- ナノ -

■ 04.みんなの嫌いな月曜日A

 
 サイコパスと呼ばれる人たちは、“良心”を持たないのだそうだ。
 冷酷で無慈悲で自己中心的で、自分の快楽の為ならば他人を欺き、陥れてもちっとも心が痛まない。そういう人間のことを指すらしく、個人主義の進んだ欧米では四パーセントの割合で存在するとも言われている。もちろん、そうした人々の全員がニュースで報道されるような猟奇犯罪を行うわけではないが、割合的に学校のクラスに一人は”良心”を持たないのだと考えると、まさに日常に潜む恐怖と言えるだろう。

 だが、“良心”という言葉が表す正義や道徳観は、時代や社会や文化的な価値観によってまちまちなものだ。実際、良識的なことや慈悲深さを尊ぶ敬虔な信者ほど、異教徒への迫害意識は強い。異なる神を信じる者や神を持たない者の人権は、少しの“良心”の呵責もなく無視をされ、酷い時には死か改宗の二択を迫る勢いだったらしい。
 では比較的リベラル派とされるカトリック教会でさえ、二十世紀半ばの第二ヴァチカン公会議までは“教会の外に救いなし”という命題を掲げてきたことを考えると、“道徳”だとか“良心”というのは限られたコミュニティの中にのみ適用される代物でしかないというのがよくわかる。

 だから“良心”をもたないという定義については、不確かな“道徳”とか“正義”を持ちだすのではなく、もっと感覚的な理解が必要だろう。
 とある研究において、サイコパスと診断された人間の大脳皮質は面白い反応を示したらしい。心と脳を別物だと考える主義主張はこの際置いておくとして、この研究では彼らにいくつかの単語を聞かせ、脳波を見たのだ。
 結果、彼らの脳は“愛してる”という感情的な言葉にも、無味乾燥な言葉――例えば“ペン”や“机”、“椅子”といった言葉にも、全く同じような反応を示したというのだ。つまり、”良心”を持たないと言うことは異なる“正義の元に行動している”結果ではなく、きっと最初から最後まで徹底的に、人間的な価値観から見放されているということなのだろう。

 ペコリーノはそれがとても可哀想だと思う。ある程度は環境的要因もあるそうだが、生まれつき愛情を感じることができないというのはどんな罰よりも酷いと思う。ただ単に冷酷で残虐な面を持つだけならば、時と場合によっては強みとなるだろう。戦いの中で目覚ましい戦果をあげることができるのはこういう類の人間だろうし、ギャングなんて裏家業をやるうえでも、一般的な“良心”を捨てることは必要だ。実際、ペコリーノは自分の中に”良心”が常にあるとは思っていない。ごく普通の人間のように何かを愛し慈しむこともできるが、それらの感情を自分の意思で捨て去ることもできる。そういうときのペコリーノを見た人間は彼女のことをサイコパスだと勘違いするかもしれないが、残念ながら彼女は精神医学や脳科学からすると至って正常な人間なのである。

 “良心”を初めから持たない・・・・・・・・ことと捨てることができるというのは、似ているようで全く異なることなのだ。

 ペコリーノが殺した人間は、自分を育ててくれた教会の神父だった。彼女は新生児のときに教会の前庭に捨てられていて、そのままの流れで教会の孤児院へと収容された。宗教的に中絶や堕胎が禁止されていると捨て子は特別珍しい話でもなく、パドバのオニサンティ教会では十五世紀から赤子を置き去りにするための回転台が設けられていたくらいだ。この時点ではまだ、ペコリーノの人生はありふれたものだったと言えるだろう。


 
「うわああん、神父さまぁ〜! ジェンがぼくのことぶったぁ!」

 教会が静謐な場所でいられるのは、祈りの時間か、孤児院の子どもたちが寝静まった夕方以降の話だ。さんさんと太陽の日差しが降り注ぐ中庭で、ジェン――パリの守護聖女ジュヌヴィエーヴの名を持つ少女は、告げ口して神父にすがりつく少年の背を、実に忌々しそうに眺めていた。 
 
「ちょっと小突いただけじゃん! 大げさ!」
「ジェンのちょっとはちょっとじゃないんだよう!」
「うるさいわねぇ、イエス様は殴られたら反対の頬を差し出すくらいなの! あんたもそれくらい見習いなさいよ!」

