■ ◆信じる弱さ
信じる者は救われる。
教団の教えに従い、
預言を守って慎ましく生きていれば、きっとユリア様がよりよいほうにお導き下さる――。
からん、と冷たく響いた金属音に、ナマエははっとして背筋を伸ばした。反射的に音のしたほうを視線で追えば、テーブルに着くイオン様のすぐ足元に、磨かれた銀のスプーンが転がっている。
「す、すぐに新しいのをお待ちします」
「……」
イオン様はすみません、と柔和な笑顔を浮かべて謝ることもなければ、落としたスプーンの行方を視線で探すことすらしなかった。慌てるナマエを黙って一瞥しただけ。湯気の立つ温かいスープとは対照的に、彼の目は氷のように冷え切っていた。
ここへ来たばかりの頃は、普段と違うそんなイオン様の様子に酷く戸惑ったけれど、今ではもうこちらの態度こそが
普段のイオン様なのだとわかっている。いくら頭で理解しようとも、心のほうはまだ、うまく現実を呑み込めてはいなかったが。
「次はもう少し、軽くて扱いやすいものをお持ちするようにいたします」
そう言いながらナマエは、ひとまずスプーンを回収するために床にかがみこんだ。イオン様がうっかりで落としてしまったのではなく、気に入らなくてわざと床に落としたのだと解釈したからだ。だが、彼が本当に気に入らなかったのは、どうやらスプーンのことではなかったらしい。
まずは、ぽた、と頭に重みを感じた。
「……? ……っ!?」
それが量を伴って流れになると、今度はびりびりっと頭皮がつるような痛みが広がる。痛みがしみこむように顔まで伝って来てようやく、その正体が熱さだとわかった。髪を伝って、肩を濡らして、床まで垂れて。パニックになったナマエはやっとのことで飛びのき、その勢いのあまり盛大に尻餅をつく。信じられない思いで椅子に腰かけるイオン様を見上げれば、彼はすっかり空になったスープ皿の底を見せつけるように手首を捻った。
「食欲がない。そんなこともわからないの」
「……も、申し訳ございません」
かけられたのが頭だったから、髪のおかげで酷い火傷になるのはまぬがれた。それでも頭皮がじんじんとするのを感じながら、ナマエは震える声で謝罪の言葉を口にする。熱かったし、怖かったし、理不尽だと思った。だが肉体的な痛みよりなによりも、イオン様がこんな酷い振る舞いをするという事実がナマエにとっては一番つらかった。
「片付けて。早く」
「はい」
さっき器が空なのはこの目で見たばかりだ。
それなのに彼の足元に這いつくばって床を掃除するとき、ナマエは頭上が気になって仕方が無かった。そしてまたそんなナマエの恐怖心などイオン様はお見通しみたいで、食事をする気もないくせにずっと椅子から退けようとしない。気だるそうに頬杖をついて、冷ややかな目でこちらを見下ろして。ナマエが片付け終わると、残念だったね、と他人事のように薄く笑った。
「でも、譜術もまともに使えなくて、
導師守護役の候補にすらなれなかったお前には、これでも十分な仕事でしょ?」
「……」
ナマエは何も言い返さなかった。言えなかった。実際彼が言ったことは事実でしかなく、かろうじて
神託の盾に籍を置いているような状態のナマエは、本来イオン様に近づくことすら叶わない立場だったからだ。
だから、モース様から秘密裏にこのお役目を与えられたとき、ようやく自分も報われたのだと思った。ずっと
預言を信じて生きてきてよかった。正式な役職でなくとも少しでもイオン様に近づけて、彼の日常生活のお役に立てるなら、こんなに幸せなことはないと、そう思っていたのに――。
「ほら、いつまでいるつもり? 食事は済んだんだから早く出てってよ」
ナマエの知っている、穏やかで慈愛に満ちた
導師イオンは存在しなかった。ナマエが憧れて、尊敬して、年相応に恋焦がれたイオン様は、彼が嫌々演じていたものだったと初めて知った。
「……失礼します」
それでもナマエがイオン様に失望しきれないのは、まだ彼に焦がれているからだろうか。彼が酷い振る舞いをするのは彼が傷ついているからで、耐えていればいつか報われると思っているからだろうか。
ナマエがぺこりと頭を下げると、イオン様は小馬鹿にしたようにフン、と鼻を鳴らした。どうやらナマエの浅はかな希望すら、彼はすべてお見通しみたいだった。
▼△
これから先は、ただ失っていくだけだと思っていた。
坂道を転げ落ちるように、日ごとに悪くなっていく身体。潮が引くように、ひどくあっさりと薄れていく周囲の関心。元々
