- ナノ -

■ 24.金曜日の受難は乗り越えるG

  
 人が死ぬときに、一番最後まで残る五感は聴覚だと言われている。プロの仕業や酷い事故で一瞬のうちに即死するようなことでもなければ、人の身体は徐々に、あるいは急速に、四肢の末端から脳に向かって機能を止めていくのだ。そのため脳に近い位置に神経があり、受動的で意識して働かせる必要のない聴覚が最後まで残るのは、ごくごく自然な道理と言えるだろう。終末医療の現場で患者に向かって愛や感謝を囁くことには、残される者たちが心の整理をつけること以上の価値が実はあるのかもしれない。
 しかしながら人体というのは不思議なもので、記憶を失う――すなわち何かを忘れていくときの順番は聴覚が真っ先なのだという。実際、昔の知人の顔や名前を憶えていてもその声までもをはっきりと思い出せるかと言われれば、その人物がよほど特徴的な声の持ち主でない限り難しいことが多いだろう。脳は音からの情報を軽んじている。いや、最期まで聴覚が残るからこそ、わざわざ音の記憶は保持しなくていいということなのかもしれない。



『……チッ、静かすぎるっつうのも気持ち悪ぃぜ』

 半ばぼやきのような調子だったものの、ギアッチョは確かに悪態をついた。だが、注意して意識を向けてみても声帯の震えを感じるだけで、自分の声はちっとも聞こえてこない。ヘッドフォンのしすぎで耳をぶっ壊したわけでも、爆風で鼓膜が一時的におかしくなっているわけでもなかった。一体いつから、と言われると正確に遡ることは難しいけれど、ギアッチョは自身がスタンド攻撃を受けていることは十分に理解していた。それなのにこうして手をこまねいているのは、本体どころかスタンドの姿すら見つけられないでいるからだった。

『グリマルディ本人にしか用はねぇって感じか……? まぁ、流石にプロシュートの奴も敵には気づいてんだろ』

 ギアッチョとプロシュートの能力ははっきり言って相性が悪い。いや、ザ・グレイトフル・デッドが見境のないはた迷惑な能力ということを考えれば、その影響を受けないホワイト・アルバムは最適な組み合わせといえるのかもしれないが、とにかく能力を使うときは別行動が基本だ。ギアッチョは動きやすい屋敷の外、プロシュートはガスの充満しやすい室内、という振り分けは特に揉めることなく決まったし、護衛任務も形式だけで死なせても構わないとなると、今からプロシュートと合流して意味があるだろうか。

『いや、ねェな……。本体がこれから屋敷に来るってんならオレが外で迎え撃つし、既に屋敷のなかにいるっつうなら燻されて出てくるか、気づかずボケちまうかがオチだわなァ』

 聴覚を奪うというのは暗殺に向いた能力かもしれないが、あくまでそれは一般人を狙う場合だ。一応スタンド能力者を引っ張り出せてはいるようだが、果たして<サルヴァトーレ>はどの程度の手札を切ってきたのだろうか。ギアッチョは外からガレージのシャッターを下ろすと、それをぴったりと背にして周囲の様子をうかがった。相手がどこにいるのかわからない以上、闇雲に探したところでこちらの隙が増えるだけだ。音が聞こえない分、死角となる部分は極力減らす。

『アレだな、静かすぎると気が狂いそ――』

 不意に、顔の真横で一陣の風が巻き起こり、ギアッチョは言いかけた口のまま固まった。頬に風が吹きつけたのではない。それは紛れもなくすぐ真横で巻き起こって、もしも聴覚がきちんと機能していたらひどくうるさく感じただろう。驚いて、勢いよく振り向こうとしたギアッチョは言葉を失った。

『んなっ……』

 突然真後ろ・・・からにゅっと腕が突き出て、そのまま首を固定するように締めあげられる。米神に突き付けられた冷たい銃口の感触。けれども背中には依然として固いシャッターの感覚しかなかった。振り向けないせいで確認することは叶わなかったけれど、シャッターから腕が生えたとしか言いようがない状況だ。

