- ナノ -

■ ◆暗い衝動

 もしもシンクが神託の盾オラクル騎士団の一般兵で、さらにどこの師団に配属されるか自由に希望が出せるのだとしたら、まかり間違っても第二と第三は選ばないと思っていた。選択基準は業務を含めた職場環境と、どんなに割り切ってもある程度は逃れられない人間関係。ディスト率いる第二師団は、戦闘よりも譜業を専門とした研究方面に特化していて、職場環境こそそう悪くないと思うものの、人間関係が致命的に悪い。天才を自称する師団長のディストの鬱陶しさ、やかましさは言うまでもなく、あそこでうまく仕事を回そうと思えば必然的にディストを褒めたたえ、ろくに中身のない長ったらしい自慢話を聞かなければならないのだ。想像しただけでも反吐が出るし、精神衛生上最悪な職場だ。そういうわけでシンクは第二師団の兵のことを、内心で太鼓持ち係、と蔑み半分憐れみ半分の気持ちで呼んでいた。

 さて、それではもう一方の第三師団はどうだろうか。第三の師団長アリエッタはディストみたいに鼻持ちならない存在ではないし、特に横暴な上官でもないと思う。円滑なコミュニケーションには多少難があるものの、やかましいということもないし、そもそもアリエッタ自身の興味の幅が極端に狭く、配属されてもさほど干渉されないだろう。それではなぜシンクが嫌だと思うのかというと、先ほど挙げた選択基準――職場環境と人間関係について、第三はどちらも大きな問題があるからだ。そもそも人間関係どころかほとんど人間がおらず、魔物の巣の様相を呈している状況を職場と定義すること自体に無理がある。そういうわけでシンクは第三師団に配属されたわずかばかりの人間を、お世話係、と完全に憐れみの気持ちで呼んでいた。こちらについては内心にとどめずに、直接本人向かって言っている。

「へぇ、今日も死ななかったんだ? お世話係ゴクロウサマ」

 第三師団のお世話係筆頭と言えば、文字通り魔物たちの世話に加え、机仕事はからきしのアリエッタを支える副師団長のナマエである。彼女はアリエッタが師団長に就任する前から第三の所属であり、師団が魔物の巣へと様変わりして多くの者が異動や退役をした後でも、唯一残り続けているタフな存在だった。どうせそのうち死ぬだろうと思っていたのに、意外にも根気よく粘っている。そのせいでいつの間にか覚えてしまったし、それだけでなくシンクのほうから声までかけるようになった。好奇心とでも言うべきか、ナマエのその並々ならぬ生命力とある種の生き汚さには、少し興味を惹かれるものがあったのだ。

「あ、シンク謡士! はい、お陰様で今日もなんとか生き延びました」

 たまたま、本当にたまたま第三師団の訓練場近くを通りがかったシンクが声をかけると、こちらに気がついたナマエは振り返って呑気な笑みを浮かべた。のほほん、とかぽやーんとか、そういう擬音が似合いそうな緩い笑顔である。しかしそんな表情とは対照的に、近くで見た彼女の団服はおびただしい量の血を吸っていた。額からもだらだらと赤いものが流れていて、全く止まる気配がない。その流血の勢いに流石のシンクも少しぎょっとして、一歩さがってまじまじと彼女を眺めた。

「……まだ生き延びたと決まったわけじゃなさそうだけど」
「あぁ、これですか? ちょっとフレスベルグにつつかれちゃって。でもキュアをかければだいたい治るので大丈夫ですよ」
「……アンタって、逆に何したら死ぬワケ?」

 戦場で骸を漁るのが死霊使いネクロマンサーなら、ナマエの強靭さは不死者アンデットと評されるべきだろう。実際には死なないというより、治療士ヒーラーとして突出した才能を持っているわけだが、自分で治せるせいなのか、彼女は自身の怪我についてはかなり無頓着である。

「毎日ちゃんと死にかけてますよ。昨日はライガに左脚をこう、ざっくり付け根から脛まで爪で裂かれましたし」

 そう言ってナマエはなんの恥じらいもなく、軽くスカートを持ち上げて見せる。「でもちゃんと治ってるでしょう」突如として晒された白い太ももには本当に傷ひとつ残っていなかったが、だからこそ余計に何を見せられているんだ、という気分になった。

「……あっそ。ホント、ゴキブリみたいな生命力だね」
「シンク謡士も、もしも怪我したら言ってくださいね。即死じゃない限りは私が治しますから」
「へぇ、即死だったらアンタも死ぬんだ?」
「それは私に限らず、誰でもそうだと思いますけど……?」

