- ナノ -

■ ◆天才のやり直し

 人生、何がどうなるかわからないものだ。
 フーゴは親や教師の言葉をすべて鵜呑みにするほど、素直で思慮の浅い少年ではなかったが、それでもまさか、自分があの家から勘当されて、行く当てもなく路地裏の残飯を漁ることになるなどこれっぽちも予想していなかった。いつだって大人たちは口を揃えてフーゴを天才だと誉めそやしたし、褒めるのと同じくらいかそれ以上に重い重い期待を寄せた。自慢の息子、自慢の教え子。頭脳だけでなく、容姿にも恵まれていたフーゴの所有者を名乗りたがる者は、それこそ腐るほどにいた。
 
 それが、だ。たった一度の暴力事件で全てがあっけなく終わりを迎えた。確かにやりすぎだったかもしれないが、少なくとも理由は正当だったはずだ。今でも、自分のやったことについて後悔などしていないし、仮に時間を巻き戻せたとしても、絶対にもう一度殴っている。

 けれどもいくらフーゴが自分の正しさを訴えようと、現実は変わらない。弱冠13歳で大学入りを認められた稀代の天才少年は、男娼まがいの不正入学者だと謗られ、自慢だったはずの息子はとたんに一族の恥さらしとなった。その、いっそ清々しいまでの手のひらの返しようには、フーゴ自身も思わず笑ってしまったほどだ。それまででも、”天才少年”を面白く思わない奴がいたのは知っている。そういった奴らが、フーゴの転落を待ってましたとばかりに玩具にするのも予想はできた。が、まさか両親までもが、フーゴを見放すとは思ってはいなかった。フーゴがこれまで彼らからの重圧に耐えてきたのは、ひとえにそこに愛情があるからだと思っていたのに。だから時折襲い来る衝動を、必死で抑えていたというのに。

 何もかも馬鹿馬鹿しくなって、フーゴは先の事を考えるのをやめた。なるようになれ。どこまでだって、堕ちてやる。そんな風に思えば、少しだけ呼吸が楽になったような気もする。少なくとも、あの家で感じていたような息苦しさは外の世界にはなかったし、罪を犯すことの後ろめたさもあまり感じなかった。スリや万引き、無銭飲食程度のことなら躊躇いなくやった。まともな人間のいない世界で、自分だけが真っ当に生きてやる義理もない。そんなことをしていれば、すぐに飢え死にしてしまうだろう。
 しかしながらまた、悪く生きるというのもそう簡単ではないわけで……。


「うわっ!」

 路地裏に反響した若い女の声。フーゴは起き上がろうとしたが、脳みそは靄がかかってうまく指令を出せず、おまけに身体は泥にでも浸かったかのように重かった。誰かが目の前にしゃがみ、自分をのぞき込んでいる気配がしたが、顔を上げることすらままならない。 
 放っておいてくれ。
 そう言ったはずの口からは、かすかなうめき声が漏れただけだった。

「……生きてる?」
「……」

 脈を確かめるように、ひんやりとした手が首筋に触れる。フーゴは黙ってされるがままになっていた。盗られて困るようなものは持ち合わせていないし、声からして相手は女だ。絶対安全だとは言えないが、いたずらをされる可能性は低いだろう。朦朧とする意識の中そこまで考えて、自分を玩具にしようとした教授の顔が脳裏をよぎり、思わず眉をしかめる。それを肉体的な苦痛の表情だと受け取ったのか、ぱっと手が離された。と、思ったら、いきなり仰向けにひっくり返された。

「よいしょ……っと」

 フーゴは瞬時に身を強張らせ、相手の姿を視界に捉えようとする。しかしながら周囲が暗く、おまけに瞼がひどくはれ上がっているせいで、ほとんど何も見ることができない。自業自得といえばそうなのだが、財布をスッた相手にこっぴどくぶちのめされたのだ。
 女はというと、身動きできないフーゴの背後に回り、そのまま脇の下へ手を差し入れてきた。そしてフーゴの腕を交差させ、横木のように掴むと、後ろから抱きかかえる形で引きずる。「や……めろ……」かろうじて絞り出した声は、どうやら女に届いたらしい。彼女の溜息がつむじにかかった。