『こンのッ…!!』

 困惑するギアッチョを見物するかのように、視界の端でひらひらと青紫色の蝶が舞っている。そして次の瞬間、おそらく・・・・銃声がした。




 命あるものは、死から逃れることはできない。それが万物不変の真理とするならば、“老い”もまた、逃れることのできない定めのひとつだろう。
 プロシュートは足元に転がるグリマルディを見下ろして、ここでとどめを刺すかどうか思案していた。既に襲撃を受けたらしい彼の左脚の太ももには大きな風穴が開いていて、もしプロシュートが脚を枯らせて・・・・いなければ、出血多量でじきに死んでいたことだろう。とはいえ、ザ・グレイトフル・デッドが発動している今、すぐに死ぬか、もう少し後で死ぬかの違いしかなさそうだったけれども。

『ま、囮の生死は不問だからな。来た刺客を漏れなく全部ぶっ殺して、死んだってことがバレなきゃそれでいい』

 プロシュートはあっさりと結論を出すと、うめき声をあげているだろうグリマルディの首根っこを掴んで、ぞんざいにウォークインクローゼットに放り込む。しばらく前から自分の聴覚に異常が起きていることは理解していたが、別段焦りはなかった。既に敵方のスタンド使いが差し向けられているのならば、今回の仕事の首尾は上々と言えるだろう。他の組織は<パッショーネ>ほど、スタンド使いを使い捨てられる余裕があるはずもないのだから、案外長期任務にならなくて済むかもしれない。

『しかし、どこからだ……?』

 プロシュートはグリマルディの私室をぐるりと見まわして、眉間に皺を寄せる。命を狙われていた彼はしっかりと引きこもっていたし、いくら本気で護衛する気がなかったとはいえ、外にはギアッチョが、部屋の前にはプロシュートがいた。グリマルディが撃たれた銃声は聞こえなかったけれど、大の男が床に崩れた振動でプロシュートはすぐにドアを開けたのだ。けれども部屋に不審な人影はなかったし、こんな絶好の機会に敵が一発でグリマルディを仕留めなかったのも妙でしかなかった。
 
『いや、一発どころじゃねェ、初めて銃を持ったガキだってもう少しうまく当てるぞ……』

 弾痕は複数。それも壁だけではなく天井やソファーの座面など、グリマルディを狙って外したというというよりやたらめったらにぶっ放したみたいだ。プロシュートは弾痕に指を這わせ、そこがまだ熱を持っていることを確かめる。発砲はやはりついさっき起きたようだったが、奇妙なことに銃弾が見つからなかった。穴の中に残っているわけでも、貫通して床に落ちているわけでもない。穴自体もなんだか妙な感じがして、プロシュートはすぐさま距離をとった。何がどう妙だと説明するのは難しかったが、強いて言えば勘というやつだろう。まるで、この穴の中がここではないどこかに通じているような――。
 しかし残念ながらそれほどメルヘンな思考に耽る趣味も暇もない。プロシュートを現実に引き戻したのは、すぐ背後で起きた振動だった。

『ハン……何かと思えば、クソガキか』

 耳が聞こえていたとしたら、さぞかし派手な音がしていたことだろう。振り返ったプロシュートの視界に飛び込んできたのは、今の転倒でいくつか骨を駄目にしていそうなしなびた老人。頭に血が上って動き回ったせいか、はたまたもとから老けやすい体質だったのか、自らの父親すらもはるかに通り越してしまったと見える、エドモンドの変わり果てた姿だった。彼は床に転がったまま、いくつか歯の抜けた口をもごもごと動かす。感心なことにそんな姿になってもなお、エドモンドの瞳はぎらぎらと光ってプロシュートを睨みつけていた。

『……ぶっ殺す、ぶっ殺してやる』

 口の動きはわかりにくかったけれど、目は口ほどに物を言う。それに実際、エドモンドは見かけほど脳までボケ始めていないようだった。注意深く観察していると、罵詈雑言の合間に『ピエロ』という不思議な単語が読みとれる。発したのがそれだけならば妄言として聞き流したが、『敵』『護衛のくせに』という恨み言の合間に挟まれたそれは役に立ちそうな情報だった。