預言にしか興味がなく、上っ面だけの忠誠だったモースはともかくも、イオンに途方もない野望を語ってみせたヴァンですらもう顔を見せに来ることもない。そうして誰からも忘れ去られて、このままただ地下で朽ちるのを待つだけかと思われたのに、どういう風の吹き回しか、ある日突然イオンに新しい世話係が与えられたのだった。
「今日からイオン様の身の回りのお世話をさせていただく、ナマエと申します。至らぬところがあるかと思いますが、精いっぱいお仕えさせていただきます」
そう言った少女は緊張している様子だったけれど、それと同じくらい期待に表情を輝かせていた。久しぶりに尊敬と憧れの混じった瞳を向けられて、イオンは導師という立場に辟易としていた当時の感覚を思いだす。それは懐かしくて、やはりくだらなかった。聞けば、彼女はモースの命令でここに来たと言う。
「へぇ。道理で、随分とおめでたいヤツが来たってわけか」
モースの傀儡ということは、
預言を盲目的に信じる、無垢で愚かで救いようのない人間ということだ。イオンが意地悪くせせら笑うと、案の定ナマエはびっくりした顔で何度も瞬きをする。
導師様がこんな笑い方をするなんて、きっと想像すらしたことなかったのだろう。イオンの口調も表向きのものではないし、彼女が戸惑っているのがひしひしと伝わってくる。
「で、僕のことはなんだと思ってここに来たわけ?」
「なにって……」
「だって、導師サマならもう他にいたでしょ? 僕とそっくり同じ顔のヤツがさ」
イオンがそう言うと、ナマエはあぁ、とまるでたった今思い出したみたいに頷いた。
「事情はモース様から伺っております。イオン様の御体が良くなるまでの間、代わりにマルクトから弟様がいらっしゃってると。口外禁止だと、きつく言われておりますが……」
「……」
『身体が良くなるまでの間』、『弟』。どちらもあまりに最悪な嘘すぎて、イオンは逆に嗤いがこみあげてくるのを感じた。真実を知らされていないにしても、こんな杜撰な嘘を素直に信じている女も女だ。何も知らない、それどころか使命感に満ちた表情を見ているだけで苛々するし、今すぐ絶望に叩き落してぐちゃぐちゃにしてやりたくなる。
「……わかりました。それではよろしくお願いします」
だが、あえてイオンはここでいつもの丁寧な口調に戻して、彼女の理想に叶う笑みを浮かべてやった。彼女はイオンに与えられた最期の玩具だろう。早々に壊してしまっては勿体ないし、こちらもちょうど暇を持て余していたところである。
(さて、どれくらいもつだろうか)
イオンの態度に、ナマエはあからさまにほっとした様子になった。それから「こちらこそよろしくお願いします」ともう一度深々と頭を下げた。
そんな形の出会いが、だいたい一か月前のこと。
イオンは既にナマエに飽きてしまい、気まぐれに導師の皮を被って希望を持たせることすらやめてしまっていた。冷静に考えれば死の間際にまで茶番に付き合ってやる義理はないし、どんな馬鹿でもいい加減理想の導師様は存在しないのだと気づいたことだろう。憂さ晴らしに無理難題を突きつけて、できなければ酷く叱責する日もあった。反対にいない者として、完全に無視をする日もあった。物を投げつけたり壊したりすることもあったし、作られた料理を無駄にするのも一度や二度の話ではない。だが、今回みたいに頭からぶっかけてやるのは初めてだったので、ナマエもさすがに驚いたのだろう。床を片付けるためにかがんだ彼女のつむじは真っ赤になっていた。イオンが座っているだけでびくびくと震えて、それがまた滑稽で仕方がなかった。
(それなのに、どうしてまだ期待するような目ができるんだろうね)
怯えはあっても、嫌悪や軽蔑はない。とっくに心を踏みにじってやったはずなのに、ナマエは性懲りも無く毎日部屋を訪れては傷つけられている。耐えていればいつか救われると思っている愚かさが、幸せな結末を信じられる傲慢さが、イオンにはどうしても許せなかった。救いも幸せな結末も決して訪れないということを、イオン自身は嫌というほど知っているからだ。
だから、
「この先、僕の身体が良くなることなんてないよ」
ある日とうとうナマエに真実を告げてやった。いつものように手酷い扱いをしたあとで、今、彼女が耐えている苦痛は全くの無駄であり、どうあがいても報われないものであると教えてやった。
「それに、僕が死んだらお前は口封じに消されるよ」
一時的なことではなく、今後も
七番目はイオン本人として振舞うのだ。本物が死んだという真実を知る者は少ないほうがいいし、だからこそ何の役職も能力も持たない彼女が使い捨ての駒として選ばれたのだろう。