 確かに言われてみれば当たり前のことだ。だが本当に彼女だけは、殺しても死ななそうな印象がある。いくら治せると言っても痛みがないわけではないことを考えると、肉体だけでなく精神的にもかなりタフなのだろう。職務態度もドがつくほど真面目。魔物に半殺しにされても文句ひとつ言わずに毎日元気に働いているし、書類関係の仕事ぶりも上がってくる報告書を見る限り申し分ない。有言実行でキュアを使ったナマエを見ながら、シンクはかねてよりの疑問をぶつけてみることにした。

「他の師団に移りたいとか、考えたことないの?」
「え?」
「だって、アンタどう考えても魔物に好かれてないでしょ。向いてないんじゃない?」

 実際のところ、いかに魔物だらけの職場と言っても、ここまでボロボロになっているのはナマエくらいのものだ。良くも悪くも放任主義のアリエッタに比べれば、彼女は一生懸命彼らの世話を焼いているだろうに、ちっとも報われている様子がない。
 シンクの直截な指摘に、ナマエは額の血を拭いつつ唇を尖らせた。

「好かれてないわけじゃなくて、これは一種の愛情表現なんです」
「アンタが勝手にそう思ってるだけじゃないの」
「甘えてるんだって、ちゃんと師団長に通訳してもらいましたもん」
「それにしたって限度があるでしょ。餌にされないうちにさっさと見切りをつけたら?」
「……えっとその、そんなに言うってことは、まさか私に異動の話が出ている感じですか?」

 恐る恐るといった口調のナマエからは、本当に異動を望んでいないことが伺える。彼女が誤解したのはひとえにこちらの参謀総長という肩書きのせいなのだが、あくまで世間話のつもりだったシンクは少し面食らった。

「……いや、そんな話はないけど」
「そうなんですね、よかったあ」

(なんか腹が立つな……)

 別に打診したわけでもないのに、そうあからさまにほっとされると面白くない気分だ。シンクはフンと鼻を鳴らすと、そこで一方的に話を打ち切る。

「ま、甚振られるのが好きなら勝手にすれば」

 実際、こういう奇特な人間がいるおかげで第三はうまく回っている部分がある。これからもお世話係にはとことん犠牲になってもらおうと結論づけて、シンクはその場を後にしたのだったが――。



「アリエッタは生きてこっちにいるけど、お世話係はまだ一緒に来る気がある?」

 その約半年後。棺は空のままヴァンの葬儀が形だけ執り行われた後で、シンクは今度こそナマエに本気で異動する気があるかどうかを尋ねていた。一応、騒ぎになっては困るから、地殻でなくした仮面の予備まで持ち出して教団にこっそりと帰還したのだ。
 ただ今回持ち掛けた話は、師団間の異動ではなかった。導師イオンを最高指導者とするローレライ教団から、導師モースを頂点とした新生ローレライ教団への移籍の誘いというわけである。

「シ、シンク謡士!? うそ、総長と一緒に六神将はほとんど亡くなったって……」

 死んだと思っていた人間が、急に目の前に現れたからだろう。アリエッタが査問会にかけられて免職になった後でも、ずっとダアトの魔物たちの面倒を見続けていたナマエは、シンクを認識するなり大口を開けて固まった。

「アンタほどじゃないにしても、こっちもヤワじゃないんでね。お陰様でヴァン含め、全員ピンピンしてるよ」
「そう、だったんですか……よかったぁ」

 ナマエはふうと息を吐くと、脱力してその場にへなへなと座り込んだ。「よかったぁ、皆さんが生きてるって聞いたら、魔物たちもきっと喜びます」うっすらと目の淵に涙を浮かべて、ナマエは心底ほっとしたようにほほ笑んだ。それを聞いてシンクはまた、面白くない気持ちが込み上げてくる。

(相変わらずこいつは魔物にご執心なのか。やっぱりなんか、腹が立つな……)

 彼女が座り込んだまま低い位置にいるせいで、きっちり詰まった団服の襟の隙間から首筋がちらりと覗く。一瞬見えたそこには魔物のものと思われる大きな歯型がくっきり残っていて、依然として彼女の献身はちっとも報われていないように見えた。

「で、アンタは結局来るの、来ないの」

 シンクは自分が苛立った口調になっていることを自覚しながら、彼女の答えを急かした。旧だろうが新生だろうが、どのみちローレライ教団に明るい未来はないのだけれど、それでもわざわざ声をかけに来てやったのだ。形の上では選択肢を与えてはいるものの、利用できる人材は最後までとことん使い潰してやろうという腹づもりである。

「い、行きます! 準備するから待ってください!」

 ナマエはシンクの言葉に勢いよく立ち上がると、魔物たちの住む宿舎のほうへ急いで駆けていった。

「みんな! アリエッタ師団長が生きてるって!」

 声がでかいと思ったが、そもそもこの付近には誰も寄りつかない。そのおかげもあってシンクは易々と侵入することができたのだ。魔物たちは一体どこまでナマエの言葉を理解したのかわからなかったけれど、シンクが彼女に追いついた頃にはもう、彼女はすっかり魔物たちにもみくちゃにされていた。