『うちにもトンチキな恰好をした野郎はいくらでもいるが……ピエロは本体なのか、見えるタイプのスタンドなのか微妙なところだな』

 エドモンドには今この場にいるザ・グレイトフル・デッドが見えていないようなので、前者のほうが可能性としては高そうなのだが、ピエロなんていう人に見られる・・・・・・ことが前提のものをモチーフとしたスタンドなら一般人に視認できたとしても不思議はない。いや、むしろ姿を見せることがさらなる能力の発動に結びついている可能性だってある。
 プロシュートはしばし思案したが、結局ピエロが罠であろうとなんであろうと見つけないことには始まりそうになかった。ひとまずエドモンドについては父親と同じくクローゼットに放り込むこととする。この分ではおそらく助からないだろうし、微塵も助けてやる気が起きないが、うろちょろ這いずり回られても迷惑でしかないからだ。プロシュートはしがみついてくるエドモンドを引きはがして押し込めて、ようやくグリマルディの私室を後にする。そのとき、どこまでも静謐だった世界にかすかなさざ波が起きた。

――なぁ、ミスター・タンブリンマン、1曲聴かせてくれよ

 それは囁き程度の小さな呼びかけに聞こえたが、声の調子にははっきりとした音程がある。男の声――いや、歌は階下からしていた。階段から見える範囲の廊下にはいないので、奥の居間や食堂サローネのほうだろう。
 プロシュートは慌てずに、ゆっくりと階段を降りた。相変わらず自分の足音、階段の軋む音、ザ・グレイトフル・デッドが這う音、どれひとつ聞こえはしないけれど、男の歌に対してだけは耳も真面目に仕事をしている。
 居間に足を踏み入れると、床には萎びた老婆が転がっていた。プロシュートは室内を一瞥するとグリマルディ夫人には目もくれず、奥の食堂サローネへと進む。

――お前のタンバリンに合わせて跳ねまわるリズムの
 かすかな足跡が聴こえたら
 それはボロをまとったピエロの仕業さ

 敵――おそらく本体の男は、まったく逃げる素振りも見せずに食堂サローネの椅子に片膝を立てて座っていた。見た目は五十代後半の中年を思わせたが、服装は若いのでザ・グレイトフル・デッドの影響を受けているのだろう。プロシュートと対峙してもなお、男は気にする素振りもなく歌い続けていた。それは不敵な態度というより無邪気な感じが強く、認知症の初期症状のように見えた。

『悪いな、この家を先に支配下に置いたのは俺らしい』

 スタンドのピエロは見当たらなかったが、本体さえ殺ってしまえば関係ない。プロシュートは直ざわりで早々に決着をつけようと、ザ・グレイトフル・デッドの腕を伸ばした。だが、死の手が男に触れるよりも早く、シャンシャンという鈴の音がプロシュートのすぐ頭の真後ろから響いた。

――気にすることはない
  それはただの影、お前はヤツが追ってくるのを見ているだけさ

 間一髪で身をよじり、プロシュートは背後から迫ってきた敵の攻撃をかわした。けれどもかわした後に咄嗟に振り返ったことで、その敵の姿をばっちりと視界に収めてしまう。

 艶々とした赤い鼻と、対照的に真っ青な唇。目の位置にはぽっかりと空洞が広がっているせいで、仮面の笑みは一層無機質な冷たさを帯びている。優に二メートルを超すであろうその化け物の姿は誰がどう見てもピエロだったが、残念ながらプロシュートはそれ以上敵のスタンドを観察することは叶わなかった。まるでテレビの電源を落としたみたいに、ブツンと視界が暗転したのだ。

(聴覚の次は、視覚だってのか……)

――なぁ、ミスター・タンブリンマン、1曲聴かせてくれよ
 まだ眠くないし、行く場所もないんだ

 男の歌はまだ続いている。そこにまるで跳ねるような調子で、ピエロの靴底が上機嫌に床を叩く音が加わった。
 

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スタンド能力【ミスター・タンブリンマン】
破壊力:E スピード:A 射程距離:B 持続力:-A 精密動作性:E 成長性:E

 外観はピエロのようなスタンド。ピエロの持つタンバリンの鈴の音を聞かせることで時間経過とともに効果範囲内にいる生物の五感(聴覚→視覚→触覚→味覚→嗅覚の順)を奪うが、正確には感覚そのものを奪っているのではなく、認識した各五感の『記憶』を奪っている。効果範囲内にいても鈴の音自体を遮断することでスタンド効果を回避できるが、真っ先に失われるのが聴覚であるため、なかなか自身が攻撃下にあることに気づくのは難しい。また、聴覚を奪われた後はスタンド使い以外もピエロを視認することができるようになり、ピエロを真正面から見てしまった場合、時間経過に関わらず視覚も奪われることとなる。


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