「こっちがやめてほしいわよ。店の前で行き倒れなんて、営業妨害もいいとこだし」



▽▲


 次にフーゴが意識を取り戻したときも、彼の視界は依然として暗いままだった。目のところに、何重にも包帯が巻かれている。触った感じ、頬の部分にもガーゼが当てられていた。この調子ならば、おそらく腕や腹、脚なども手当てされているのだろう。
 ぎぎぎ、と錆びた音を立てそうな身体を無理やり起こし、フーゴは目の包帯を引きずり下ろした。腫れはだいぶおさまったらしく、今度こそ周囲の景色が目に飛び込んでくる。
 
「……」

 これと言って、特筆することのない部屋だった。さして広くはないのに、キッチンやリビング、そして寝室までほとんど一つの空間に収まっている。その部屋でフーゴは一つしかないベッドの上に寝かされており、家主の姿は見えなかった。隠れるような場所もなく、気配もしないので、どうやら出かけているらしい。

「不用心だな……」

 フーゴはゆっくりとベッドから降り、改めて室内を物色する。一歩進むたびにずきりとあばらが痛んだが、これくらいならばなんとか我慢できなくもない。
 彼女の名前は”ナマエ”というようだった。書き物机の引き出しの中に仕舞われていた郵便物にそう書かれており、彼女はバールのオーナーでもあるらしい。そういえば、運ばれるときに営業妨害だと言われた気もする。

 引き出しの中には他に、店の帳簿とビスケットの缶と、彼女の家族と思われる写真が写真立てごと仕舞われていた。フーゴの実家では、暖炉の上に置かれていたようなものだ。もっとも、それは仲の睦まじさを表すためというより、理想の家庭の体裁を整えるためのものでしかなかったけれども。
 きっと、フーゴの写ったものも、今ではこの写真のように目につかないところに隠されているだろう。彼女が家族とどうなっているのかはわからないが、こうやって飾られていないのを見るに、いい思い出ばかりでないのは間違いない。

 フーゴはそっと写真を元に戻すと、隣のビスケットの缶を開けた。
 当たり。中にはそれなりの現金が入っていて、ここまで不用心だと呆れを通り越して腹が立ってくる。見知らぬ男を家に上げただけでも大概なのに、それを一人で放っておくなんて。お人好しにもほどがあるというか、ここまでくると馬鹿だ。

 自分が何にイライラしているのかもわからないまま、フーゴは中身に手を伸ばした。全額盗ってしまってもいいが、一部のほうが被害届を出されにくいのは経験上知っている。しかし、そんな薄汚い算段までしておきながら、結局フーゴは一枚たりとも紙幣をくすねなかった。

――まさか、今更いい子ぶるつもりなのか? もうとっくにお前は堕ちるところまで堕ちているんだぞ。生きるためだ。これまでお前がやってきたことと、何が違う?

 合理的な行動ができない自分に腹が立って問いかけるが、うまい答えが見つからない。それもこれもきっと、腹が空いているせいだ。頭が回らない。思えば、最後にまともな食事を取ったのは随分と前のことだった。無銭飲食がそう何度も通用するわけがなく、この付近の店でフーゴの顔は割れてしまっている。

 フーゴは引き出しを乱暴に閉めると、キッチンの脇に置かれた冷蔵庫を開けた。今度は遠慮しないぞ、などと、訳のわからない決意を抱いて中を覗き込む。

【勝手に温めて。食べられるようならサラミもいいよ】

 そんなメモの張られた小鍋には、野菜たっぷりのミネストローネが入っていた。「……クソッ、なんなんだ、あの女」フーゴはまた無性に腹が立って仕方がなかった。見ず知らずの他人に、こんな親切にされるいわれはない。フーゴはもう、自慢の息子でも、自慢の教え子でもないのだ。何の価値もなくなった人間に、手を差し伸べる理由があるのなら言ってみろ。こんなのは納得できない。

 フーゴは今すぐにでも、鍋の中身をぶちまけてやりたかった。それをしなかったのは、本当に腹が空いて死にそうだったからだ。せめてもの反抗で温めることもせず、鍋に直接スプーンを突っ込んで、がむしゃらにかきこんだ。「がっ、げほっ」突然の流入に、気管が出しゃばり、胃が慌てふためく。せっかくの食事なのに吐き気がこみあげて、鼻の奥がつんと痛くなって、フーゴは生理的な涙をぼろぼろと流した。

