- ナノ -
生暖かい風が足の裏をくすぐる砂浜で、沈黙の合間にナマエはイルミの言葉を聴いた。
――誘いに関しては了解ってなに? 私と出かけようっていうの?
イルミが何を考えているのかまるでわからない。
「絶すらまともにできなくなってるみたいだし」
困惑しているうちにそんな言葉が聴こえてきた。
勢いこんでテディを押しつけ詰ってはみたものの、いざ顔をあわせるとナマエはいっそう不安定になった。イルミに言われるまで、そのことに気づかなかった。
「違っ……これはできないわけじゃなくて……」
「なにが違うの? この場にいるのがオレじゃなかったら死んでるよ」
どうしてこんなことに。
漏れだした毒素はとうに一般人の致死量を超えている。
制御できない。自分が子供だと思い知らされて、どうしようもない。
お父さまにあれほど制御の術を教えてもらったというのに。
ナマエは気まずさをこらえてそこにいた。
家族になることを、こいねがったのはナマエなのに。イルミと結婚することを、お父さまの言葉を、まだ完全に受け入れてはいなかったようだ。
どうしてなのだろう。
正直、わからない。イルミのことを、欺いてしまった気はする。ずっと、妹として振る舞っていたから。きっとイルミがこの話にうんざりするのは当然だ。けれど自分の中には憤りがない。イルミとの結婚話を聞かされて、そのまま受け入れようとした。ゾルディック家とはかくあるべきというお父さまの信念にそいたい自分がいて、ただ、自分はイルミの好む人間ではないかもしれない。ありのままの自分をお父さまは受け入れても、イルミは受け入れないかもしれない。そんな思いがあって、イルミの前で妹でありつづけることを演じてきたのかもしれない。
表面的には波風をたてず、こうして話が持ち上がるまでは妹としてイルミに従った。生まれ持った適性力やら順応性やらを精一杯、駆使して。
それでもナマエ自身は、とても幸せだった。ゾルディック家という繋がりを得て、殺し屋の棲む家はひっそりと昏く、生々しい生と死のあいだにいて、激しく傷んだりすることのすべてを受け入れ、心底幸せだった。
何にしても、私という存在の基盤がどこかしら歪んでいるのは確かだ、とナマエは思う。
イルミが何か言っている。
頭の中が、混乱して、テディをぎゅっと抱きしめるしかできない。
イルミが、ナマエの顔の前に、手をかざした。
ナマエは、心臓が逸る思いがした。
「これからオレが何を言っても、何をしても絶を保つこと。オーラを乱してはいけない」
「だ、黙って攻撃されろってこと!?」
「ほら、言ったそばから乱れた」
「だ、だって!」
「攻撃はしないから安心していい」
できない。
そんなこと言われても、安心なんてできない。
それどころか心臓がうるさく鳴って、こんなこと、仕事中だったらあるまじき失態だ。
イルミが手をのばしてくる。
逃げてしまいたいのを、ナマエはじっとこらえる。
怖くなって、目をつむってしまった。
「……っ、」
「おはようにはまだ早いから、部屋へ戻っておやすみ」
ぽん、と頭に置かれたイルミの手のひら。
「へ……?」
ナマエは力が抜けて、砂浜にテディを落としてしまった。
自分に触れた手のひら。その冷たくも温かくもない温度。
「出かけるのはその後でね」
イルミの声色はやわらかかった。
毒素が収束していく。
ナマエの胸に様々な思いが去来した。
あの寝室を思いだして、お父さまとは仕事でも考えられないのに、イルミとだったら、なぜか大丈夫だと思ったこと。「本気でオレと結婚するつもりなら、全部捨ててもらうよ」と、イルミに言われたこと。
ナマエは、浜辺に転がったテディを見下ろす。
私は他に、何を捨てたらいいのだろう。
ナマエは漠然とそんなことを思った。
それから、くるりと背を向けるイルミの服の裾を、かろうじて指先でとらえた。ナマエは、そのまま浜辺に膝をついてうずくまった。
「……何?」
イルミの視線を感じる。
イルミはこの”家”のために生きている。ナマエだって、ゾルディックのために生きようとしてきた。
イルミにとっての幸せとは、なんだろう。
イルミもどこか歪んでいる。それはたぶんナマエとは異なる。
「立てない」
「は?」
「力が抜けて……腰が抜けて、立てないの」
置いていかないで。
一人にしないで。
ナマエはイルミを見上げた。
イルミの眉が動いた。それからちょっと呆れた顔になる。ナマエにはそれが兄の顔、には見えなかった。イルミは、イルミだ。兄じゃない。結婚するかもしれない人だ。
私たちはそっくりの生き方をしているように、みえなくもない。とナマエは考えて、それからイルミが溜息を吐くのにびくついて、目の前に降りてきた広い背中をみて言葉を失う。
背負ってくれるというのだろうか。
ちょっと信じられない気持ちで、その背をみつめていたら、不審そうにイルミがふりむいた。
「何その目。親切で運んでやろうっていうのに」
「違う……違うの」
「なにが?」
「私、知らない」
イルミが目を丸くする。
ナマエは頼りなくかぶりをふった。
イルミのことを知らない。
イルミの手がのびてくる。また頭にふれられると思った。ナマエは、その手を押しとどめた。
「無理」
「……なにが」
「イルミがわからないから無理」
イルミの手に触れた。指先の感触。もしその手を握って、もうすこしイルミに近づいてみれば、この胸の動揺はどうなるのだろう。ナマエの毒気はすっかり、そがれていた。不思議に凪いだ胸に、ちいさな痛みとともにおそってくる動揺。
「……恋なんか、知らない」
と、ナマエは口走っていた。
一瞬、イルミの表情が歪んだ。
ナマエは、怯んだ。
恋だの愛だの、イルミはきっと望まない。ナマエはそんな気がした。お父さまの言いつけ通りに生きてさえいればいいと思っていた。でも違った。ナマエにはナマエの意志がある。お父さまを慕い、ゾルディックに在りながら、ゾルディックのために、ナマエにできること。
イルミと結婚すること。
だけどどうして”恋”なんて言葉が出てきたのか、自分でも不思議だった。
わからないのだ。
イルミと向き合おうとしたこの瞬間、胸を過った気持ちの正体が。
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