- ナノ -

■ 23.金曜日の受難は乗り越えるF

 日中と朝晩の寒暖差はあるものの、六月のトリエステの気候は比較的過ごしやすいものだった。朝の一番冷える頃でも気温は十八度。日中には二十六度にもなるのだから、カエルやトカゲといった変温動物も活動し始めている。昆虫である蝶であれば、もっと低い十五度あたりから活動し始める。そういうわけで今、トリエステのリメンブランツァ公園で蝶が数匹舞っている光景はそうおかしなものではなかった。
 蝶の種類はイカルスヒメシジミ。ヨーロッパ全土や北アメリカ、温帯のアジアにも広く分布する小型の蝶で、明るい青紫色の羽をしているのはオスの個体だ。こちらもとりたてて珍しいものではない。ただひとつだけ奇妙なのは、蝶が羽を休めているその位置だった。付近に花が咲いていないから仕方なく、というにはあまりにも不自然――。イカルスヒメシジミは、公園のベンチに腰掛ける男に止まっていた。それも男の閉じた右瞼の上と左耳に一匹ずつ、しばらくここから動く気はないというように羽を閉じて止まっている。

 男の名はジッロと言った。今、彼の視界には、ここから少し離れたとある別荘の光景が映っている。ときどき送られてくる映像がぶれるのは、偵察に行った蝶がまだ飛行中だからだろう。蝶の複眼から送られてくる視界は人間の目には捉えられないような素早い動きでも、ストップモーションのように詳細に視ることができる。代わりに色彩はめちゃくちゃだった。紫外線や赤外線も見える蝶の目は、人間とはかなり色の見え方が異なる。新進気鋭の、ちょっと頭のイカれた芸術家が色をつけたような世界で、ジッロはターゲットの屋敷を探索していた。と言っても、ジッロの索敵が作戦の主な部分を担っているのではなく、実際は先に向かった仲間の連絡を待つ間の暇つぶし目的だった。

「嵐の前の静けさってやつだな」

 向こうだって、追っ手が差し向けられていることくらいわかっているはずなのだ。それなのに屋敷の周辺に警戒した黒服が詰めている様子もなく、表向きはただの金持ちがバカンスに来たようにも見える。一応、玄関にはセンサー付きカメラがあり、窓にも格子状のシャッターがつけられているが、それだって滅多に来ない別荘の防犯対策としては特別やりすぎというほどでもない。天気も良く、辺りは静かで、蝶が飛びたくなるのもわかるような長閑さだった。住人たちも意外とのんびり、最期の時を過ごしているのかもしれない。蝶はひらひらと舞い、二階の窓べりに止まった。どうやら中に人間がいる。二人だ。換気のためかほんの数センチ、観音開きの窓の中央が開いていた。

『あいつはどこだ』
『さぁ、また海にでも行ったんじゃないのか?』

 蝶はセミやコオロギのように音でコミュニケーションをとる虫ではないが、それでも聴力は有している。前翅ぜんしと呼ばれる胸部の第一節から生える羽を利用して音を聞き取っており、種類にもよるが、数メートル先にいる鳥の僅かな羽音さえも察知すると言う。ジッロの耳に伝えられたのは、蝶が聞いた人間の声だ。もちろん、本物の蝶には人間の言葉などわかるはずもないだろうし、蝶の形をしたこのスタンド――ギミー・シェルターが聞き取った音を理解するほど高度な知能を持っているかは、本体のジッロですら定かではなかったけれど。

『海か……どうだろうな、釣竿は折ってやったから』

 室内にいるのは、ターゲットの息子たちのようだった。父親の後をしっかり継いで、ファミリーの仕事にも噛んでいたから顔と名前は知っている。蝶の視界は相変わらず騒々しかったが、二人の兄弟を見分けるのは難しくなかった。いかにもキレやすそうな今時の若者を体現したのがエドモンド、それから機械みたいに表情のないのがガヴィーノ。兄弟二人揃ってはいるものの、どうにも和やかな雰囲気とは程遠かった。