「っふ、鎮まれよッ……!」

 ようやく呼吸が落ち着いて、胃が上下の向きを思い出しても、涙はなかなか止まらない。すべてが落ち着いたのは、鍋の中身がすっかり空っぽになってからだった。瞼は再び腫れてしまったことだろう。フーゴは重く痛む頭を抱えて、ベッドに潜り込んだ。
 だるい。何も考えたくない。少なくとも今は。
 目を瞑ると、待ち構えていたらしい睡魔にすぐさま攫われる。今更あがく気も起きなかったが、意識を手放すその瞬間、フーゴはみっともなく言い訳をした。

――僕は利用できるものは利用する、それだけだ


▽▲


「ようやく起きた」

 次にフーゴが目を覚ました時、家主は帰ってきており、キッチンで料理を作っていた。初めてまともに顔を合わせた彼女はフーゴと同い歳か、少し上くらいだろう。バールをいちから経営するには随分と若く、彼女が引き出しに仕舞っていた家族写真が思い出される。
 ……亡くなったのかもな。
 食事を取ってぐっすり眠った少年の頭脳は、いつも通りの回転を取り戻していた。

「あんたねぇ、洗えとまでは言わないけど、食べたものくらい流しに持っていきなさいよ」

 彼女は今だ動かないフーゴに向かって呆れた声を出すと、それからややあって「痛むの?」と尋ねた。

「一応、医者にも診てもらったけど、打撲だから結局は日にち薬だって。あ、痛み止めはそこ」
「……」
「それと、栄養摂れって。あんたすっごく軽くてびっくりしちゃった。おかげで運べたけど、最初は死体かと思って――」
「なんで僕を助けたんだ」

 発した声は、自分でも驚くくらいに冷たく強張っていた。いつのまにか、他人と話すときの癖になっていたのかもしれない。
 話を遮られた彼女は眉を上げて、それから「さあねぇ……」と顎に手をやった。

「あんたこそ、なんでうちの店の前で倒れてたの? 隣の理髪店の前でもよくない?」
「べ、別に好きで倒れてたわけじゃあないッ! 力尽きたのが、たまたまアンタの店の前だったってだけだ!」
「そう。じゃあ、私もたまたま拾っただけ」
「たまたまだって!? アンタ、たまたまで見ず知らずの男を家に引きずり込むって言うのか!?」

 そんな軽い気持ちで、ここまでのことができるもんか。フーゴはまたもや、どうしようもない衝動がこみあげてくるのを感じた。「よっぽど男に飢えてるんだな」壁を殴りたくなる気持ちを堪える代わりに、思ってもない言葉が口から飛び出す。しかし、フーゴは実際に自分の容姿の良さをしっかりと理解していた。今のフーゴに価値があるとすればそれくらいで、親切にされる理由としては納得がいく。フーゴはとにかく納得したかったのだ。それはほとんど、子供のような我儘だった。

「僕を買いたいなら、それなりに金は払ってもらうからな」
「はぁ? あんた、自分の顔、鏡で見た? 元の顔がわかんないほどひっどいわよ」
「……」
「第一、とても臭うわ。あんたが抱かれたいってのはわかったけど、まずは風呂に入ることね」

 びしり、と指を突き付けられて、フーゴはかあっと身体が熱くなるのを感じた。確かに、ごみ箱を漁るような生活をしていたのだ。臭わないわけがない。
 すっかり悪党になったつもりのフーゴでも、同年代の異性に指摘されて、恥ずかしいと思う感性は残っていた。頭の中が真っ白になって、言い返す言葉が思い浮かばない。「あ、洗えばいいんだろ!」逃げるようにバスルームへ飛び込んで、乱暴に服と包帯をはぎ取る。彼女の言った通り、鏡に映った顔も体も青あざだらけだったが、アドレナリンが出ているのか痛いと思わなかった。頭からシャワーを引っ被って、不必要なほど念入りに身体を洗う。
 
