ナノ -
おやすみなんて、家族の間で交わすには珍しくともなんともない挨拶だ。
だが、急に親から結婚の話を出されて、ハネムーン用のコテージに無理やり滞在させられて、それで何度か険悪になったあとで、どうしてイルミはこうも普通に振舞うことができるのだろう。
子供の頃ぶりに背中におぶられて、気まずさを感じていたのはどうやらナマエだけのようだった。その直前に”恋”なんて滅多なことを口にしてしまったのも、余計に気まずさに拍車をかけた。せめて、イルミがその場でこっぴどく馬鹿にしてくれればよかったとさえ思う。そのとき彼は少し表情を歪めただけでナマエの発言については深堀りせず、早く乗って、と急かしただけだった。
そしてそんな夜にベッドに戻ったところで、ナマエがぐっすりと眠れるはずもなかった。
本来は新婚の二人のための、キングサイズの豪華なベッド。自宅のベッドだって決して小さくはなかったが、ひとり横たわっているとどうしようもない寂しさを覚えた。いつもは抱きしめて眠るテディもここにはいない。空色着物の女たちに用意させたあのおしゃべりなテディも、あの浜辺に置き去りにしてしまったと今更になって気づいた。
拾いに行こうか。眠れなさに負けて一瞬そんなことを考えたが、またベッドを抜け出してイルミに見つかるのは避けたい。そもそも、一度忘れてしまったくらいなのだ。わざわざ取りに戻るほどのことでもないと、今は不思議とそう思ってしまった。
忘れ去られた、可哀そうなテディ。そのまま、テディの発した誘いも、忘れられてしまえばよかったのに。
「おはよう」
眠れないまま迎えた翌朝、リビングに向かうとイルミはまた普段と変わらぬ調子でそう言った。ナマエが寝室を占拠しているため、彼はリビングのソファーで眠っているのだが、寝不足な様子は少しも見られない。
ナマエも渋々、おはよう、と返した。できれば顔を会わせたくなかったけれど、テーブルの上には朝食が準備されているのを見るに、そういうわけにもいかないだろう。イルミのほうはとうに食べ終えて、最後にコーヒーを飲んでいるようだった。席についたナマエはとりあえず、クロワッサンを小さくちぎって口にする。
「食べ終わったら、出かけるよ」
人が物を口に入れたタイミングで、そんなことを言うのは返事がいらないからだろうか。決定事項として告げられた言葉も一緒に、ナマエはゆっくりと咀嚼した。「どこに?」ここはとても美しい島だが、ゾルディックの敷地にしては小さく、そして外界から隔絶されている。イルミがテディの誘いを受けてそんなことを言い出したのはわかるが、出かけようにも出かける先がない。次の船が来るまでは、二人はこの島から出ることすらもできないのだから。
「どこって、外に。流石にここじゃ狭いでしょ」
「狭いって?」
「修行だよ」
当たり前のように言ったイルミに、ナマエはがっかりせずにはいられなかった。わかっていたことだったが、期待してはいなかったが、それにしたってよくもまあ。こんなところに来てまで。
「少しくらい、景色を楽しめばいいのに。まだ、ちっとも外へ出ていないでしょう」
あまり深く考えずに口にしたけれど、改めて、青空も蒼い海も似合わない人だと思った。お父様の銀髪は波間に輝くし、透き通った水色の瞳もきれいに空を映しとるだろうが、イルミの黒い髪や瞳といえば、他のものに染まるのを拒絶するようにこの島に馴染まない。同じ色味を持つお母様を想像してもそんなことはないのに、イルミだとそんな風に感じてしまうのは、ナマエが勝手に拒絶された気分でいるからだろうか。
「どうせそんなに広くない島だしね。ナマエを探しつつで十分だよ」
「つまり、私が隠れるのね」
「そう。懐かしいでしょ? 絶の練習だよ。今日の日没までに、ナマエはオレから逃げきること」
「日没まで?」
思わず、リビングの壁掛け時計に目をやったが、日没まで優に9時間以上はある。先ほど、イルミ自身が広くないと言ったばかりのこの島で、その条件は厳しすぎないだろうか。
「無理よ、そんなの。絶対に」
「わかってるよ。だからハンデとして、オレは念を一切使わない」
「……ハンデになってるの? それ」
「なってるだろ。だって、円はなしだよ。ナマエがうまく絶を保つことができれば、普通の奴には気づけないんだからさ」
まさか、イルミは念さえ使わなければ、自分が“普通”だとでも思っているのだろうか。どこから訂正したらよいものかわからず、黙り込んだナマエを見て、イルミは話は決まったとばかりに髪をかき上げる。
「ま、せいぜい頑張ってよ。ちゃんとオレから逃げきれたら、あのテディは返してあげるしさ」
「え……? あ!」
気づかなかった。
言われるままにイルミが指した方を目で追えば、ソファーの上にこのお出かけの原因となったテディがちょこんと座っている。。イルミが拾っているなどとは夢にも思わなかったので、ナマエは幽霊でも見るような気分でテディを見つめた。
「いつの間に……」
「落としたナマエが悪いんだよ。大事ならしっかり持っておかなくちゃ」
「……」
ここでいつものナマエだったら、すぐに「返して!」と怒っていただろう。だが、テディを見ても、かつてのように強い執着は湧いてこなかった。実際、昨日の夜の時点で、ナマエは取りに行くのを諦めてしまっていたのだ。返してもらえるなら返してほしいけれど、イルミが期待したような、ナマエを焚きつけるだけの力はもうテディにはない。
「……全部捨ててもらうよって、言ったくせに」
ナマエはちゃんと、イルミに合わせて変わっているのに、変わろうとしているのに、イルミはそのことに気づいていない。何があっても、ナマエが“妹”じゃなくなっても、なにひとつ変わらずにおはようもおやすみも言ってくるこの男に悔しさを覚えた。こっちはこんなにも、知らなかった感情に戸惑って、逃げ出したくてたまらないのに。
「え?」
「なんでもない……。そうやって、人質とるなんて相変わらずだと思って」
「物、だけどね。そのほうがナマエもやる気出るでしょ?」
――返して。
今まで通りのナマエだったら、きっとそう言って、癇癪を起こしていただろう。別にそれでイルミが素直に返してくれるわけはないけれど、大事なテディを取り上げられて、黙っていることなんてできなかった。
けれども、今日のナマエは代わりに他のことを言う。
「それだけなの?」
「は?」
「私がイルミから逃げきっても、テディだけなの?」
イルミの大きな瞳が丸くなる。彼のこんな虚をつかれた感じの表情を見るのは、初めてかもしれない。
イルミは少し考え込む素振りを見せて、ゆっくりと口を開いた。
「なにそれ……他に何か望みでもあるわけ?」
「……」
「言ってごらん」
ナマエは何を言うのか。交渉という枠を超えて、イルミが興味を持ったのは伝わってくる。それもそうだろう。これまであんなに執着していたくせに、突然テディ“だけ”なんて軽んじたのだから。
しかし、内心でナマエも慌てていた。別に、具体的な要求があって口にしたわけではないのだ。ただ、いつまでも前の通りに接してくるイルミに腹が立って、それだけなの? と聞いたに過ぎない。
「言わないなら始めるよ」
「い、言う!」
「なに?」
言ったら、すぐに逃げよう。驚いた顔のイルミを見るのは気分がいいけれど、また昨日みたいに歪んだ表情を見るのはごめんだ。
ナマエは覚悟を決めたように深呼吸すると、それから一息で言い切った。
「……私が勝ったらイルミのこと、教えて」
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