 自分がそうしろと言われたら絶対断るくせに――というかジェンの性格上、叩かれた瞬間に問答無用で殴り返しているに違いない――少女は腕を組んで唇を尖らせた。しかしやはり、育ての親である神父の前では手出しができず、それがわかっているから少年の方もつい気が大きくなって、いつもは言わないような売り言葉を言う。

「ジェンこそ、ちょっとはジュヌヴィエーヴ様の名前に相応しい行動しろよ! この暴力女!」
「フン、あたしだってちゃんと修道女ソレッラになるもの」
「なれるもんか! ジェンは修道女ソレッラどころか羊飼いにだってなれやしないよ! 子供の頃のジュヌヴィエーヴ様にだってかすりもしないんだ!」
「……ッ」
「こらこら、マヌエルも言いすぎだ」
「だって……」

 少年――マヌエルはまだ日頃の鬱憤を晴らしきれていないとばかりに抗議しようとしたが、そこでやっとジェンが今にも泣き出しそうな顔をしていることに気がついたらしかった。「……もういいッ!」一体何がもういいのかわからないし、普段から拳でぽかりとやられっぱなしのマヌエルにしてみればこんなことくらいで泣き出されるのは理不尽でしかない。が、ジェンはくるりと踵を返すと、ものすごい勢いで宿舎のほうへと駆け出して行ってしまった。

「……神父様、ぼく、ジェンを傷つけたみたいだ」
「ジェンを傷つけて、マヌエルの心も痛むかい?」
「うん……ジェンが本気で修道女ソレッラになりたくて、目指してるの知ってるから。乱暴者で怒りっぽいけど、結構根はイイ奴なんだ。ぼくが街の子にいじめられたときは庇ってくれたし」
「じゃあ、謝らなくてはいけないね。でも、ジェンだって君のことをぶったのだから、お互いに謝らなくてはいけない。ここはひとまず、私が彼女の様子を見に行こう」

 マヌエルはほっとして、それと同時に目の前の神父への尊敬を更に強めた。思慮深く、慈愛に満ちていて穏やかな彼は、教会の子どもたちだけでなく、街の人々からも慕われている。孤児であるマヌエルはあまり両親に感謝することはなかったけれども、ただ一つ、捨ててくれた先がこの神父の元であったことには感謝せざるを得ない。

「ありがとうございます、神父様。ぼくも後でちゃんとジェンに謝ります」

 神父は小さく頷くと、少女が駆け出していった宿舎の方へ足を進める。
 ジェンはどこに行ったのだろう。

 しかしながら神父は、そう苦労することなく目当ての少女を発見することができた。いったいどうやって登ったのか、宿舎の裏にあるカサマツの幹の分かれ目にジェンは腰掛け、足をぶらぶらとさせている。  
 彼女は神父の姿に気がつくと、わかりやすくばつの悪そうな顔になったが、神父はあえて自分からは彼女に話しかけなかった。

「……神父様、あたしじゃあ、やっぱり修道女ソレッラにはなれないと思う?」
「なれない人など、いないよ」

 心細げにそんな質問をした少女の瞳は、神が存在するとされる至上の空色だった。セレストブルーと呼ばれる僅かに紫がかった青色は、彼女のブロンドの髪と相まって、本当に天界から降りてきたようですらある。子供というのは宝物だが、その中でもジェンは特に“高価のつく”子供だった。

「でも、あたしったらすぐ頭に来ちゃうのよ。本当は神父様みたいに、いつも穏やかでいたいのに」
「ジェンは“怒りの感情”なんてないほうがいいと思うかい?」
「もちろんよ。……どうしてそんなことを聞くの?」
「もしも君に”怒りの感情”がなかったら、君は他の人の”怒り”を理解できるだろうか?」
「それは……」

 痛みを知らない人間は、他者の痛みを想像することができない。神父は懺悔室で顔も知らない誰かの告解を聞くたび、いつも不思議な気持ちになる。彼は、彼女は何を悔いているのだろう。何に苦しんでいるのだろう。欠片も理解できないが、学習することはできた。レバーを引けば、餌が出てくると学ぶネズミのように、この言葉をかければ人々は神父に感謝する――それは単なる経験と学習の積み重ねしかなかったが、幸か不幸か神父はこの社会的文脈を読み取るのが得意だった。