――まずは風呂に入ることね、だって? つまり、それは……僕とヤる気があるってことか? やっぱり、ただのお人好しじゃあなかったというわけだな。

 金を払えば相手をしてやる、と言ったものの、フーゴには経験がなかった。それこそ、行き倒れるほどまでに困窮しても、プライドの高い彼は絶対にそれを選ばなかったのだ。シャワーを浴びて気持ちが落ち着くと、今度は不安になってくる。彼女は経験豊富なのだろうか。知識として……構造は知っているつもりだが、自分にうまくできるだろうか。心配と、ちょっぴりの期待を胸にバスルームから出ると、ご丁寧にタオルと着替えが置かれている。恐る恐る中身を確認すれば、ちゃんと男物だった。他の男のものだったりするのだろうか。関係ないとはわかっていても、少しもやもやする。とにもかくにも着替えたフーゴは、深呼吸をしてリビングに戻った。

「ア、アンタも風呂、入れよ」

 フーゴがシャワーを浴びていた間、彼女は書き物机に向かって何やら仕事をしていたらしい。無言で立ち上がった彼女は引き出しの中にあったはずのビスケットの缶を片手に、ずんずんとこちらに近づく。

「な、なにを――」

 びっくりするくらい強い力で掴まれて、混乱しているうちに玄関へ。そのまま押し出すように外に出され、最後に靴とビスケットの缶が投げつけられたかと思うと、扉は大きな音を立てて目の前で閉まった。

「ハ、ハァ!? おい、これはどういう――」
「薬もそこに入ってるから。出てって」

 薬も、というが、この缶にはそもそも金が入っていたはずだ。呆然としながら中を確認すれば、やはり数時間前に見たのと同じ光景が広がっている。フーゴはひくり、と口元を引きつらせた。

「か、金なんて貰う理由がないぞ! さっきからなんなんだよ、施しのつもりか?! 僕はそんなのいらないッ!」

 ガンガンと扉を叩くが、流石に扉はびくともしない。

「僕を哀れにでも思ったのか? 大層なご身分だな! 親の遺産はたっぷりだったって訳だ!」

 フーゴが腹立ちまぎれにそう叫んだ瞬間、今度は思い切り扉が開いて、顔面が強かに打ち付けられる。思わず缶を取り落して蹲れば、彼女は肩を怒らせ、こちらを見下ろすように立っていた。

「だったら半分返して。それ、私の今月の生活費だから」
「ぜ、全額返すって言ってるんだよ! 馬鹿なのか?! 僕はあんたの自己満足に付き合うつもりはないッ!」
「うるさいクソガキ! 私のこといい奴だったな、って思えるようになるまで、二度と顔見せんな!」

 そう言って、彼女は落ちた缶から中身をいくらか引っ掴み、今度こそしっかりと扉を閉ざしてしまう。
 全身が燃えるように熱かった。フーゴはしばらくその場に座り込んでいた。が、彼の感情は嵐のように通り過ぎるのも早い。ゆっくりと立ち上がって、缶を拾った。悪いことをしたとは思ったが、彼女の振る舞いに納得がいっていないのも本当だ。

「……クソ、一体なんだったんだ」

 フーゴはなにも、彼女に感謝していないわけではない。本心を言えば、彼女のことをいい奴だと思う。ただ、厚意の受け取り方がわからなかった。
 
 だから――きっとまだ、彼女に会う資格はないのだろう。
 フーゴは大きなくしゃみをひとつして、夜の街に消える。堕ちるところまで堕ちるつもりなら、それが自分にとって相応しい居場所であると思ったのだった。





「……と、いうわけなんです」

 他の誰にも話すつもりはない、過去の失態。だが、フーゴは目の前の男になら、プライドを捨てて打ち明けることができた。実際、ブチャラティという男はそこらの神妙な顔つきの神父よりも、よほど人格者であると思う。自分の才能を拾ってくれ、この厄介な性格をも受け入れてくれた彼になら、フーゴはいともたやすく告解を行うことができた。