「いててて、ちょっ! みんな、嬉しいのはわかるけど……!」
「どうみても襲われてるようにしか見えない」
「そ、そんなことないんです。みんなようやく加減を覚えてくれて、」

 ナマエがそう言った瞬間、のしかかるように体重をかけたライガが、彼女の首筋にがぶりと噛みつく。

「ほら、見てください! 血、出てないでしょう!」

 ナマエはしたり顔で襟ぐりをぐいと引き延ばすと、赤紫の鬱血痕だらけの首まわりを晒す。それを目にしたシンクは無意識のうちに舌打ちしていた。確かに血こそ出ていないものの、幾重にも重なった歯型はとても痛々しい。

「その傷は譜術で治さないの」
「愛情表現ですから。失血死の恐れがない限りは別にいいんです」
「ふうん……」

 どうして。どうしてこんなにも面白くない気分にさせられるのだろうか。ライガの相手するのに夢中なナマエに、シンクは後ろからゆっくりと近づいていく。あまりに無警戒で、無防備な背中だった。かなり至近距離まで近づいてもちっともこちらを振り返らない彼女に、即死なら死ぬんだっけ、と一瞬物騒な考えが脳裏をよぎる。
 だが結局、シンクは確実にとれたであろう彼女の命を奪わなかった。代わりに仮面をほんの少し持ち上げると、そのままむき出しの首筋に思い切り歯を立てる。

「いっ!?」

 ライガほどではないにしても、ヒトの咬合力は体重に比例すると聞いたことがある。たとえそれがレプリカだとしても同じことで、がり、と嫌な音がして、シンクの口の中に鉄の味が広がった。

「なっ……え!?」

 ばっと首筋を押さえて勢いよく振り返ったナマエは、何が起きたのか理解できないみたいだった。シンクがまさか、そんな意味不明な暴挙に出るとは欠片も思っていなかったのだろう。実のところ噛みついた本人のシンクですら、自分の行動にはびっくりしていた。
 噛んでやりたい。痛めつけたい。こっちを向かせたい。確かにそんな暗い衝動は覚えたけれど、まさか本当にしてしまうとは。

「なにを……」

 目を白黒させるナマエを前に、シンクの心臓もばくばくとうるさかった。咄嗟に仮面を深く被り直したけれど、全身から噴き出す汗が止まらない。ナマエも固まって、シンクも固まった。唯一、ライガだけがナマエをいたわるように、わずかに滲んだ首筋の血をぺろぺろと舐めた。それからライガはシンクを敵と見定めたのか、がるると低い唸り声を上げる。

(……なんだ、ちゃんと好かれてはいるのか)

 ぐちゃぐちゃの思考の中で、その事実だけがやけにすとんと胸に落ちた。そして自分のやったことを振り返って、そんな馬鹿な、と拳を握る。

「……魔物たちがなんでアンタを攻撃するか、わかった気がする」
「え、」
「単に隙が多いんだよ、それだけ」

 シンクはそう言うと、くるりと踵を返した。口の中がからからに渇いているせいで、まだナマエの血の味が残っている気がする。

「ほら早く。行くんでしょ」
「えっ、は、はい!」

 ナマエは丈夫で、治療士ヒーラーとしても便利で、面倒な魔物の世話も押し付けられる。魔物にしか興味がないから、深く事情を聞くことも無しにほいほいついてくるし、これほど利用しやすい者はいないだろう。馬鹿。隙だらけ。いいカモ。
 シンクは色々理由を並べ立てて自分を納得させると、それでようやく少し落ちついた。ナマエはまだどこか呆然とした様子だったけれど、急かされたことで準備せねばならないことを思い出したらしい。

「よし、みんな揃った。乗ってください、シンク謡士」

 大型のライガにまたがった彼女は、シンクの方へ手を伸ばした。なにも一緒に乗らなくてもとは思ったが、シンクは勢いをつけると自分で跳躍して彼女の後ろにつく。

「それじゃ、しっかり掴まっててくださいね」

 つい先ほど噛まれたばかりだというのに、ナマエの背中はやっぱり無防備だった。とはいえ、流石に腰に手を回す踏ん切りはつかなくて、シンクはライガの硬い毛にしがみつく。

(失血死しないなら、消さないって言ってたな)

 大きく揺れるせいで、ライガの乗り心地はお世辞にもよいとは言えない。ぐわんぐわんとぶれる視界の中で、彼女の首筋にできた真新しい噛み跡を捉え、シンクはそんなくだらないことを考えていた。

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