それを聞くとナマエはわかりやすいくらいに青ざめて、唇を小さく震わせた。イオンが叩きつけて割ったばかりのグラスの破片を拾いながら、蚊の鳴くような小さな声を出す。
「う、そです……そんな」
「導師サマのありがたい言葉を信じないの? それとも、もう僕を導師だって思えなくなった?」
「……違います、でも……」
往生際の悪いヤツだ。
イオンは苛々して大股でナマエに近づくと、彼女の首を鷲掴みにして顔を上げさせる。玩具を与えられたどころか、結局こいつには不快にさせられてばかりだ。
「……なんで、そこまで信じられる? 何がお前にそうさせる?」
ばちりと合ったナマエの瞳から光が消えていないのを見て、イオンはほとんど無意識のうちに尋ねていた。馬鹿だから、の一言で片づけるには、あまりにも理解しがたい。現実逃避もいいとこだろう。
だが、それまで微かながらも輝いていたナマエの瞳は、そこで初めて仄暗さを帯びた。涙で滲んでこそいたが、彼女はまっすぐにイオンを睨みかえしてきたのだ。
「……私みたいな弱い人間は、縋るものがないととても生きてはいけないからです……。信じたいから、信じるのです」
「あぁ、そう。それじゃ縋る先を間違えたね」
「イオン様は……どこにも縋れるところがなかったのですね。あなたには未来がわかって、あなた自身が象徴だから。だから、無責任な希望を抱くことすらできない……」
「……わかったような口を利くな」
首を掴む手に力をこめれば、彼女は苦しそうに表情を歪めた。反射的に彼女の手がイオンの手を引きはがそうと伸びたが、爪を立てられてもイオンは離さなかった。
「っ、ぐ……」
「信じないって言え。顔を横に振るだけで良い。いい加減、希望なんてないって認めなよ」
ぎりぎりと力任せに絞め上げれば、彼女の顔はみるみるうちに酸欠で真っ赤になる。目も口もみっともなく開いて震えながら、そのくせ一向に顔を振らない。締めすぎか、とほんの少し力を緩めれば、ひゅうと彼女の喉が鳴った。それでも頑として彼女は顔を横に振らず、生理的な涙をぼろぼろと流してこちらを睨む。
「いや、です……。信じ、ます……未来がダメでも、少なくとも……イオン様のことは……」
「ハ、一体僕の何を信じるって言うのさ?」
「嫌々でも、苦しくても……これまで、私たちのために導師でいてくれた優しさを……」
「優しいだって? そうでもしないと、生きてこれなかっただけさ!」
イオンは吐き捨てるようにそう言って、それじゃあ結局自分もこいつらと同じだったのか、と思った。人は何かに縋らずには生きられない。イオンは望まれるがままに、導師という役割を必死で演じてきた。自分を必要とするその役割に縋って生きて、それすらも叶わないと知るとヴァンの途方もない野望に縋ることにした。
(こんな愚かしい奴らと僕が一緒だったなんて……)
許せない。認めたくない。瞬間的な憤りは、そのままナマエの首を絞める手に伝わる。だが、
「こ、ろしたいなら、ころせばいい……イオン様になら、ほんも……だから」
「!」
ナマエは笑いやがった。弱いくせに、怯えて震えるだけの人間だったくせに、どこか満ち足りた顔で笑って見せたのだ。そのことにまた、無性に腹が立った。
「だったら、殺してやらない」
「……っ! かはっ、ごほっ!」
イオンが手を放すと、ナマエは盛大にせき込んで、ガラスの破片だらけの床に手を突いた。血の流れる手のひらで喉を押さえ、肩と胸を大きく動かして呼吸する。イオンは黙って血と涙と鼻水でぐちゃぐちゃの彼女を見下ろしていた。最期に与えられた玩具がこんな頭のおかしい、どう転んでも分かり合えないヤツだなんて、とことん自分は世界に嫌われているとしか思えない。それでも――。
(もうこれ以上、失うのはごめんだ)
健康も、地位も、名誉も、愛した人も、名前も、存在も、すべて失くして消えるしかないのなら、こんな馬鹿でもいないよりマシだ。ここで簡単に殺してしまうより、決して報われない人生もあるのだと、彼女に見せつけて死ぬ方がよほど胸がすく。
ナマエはそのままぜいぜいと呼吸を整えていたが、しばらくして落ち着くと、また一つずつガラスの破片を拾い集め始めた。イオンはというとただ黙って、彼女が作業するのをじっと眺めていた。きっとまた明日には、彼女は別の壊れた欠片を拾い集めているのだろう。
(馬鹿みたいだ……)
それは確かに不毛で途方もない仕事だった。けれども地下の地獄には、これ以上に相応しい光景は他にないのかもしれなかった。
[
prev /
next ]