『じゃあ、それこそショックで海に身投げしてしまったかもね』
『あいつに死ぬ度胸があるもんか』
『もちろん冗談だよ。でも、今は魚野郎ペッシのことなんかより、考えるべきことがあるはずだ』

 冗談だよ、と言った割には、ガヴィーノの表情はちっとも動いていなかった。真剣、というのもなんとなく違う。その顔はどこか他人事のような雰囲気を漂わせていて、ガキの割には気味が悪いほど冷静な奴だと思った。大の大人であっても、命が狙われているとなれば普通は怯えたり気が立ったりするものだ。

『護衛の二人はやっぱり不思議な力が使える。魚野郎ペッシが言っていたんだ、何もないのに爆弾が急に凍ったと』
『……だから、なんなんだよ』
『うちにだってそういう奴らがいたろ? ボスの側近の――』

 やはり、<パッショーネ>からスタンド使いを護衛に呼んだのか。
 ジッロがそう思ったのとほぼ同時に、視界がぶれてドンッと物のぶつかる音がする。なんだ? 蝶が再び窓に止まりなおした時、エドモンドはガヴィーノの胸倉を掴んで壁に押し付けていた。
 なんなんだ、今、キレる要素なんてあったか?

『だから、なんなんだってテメェはよ!? 相手は能力持ちだから、大人しくしてろって俺に指図するつもりか? ああ?』
 
 冷静すぎるのも気味が悪いが、些細なことでキレるのもいただけない。この業界にいると温厚な奴のほうが少ないが、ジッロはすぐに怒りをあらわにするような人間を軽蔑していた。舐められないために怒ったフリをするのならまだいい。だが、今のエドモンドはどこからどう見ても余裕がなさそうだった。対して、ガヴィーノのほうはすぐにでも殴られそうな状況なのに、変わらず涼しい顔をしていた。
 
『まさか。僕が兄さんに指図するわけないだろう?』
『……』
『昔から兄さんがやることを、僕は一度だって止めたりしていない。だろ?』

 それは殴られないためのご機嫌伺いというより、どこか突き放すような言葉だった。至近距離で睨みあったのち、ややあってエドモンドの手がゆっくりと離される。

『……チッ、お前ってやつはマジに気色悪いぜ。何考えてるか、ちっとも読めやしない。そうやって従順にはしているが、本当は俺のことを欠片も怖いと思っちゃいないんだ』
『酷い言われようだな、僕はこんなにも皆と上手くやろうとしているっていうのに』
『いざとなったら<サルヴァトーレ>も親父もアッサリ切るだろう、お前みたいなやつは。かといって、<パッショーネ>に与するわけでもない。タチが悪ィんだよ』

 ガヴィーノは乱れた胸元を軽く整えると、兄の上着をすっと指さした。

『だったら今のうちにここで僕を殺しておくかい? 銃は持ってるんだろう?』

 エドモンドから見て、左の内ポケット。確かにエドモンドが動いても、上着の左裾はたるまず、振り子のような動きを見せる。

『弟は撃てないとでも?』

 ガヴィーノの言い出したことに虚を突かれた表情になっていたエドモンドも、負けじと銃口を真っすぐ弟に向けた。
 おいおい、兄弟ってのは仲良くするもんだぞ。
 そんな誰よりも平和な感想を抱きつつ、ジッロは少しこの展開にワクワクしていた。本当はこんなクソくだらない兄弟喧嘩を見守っているより“スタンド使いらしい護衛の二人”を探しに行くべきなのだが、そっちの仕上げは今、じわじわと進行中ってところだろう。そもそもジッロの当初の目的は暇つぶしなので、これくらいの余興で十分だ。