「じゃあ……あたしが怒ってもばかりのどうしようもない子でも、神様はあたしを見放さないかしら?」
「あぁ、そうだとも」

 ジェンは確かに短気だったが、愛着形成がうまくいかなかった子供にはよくありえる程度の問題だ。行動をモニターし、コントロールする前頭前皮質はもともと完全な形では生まれてこず、それは周囲の人間との適切な関係の中で発達していく。前頭前皮質が恐怖や痛みを罰、他者に必要とされる、愛されるといったことを快として受け取る扁桃体と結びつくことで、人間は初めて他者と共存できる社会的な生き物になる。
 この脳内のコネクションは、時間はかかるが大人になってからでも取り戻すことができるのだ。

「ジェン、本当に神様に見放されている人間というのはね、私のような人間のことなんだよ」

 不意に神父は、この何も知らない少女に真実を伝えてやりたい衝動に駆られた。懺悔室に来る彼らのように、聞いてもらって救われたいという意図は微塵もない。むしろどちらかといえば自慢したい気持ちに似ていた。自分がどんな人間なのか知らしめたくなったのだ。が、一方で、知られてしまっても消してしまえばいいと冷静に考えていたのも事実だ。

「……神父、様?」
「今日の晩課が終わったら、私の部屋に来なさい。人間の感情について、面白い話を聞かせてあげよう」

 前頭前皮質と扁桃体の結びつきは、後からでも強化することができる。しかしながら、この世には初めから、恐怖も愛も感じることのできない扁桃体を持つ、神に見放された人間が確かに存在してしまうのだ。





「ジェン、どこ行くんだよ。自分の部屋に戻らなきゃいけないだろ」

 面倒な奴に見つかった、というのが正直な感想だった。晩課が終わり、他の子どもたちがみな就寝の準備に入った頃、ジェンは神父との約束を守るべく、一人こっそりと抜け出していたのだ。「うるさいなぁ……マヌエルってばあたしの監視員か何かなわけ? 月曜から熱心な見回りご苦労さま」不意にかけられた聞き馴染みのある声に振り返ったジェンは、不満げに唇を尖らせる。出た、優等生。マヌエルはなぜか、ジェンのことばかり目の敵にして、あれやこれやと口出しばかりしてくるから嫌いだ。

「べ、別に監視してたわけじゃない! ただ、ジェンはいつも皆と違うことばっかりするから目立つだけだよ!」
「逆に聞くけど、なんで皆と同じことしなくちゃいけないのよ」
「全部同じじゃなくてもいいけど、ルールは守らなきゃだめだろ。晩課が終わったのに、勝手に出歩いちゃいけないんだぞ」
「だったら、ルール違反はマヌエルのほうね。今日のあたしは神父様に呼ばれた例外なんだもの」

 ふふん、と勝ち誇って笑ってやれば、マヌエルはわかりやすく動揺をあらわにした。

「僕はただ、ジェンを追って……」
「だからそういうのやめてって言ってんの。なんで、マヌエルって私の粗探しばっか、」
「違う、謝りたかったんだよ! 昼間のこと!」

 少年はぱっと頬を紅潮させると、言うだけ言って唇を引き結ぶ。虚を突かれたジェンは一瞬黙り込み、それからしばらく立っても何も言わないマヌエルに向かって首を傾げた。

「で……謝るんじゃなかったの?」
「っ、だからその……」
「謝りたかったってのは聞いた。でも、まだ謝ってはもらってない」
「ジェンだって僕のことぶっただろ! ほんとお前、いい性格してるよな!」
「あたしだって、怒りすぎたのは良くなかったとは思ったわよ。でも、神父様は、怒るのは別に悪いことじゃないって」
「そんなの嘘だ」
「本当よ。だって、あたし、これからその話を聞きに行くんだもの」

 マヌエルに”神父様”という単語が効果てきめんなのは、ジェンだけでなく孤児院の子どもたち皆が知っている。彼は優等生らしく神父のことをとても尊敬しており、彼にとってのルールや善悪は全部神父に依存していた。「僕も……その話聞きに行ってもいいと思う?」そんな彼が、神父様の話に興味を惹かれないわけがない。