「そいつは確かに……フーゴが悪いな」
「ええ、わかっています。あのときの僕はひどく荒れていた。今思い出しても……恥ずべき行為でした」

 流石に金で買うだの買われるだのの部分は省いたが、こうして改めて言葉にしてみると自分の酷さがよくわかる。
 
「だが、ちゃんと謝りに行くんだろう?」
「ええ。そのつもりで……休みをいただきたく……」

 彼女のバールがあったのは、ここネアポリスから遠く離れた街だ。ブチャラティが休みの理由を詮索したわけではなかったが、誰かに背中を押してほしかったフーゴは、事の顛末を語ったというわけである。

「あぁ、もちろん構わない。お前はいつもよく働いてくれているからな。旅行も兼ねて、一週間でも二週間でも休むといい」
「い、いや、流石にそんなに空けるわけにはいきませんが……」

 気持ちはありがたいが、そんなことをすれば帰ってきたときに仕事が溜まりに溜まっているだろう。ブチャラティは確かに優秀であったが、少し……いや、結構大雑把なところがある。書類仕事や細かい金の計算なんかにはあまり向いていないほうだ。

「と、とにかくそういうわけですから、しばらく不在にします。ナランチャには課題を出してあるので、サボらないように言ってやってくださいね」
「あぁ、わかった」

 にこっ、と音が聞こえそうなほど爽やかな笑顔が返ってきたが、たぶんこの件に関してもあまり期待はできない。ブチャラティは頼りになる男だが、ちょっぴり……いや、かなり年下に甘い傾向がある。フーゴは思わずため息をつきそうになったが、それがこの人のいいところだ。完璧なのにどこか抜けているというか。自分がいなくては、という気持ちにさせられる。
 それは自分の価値を探していたフーゴにとって、とても面はゆい感情だった。

「そうだ。今度、その彼女を紹介してくれよ。フーゴが世話になったのなら、ぜひ挨拶しておきたい」

 ほら、やっぱり抜けている。フーゴがブチャラティチームに落ち着いてからも、なかなか彼女のもとへ行けなかったのは勇気が出なかったからだ。ブチャラティはなぜか自信たっぷりに大丈夫だ、と太鼓判を押すけれど、そう楽観的な気持ちにはなれない。

「……うまく、許してもらえれば、ですけどね」

 フーゴは吐き出すようにそう言って、事務所代わりのリストランテを後にした。





 バールの正確な場所は、正直言って覚えていなかった。元はあちこち転々としながらその日暮らしをして、行き倒れるようにしてたどり着いた場所だ。栄養失調と怪我で意識が朦朧としていたこともあって、記憶だけを頼りにするのは難しい。
 しかし、フーゴは彼女の名前を知っていた。直接聞いたわけではなく、郵便物を盗み見て知った名前だが、大まかな場所と氏名、そしてバールのオーナーである若い女という情報があれば、探し出すことはそう難しくない。

 調べた結果では、彼女は今もあの店を続けており、実際にフーゴが足を運んでみても、あの時と何も変わっていないように見えた。
 いや、発見がひとつある。彼女は店の前にフーゴが倒れていたと言ったが、実際には裏口だ。フーゴは人目を避けるように路地裏に逃げ込んだのだし、彼女は別に行き倒れを放っておいてもよかった。よかったのに。

「……よし」

 ひとまず彼女との出会いの場を確認したフーゴは、深呼吸をする。そういえば、バスルームから出るときもこんな心境だった気がする。不安と、ちょっぴりの期待。彼女は自分を許してくれるだろうか。
 この時間ならば彼女は家ではなくまだ店にいるはずだった。もしかするとちょうど帰るくらいの頃合いかもしれない。
 急がなくては、と店の正面に回ろうとした瞬間、がちゃり、と裏口の扉が開いて人が出てきた。

「あ……」
「うわっ!」

 冷静に考えればまだ一年も経っていないのだから当たり前だが、すごく懐かしい気持ちになる。大きなごみ袋を持った彼女は、裏口に立っているフーゴにひどく驚いたらしかった。

「びっくりした。危ないわね。こんなとこに人がいるなんて思わないじゃない」
「す、すみません。えっと……」

 フーゴが思わず後ずさると、彼女はそのまま置かれていたポリバケツの中にごみ袋を片付ける。そしていつまでも棒立ちしているフーゴのほうを、振り返って不審そうに眺めた。

「何か?」
「あの……僕は以前、君にここで助けてもらって……」

 これではまるで何かの童話のようだ。フーゴはかっ、と顔面に血が上るのを感じたが、これは怒りではなく純粋な羞恥心である。しかしながら、"ここで"と場所の情報があったことが幸いしたのか、彼女はすぐさま目を見張った。