『いいや、爆殺しようとするくらいだ。できるだろうね。二年も前に教えたサイトのことを、兄さんが覚えていたなんてびっくりしたよ』
『やけにその件に突っかかるな。そんなに魚野郎ペッシを巻き添えにしようとしたことが気に入らなかったのか?』
『あぁ』

 あっさりと頷かれて、引き金にかけられたエドモンドの指に力がこもる。

『……今更、可哀想になったって? ずっと助けてやらなかったお前が?』
『違う。気に入らないのは僕の平穏を脅かしたからだよ』
『……どういう意味だ?』

 エドモンドはあからさまに怪訝な顔になった。もちろん、ジッロにも彼らの話していることはわからなかった。文脈からペッシ、と呼ばれる人物がもう一人いて、エドモンドがペッシを殺そうとした件でガヴィーノが腹を立てている、というのはわかる。
 ペッシ、ペッシね……。はて、そんな奴いただろうか?
 ジッロはこれでもボスの側近だ。三次受け、四次受けのような使い走りのチンピラまでは流石に覚えてはいないが、ファミリーの人間ならばだいたいは知っている。それもあの酷薄そうなガヴィーノが、傷つけられて腹を立てるほどの存在だ。女の名前でもない。というか、人につける名前でもない。ペットか何か飼っていたのだろうか。いや、話では護衛が氷を使うのを見たのはそいつらしい。犬や猫や呼び名通りの魚が、主人に向かって告げ口するはずもないのだから、人であることは間違いないのだろう。

『僕が何もしないで見ていられるのは、兄さんが僕の代わりにやってみたいことをやってくれるからで、おまけに魚野郎ペッシが大人しく耐えているからだ。だから僕は二人にいなくなって欲しくないし、僕抜きで勝手なこともしないで欲しい』
『は……?』
『僕は傍観者でいたいんだよ。これでも二人には感謝してるんだ。他人に変わってほしいと思うのが傲慢なら、変わらないでいてくれと思うのも同じか? とにかく、僕には兄さんっていう異常性の隠れ蓑と、魚野郎ペッシっていうお手本としての平凡さが必要なんだ。二人がいるから他人とのちょうどいいバランスを学ぶことができる」
『お前……マジにイカレてんだな』

 銃を持ったエドモンドが後ずさりして、丸腰のガヴィーノが距離を詰めていく光景はなかなか異様なものだった。途中から思考を巡らせるのをやめて、ジッロは固唾を呑んで見守る。

『それ以上寄るな、本当に撃つ』
『イカレ野郎は全員殺すって? たまたま生まれつき何かが欠けているだけで、ほとんどの奴は兄さんよりもずっと真っ当に暮らしているんだよ』
『ごちゃごちゃうるせえ、マジで撃つ。俺は撃つ。弟だって撃つ』

 背中が壁にあたり、それ以上退がれなくなったエドモンドはとうとう覚悟を決めたみたいだった。安定した構え方からして、銃を使うのが初めてというわけでもないのだろう。
 いいぞ。撃てよ、撃てったら。
 ジッロがそう願った通り、次の瞬間、乾いた一発の銃声が室内に響いた。間髪入れずに薬莢の金属音も聞こえたが、ガヴィーノが倒れる音だけは続かなかった。

「おいおい、その距離で外すかフツー?! どんだけ下手くそなんだよッ!」

 公園にいたジッロは思わず、声に出して文句を言った。ここ一番のシュートを外したサッカー選手を詰るときのように、やり場のないイライラを自分の太ももを殴りつけることで発散する。これではエドモンドもさぞや赤っ恥だろう。動いたせいで少し位置のずれた蝶を瞼の上に戻し、せめて奴の面でも拝んでやろうと視界をリンクさせて、ジッロはようやく向こう二人の様子がおかしいことに気が付いた。特にエドモンドは盛大に外したのに、腹を立てる素振りでもない。恥ずかしがる様子でもない。ただただ困惑の色をその表情に浮かべていた。