「あたしに聞くの? あんたのルールに照らし合わせれば、許可なく夜に出歩くのは駄目じゃなかった?」
「……」

 ジェンがそう言うと、マヌエルは叱られた子犬のようにしゅんと肩を落とす。いつもは大人ぶって口うるさいやつだが、こういう一面は可愛気がないこともない。

「馬鹿ね、逆に考えるのよ。もうあんたは既にルールを破ってる。これ以上は破りようがないさって」


 ▲▽


「あたしが初めて殺したのは、同じ孤児院で育った男の子だった。一人くらいはいるでしょ、優等生ぶって他の子供に説教したり、大人に告げ口するような子。あたしは結構そいつに目をつけられてて、すっごく鬱陶しかった」
「だからカッとなって殺したのかい?」

 質問をしたメローネは話の流れから意を組んだつもりだったが、ペコリーノはそんなわけないでしょ、と一蹴する。殺人の動機としてはチープなものの別にありえない話ではないとは思ったが、彼女にとってここは譲れないポイントだったらしい。やや語気を強めたペコリーノは「あたしは、未だかつて、怒りのために誰かを殺したことはない」と嘘みたいなことを言った。

「可哀想だったから、殺したの。生きたまま腹を開かれて、いくつも臓器を抜かれて、もう彼は助からなかった。だから一思いに殺してやった」

 淡々と語られたその内容は、あまりに唐突だった。が、誰もそこを掘り下げようとはしない。顔も知らない子供の身に訪れた不幸に、リゾットがほんの少し、目を伏せただけだった。

「二人目は男の子をそんな目に合わせた神父。あたしたちを育ててくれていた神父は、裏で子供を売っていたってワケ。臓器だったり、奴隷だったり……まぁ、これもギャングになったあとじゃそう斬新じゃない話ね」
「じゃあ報復で殺したのか?」
「だからァ〜〜、あたしは怒りで人を殺したことはないって言ったでしょ!」
「ンだよそれ、訳わかんねーな。正当防衛とでも言うのかよッ」
「違う。可哀想だったから。神父は生まれつき、神様に見放された人間だったの。恐怖や愛情を感じたことがないから、他人の気持ちも理解できなかった。そういう脳で生まれついてしまった、可哀想な人だったの」
「はぁ……? 何言ってんだ、オメー」

 道理の通らないことを言えば、いつもキレるギアッチョも、今回ばかりは素で首を傾げている。「……狂ってやがるな」プロシュートが気だるそうにそう呟いたのも無理のない話であったが、メローネはなんとなく彼女の言いたいことがわかった気がした。
 一つ目の殺人も、二つ目の殺人も、彼女は“もう助からない”と思ったから殺したのだ。死のみが唯一彼らを“救う”方法だと思ったのだろう。そういう意味では、彼女が人殺しでありながら、同時に修道女ソレッラになりたいのだと言い張る理由もわかる。

「そんなイカレた神父のどこが可哀想なんだよ? つーか、可哀想って言いながら殺してんじゃあねぇか!」
「だってあたしは神様のしもべであって、神様じゃないし」
「意味わかんねーんだよッ!」
「神様は人間がどんなに可哀想でも一思いに殺してくれない。だから辛くなった人間は罪と言われようが自殺する」

 自殺、という単語で、部屋の温度がぐっと冷え込んだ。詳しい話は聞いたことがないけれど、ギアッチョが自殺する人間を殊更に非難するのは昔からだ。彼自身、特に信心深いわけでもないから、きっと過去に何かあったのだろう。メローネからしてみれば、自殺もただの個人の選択で、それこそ外野がどうこう口を挟むものではないと思っているが。

「良心を持たない人間に至っては、その辛さすらも自覚することができない。ある意味、究極的に可哀想な存在なの。でも、神様は可哀想な人間を殺してはくれないし、可哀想な人間が自殺するとそれは罪だとされる。つまりそういう人たちを救うには、誰かが罪を被って・・・・・やらなくちゃあいけないのよ。他殺で、被害者にしてあげないと、彼らは天国に行けないの」
「……だったら、テメーはどうなんだよ? そうやって他の奴を殺して、天国にでも行けると思ってんのか? これは人助けの善行だから、神様は赦してくださるなんて言うワケか?」

 虫が良すぎるぜ、とギアッチョは吐き捨てた。
 ペコリーノは首を振る。ゆっくりと、それでいて力強く横に。

「言ったでしょ、誰かが罪を被って・・・・・やらなくちゃあいけないのよ」

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