「うそ……見違えたね」
「ええ。その節はどうもありがとう。あの……君がいい奴だったと、思えるようになったんだ……それで、その……あのときはすまなかった。実際、すごく助かったんだ」

 いざ本人を前にするとどうにも歯切れの悪い謝罪になってしまったが、彼女は怒って立ち去るようなこともない。フーゴが借りていた金だ、と封筒を渡しても、突っぱねたりはしなかった。

「怒りに任せて、君の両親のことを話題にしたのも失礼だった。すまない……あのときの僕は、人の親切を素直に受け止められなかった。ああやって突っ張っていないと、誰かに出し抜かれると本気で思っていたんだ」
「わかってたから、それはもういいわ。私こそ、湯上りのまま放りだしちゃってごめんね。あのあと風邪引かなかった?」
「あぁ、それは大丈夫」
「で、今は何してるの? もう困ってないの?」

 思いがけず普通に会話をすることができて上向き始めた気持ちだったが、その質問にはぐっ、と詰まる。フーゴ個人の見解ではかなり更生したつもりだけれど、ギャングをやっているなんて言ったら彼女はどう思うだろう。ブチャラティチームにいることを恥じたことは一度もないが、いかんせんこの状況では口にしづらかった。

「……あのあと、僕を必要としてくれる人に出会えたんだ、今はその人の元で働いている。おかげさまで、もう困ってはいない」
「そう、よかったね」

 幸い、彼女は深く追求してくるようなことはなかった。むしろ随分とあっさりだ。彼女に恨まれていなくてほっとした反面、フーゴはやや面白くない気持ちになる。この分では彼女、僕のことなんて絶対忘れてたぞ。そしてまた店の中に戻ったら、僕のことなんて記憶にも残らないに違いない。
 フーゴが彼女に会いに来た一番の目的は謝罪だが、どうしてもそれだけでは終わりたくなかった。

「それでその……謝りたかったのもそうなんだが、君の名前を聞いていなかったと思って……。できれば、僕は出会いからやり直したいと思っている」

 身勝手なのは百も承知。が、フーゴは自分の我儘さが、一度行き倒れたくらいでは直るものではないと知っている。

「もちろん、僕はどうしようもない癇癪持ちだし、いきなり君とどうこうなれるとは思っていないけれど――」
「前は抱かれるつもりだったくせに?」
「だッ! なんで僕が抱かれる側なんだ! いや、だからそういうんじゃあなくてッ」

 今日は空腹というわけでもないのに、彼女を前にするとどうも頭が働かない。
 彼女はふーん、と何かを考えるように顎に手をやると、フーゴを上から下まで試すように眺めた。

「だったら……ギャングをやってる、って正直に言うべきだわ」
「え、」
「じゃないと、またあとでやり直す羽目になるもの。私を厄介ごとに巻き込む覚悟ができたら、また出直してきてね」
「え、ええ……?」

 唐突に告げられた言葉には、IQ152の頭脳を持ってしても理解が追い付かない。彼女は知っていたのか。というか、巻き込む覚悟とはなんだ。普通、相手がギャングなら、関わる覚悟がいるのはむしろ彼女のほうでーー

「ブチャラティによろしくね」

 そこでようやく、やたらと自信満々だった上司の謎が解ける。あの人、大雑把に見えて、ちゃんと部下の身辺調査とかはするタイプなんだな。
 フーゴは観念してうなだれた。後で絶対、文句は言わせてもらうが。

「……わかった。また来るよ。そして、次こそはきちんと名前を教えてもらう」
「ぜひそうして。長い人生、途中は何回やり直してもいいんだから」

――おまけに、人生何がどうなるかもわからないし。

 フーゴは心の中で、再挑戦を固く誓う。
 彼女と最高の結末を迎えるための、最高の始まりにたどり着くまでは、何回振られようと絶対に諦めるつもりはないのだった。

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