『なんでだ……? 確かに俺は今、撃ったよな……?』

 そうだよ、おめーは確かに撃ったさ。だけど、撃てば当たるってもんじゃない。特におめーみたいなド下手くそは、目の前にいる相手だって綺麗に外しちまうらしいな。

『俺は確かに撃った。硝煙の匂いもする、壁にだって穴が開いてるのが見える。でも、銃声は聞こえなかった……なぁ、ガヴィ、お前は聞こえたか?』
『兄さん? 口を動かして……もしかして何か喋っているの?』
『さっき、お前を撃とうとした瞬間、廊下のほうにちらっと見えたんだ』
『何?』

 エドモンドが指をさしたので、ガヴィーノはその方向を視線で追ったようだったが、会話が通じているわけではないらしい。その証拠にガヴィーノはどこを見ていいのかわからず、すぐに兄の方へ向き直る。

『なに? 何が言いたいの兄さん?』
『俺は見たんだ、ボロをまとったピエロみてぇなのが……そいつが廊下を歩いていた。それで俺はぎょっとして……おい、退けよ」

 エドモンドは警戒した様子で銃を構え直し、そろりそろりと部屋の入り口付近に歩を進める。
 あー、ボロをまとったピエロか。そいつはウーゴのスタンドだ。まったくいいところで邪魔しやがって。もうスタンド使い以外にも見えるようになっているのか。
 ジッロは仲間が首尾よく事を進めているにも関わらず、意味が分かるとがっかりした。何も知らぬは向こうばかり。エドモンドは廊下を確認して誰もいないのを確かめると、今度は天井に向かって思い切りぶっ放した。

『やっぱりだ、音が聞こえねぇ! どうなってやがる!?』

 銃を撃っても、どれだけ喚いても、今更誰も気づきやしないだろう。
 エドモンドたちは突然自分の身に起こった異変に動揺し、一匹の蝶がそのまま室内にひらひらと飛んで入ったことにまで気が回らなかった。小型の青い蝶はそのまま、美味しい蜜に群がるかのようにエドモンドが撃った壁の弾痕を一直線に目指す。

「小さな蝶が羽ばたくと、地球の裏側で竜巻が起こるらしい」

 ジッロは軽く頭を振って自分に止まっていた蝶を追い払うと、立ち上がってインサイドホルスターから愛用の拳銃を取り出した。そして長閑な公園で人目を憚ることもなく、近くにあった適当な木に狙いを定める。本当は先に忍び込んだウーゴがターゲットやその他の敵の聴覚を奪い、屋敷のあちこちに弾痕を残してくれる予定だったが、ここまで準備が整ったのならもう動き出して良いだろう。

「バタフライ効果ってやつだ。何かちょっとした事象や些細な違いが、後になって大きな結果や差を生むんだとか。でも、そんなの遠回り過ぎてわかるわけねーよな。それに比べて銃ってのは、単純な結果しか起こさない」

 ジッロは躊躇いなく公園の木を撃った。着弾した部分を中心に同心円状に木の幹が抉れ、深いひびが広がる。銃で傷つけられた穴が開くと、ふよふよと辺りを舞っていたイカルスヒメシジミはすぐにまだ熱いであろうそこへ群がった。これで繋がる。屋敷は地球の裏側ほどは遠くない。

「待ってろよガキども」

 穏やかだった公園には、いつしか強い風が吹き荒れていた。ただ風は横から吹き付けるのでも、上から吹きおろすのでもなく、木の幹に開いた穴を中心に強く吸い込む力を持っている。ジッロは導かれるようにその中心に向かって足を進めた。

「きっかけはほんの一発で十分なんだ。銃の一発で戦争ってのは起きる」

 もしこの場に他の者がいたら、魔法のように目の前で人が消えてしまったと証言したことだろう。ジッロのスタンドは索敵が主な能力ではない。そいつは条件を整えるためのおまけみたいなものだ。その証拠に彼の身体は直径一センチにも満たない風穴に吸い込まれて、影も形も残さなかった。

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