- ナノ -

■ 19.金曜日の受難は乗り越えるB

 ペッシの背が伸びれば、兄たちの背も伸びる。
 ペッシの体格がしっかりすれば、兄たちもまた大人の身体つきに変わっていく。
 時というものは、誰にでも平等に流れるのだ。だから差は永遠に縮まらないし、ペッシが兄たちを上回ることなどない。
 もちろん、兄弟でも成長に個人差はあるし、人間の身体は無限に成長するわけでもない。体格は無理でも力であれば、ある程度努力で補うこともできただろう。
 が、ペッシが代わる・・・ことを決意したあの日から数年は経っていたけれども、ペッシと兄たちの関係性は変わっていなかった。

 いじめというにはあまりに悪辣すぎるそれは、学校でも家でも、エドモンドの気分次第でいとも容易く行われる。そのせいでペッシの身体ではなく心が、自分は兄には決して勝てないのだと思い込んでいたのだのだろう。
 エドモンドは学校でも幅を利かせていたし、血の繋がった兄が率先していじめるのだから、ペッシを守ってくれる存在などいなかった。友達の一人すら満足にできない。下手にペッシと仲良くしようものなら、今度はその者が標的になる。

 だが、ペッシは自分で代わる・・・と決めたことだから、級友たちに対して恨みの気持ちを持つことはなかった。庇ってくれなくていい。助けてくれなくていい。その思いにひとかけらの諦観も混じっていなかったことがペッシの凄さであったが、周囲から見たペッシはドジで、のろまで、弱いママっ子マンモーニでしかなかった。
 だからこれから先もずっと、自分の人生はこのままだと思っていた。ペッシはこのまま誰かに立ち向かうことなんて考えるはずもない、代わり映えのしない、人生を歩むはずだった――。


「……しばらくトリエステの別宅に身を隠すことになった。悪いが、お前たちにもついてきてもらうぞ」

 ある日のこと。神妙な顔をした父親が、夕食も終わろうかという頃合に突然そんなことを言いだした。

「えっ、でも……」

 思わず学校は、と言いかけて、ペッシは慌てて口を噤んだ。身を隠すと言っているのだから旅行に行くのとは訳が違うのだ。いくら期待されず放っておかれているペッシでも、自分の父親がギャングの、それなりに偉い人間だということくらいは知っている。何か良くないことが起きているのだと嫌でもわかった。ペッシの他には誰も驚いた顔をしなかったので、義母も兄たちもとっくに状況を知っているようだった。

「すぐに出発する?」
「今夜、遅くにな。大事な物だけ持って出ろ。後は向こうで揃えればいい」
「わかった」

 ガヴィーノはそれだけ尋ねると、後は黙々と皿の上の料理を片付け始める。元々、会話の多い家庭ではなかった。皆が食事を続けているのを見て、ペッシもようやく手を動かし始めた。不安のせいで味などろくにわからなかったが、残せば義母は機嫌を悪くするだろう。
 やがて、ひとり、ふたりと食べ終わった者から席を立ち、ペッシも慌てて後に続いた。いつもは綺麗好きの義母が皿を流しにすら持っていかなかったので、本当にこのままこの家を立ち去るのだという実感が沸く。

 夜逃げだ。夜逃げをしなければならないようなことが、我が家に起きているのだ。
 ペッシはとりあえず二階の自室に戻って、部屋の中をぐるりと見回した。ぼろぼろの教科書が積まれた勉強机。しわくちゃのシーツが敷かれたベッド。年季の入ったクローゼットには、お下がりの衣類がたくさん詰め込まれている。
 どれを見ても、わざわざ持っていくだけの価値があるものとは思えなかった。大事なものはここにはない。

 ペッシは一通り室内のものを眺め、それから一階に降りて階段下の物置部屋に向かった。幅は狭いが奥行は結構あるため、使わなくなった様々な物が放り込まれている場所だ。ペッシ自身も、よくここに閉じ込められた。わざと母親のような口調でからかい、マンモーニを折檻するというのはエドモンドのお気に入りの遊びで、ペッシにとっても痛みを伴わないぶん、まだマシな部類のいじめられ方だった。

「おい、こんなとこでなにやってんだよ」

 つい、扉を開け放したままにしていたからだろう。振り返ると廊下にエドモンドが立っていて、物置部屋にいるペッシを見下した目で見ていた。

「いや、その、えっと……」
「親父の話、聞いてたのか? てか、状況わかってんのかよ」

 ゆっくりと近づいてきたエドモンドに、ペッシは思わず後ずさる。癖のようになっているのだ。またいつものようにぶたれるのかと身構えたけれども、対面した兄は意外にも呆れ返った表情になっただけだった。

「……お前さ、まさかそれ持って行こうってのか?」

 ペッシの手に握られていたもの。それは、持ち手の部分がとうに色あせてしまっている、古いぼろぼろの釣竿だった。祖父の遺品だというそれは、以前にペッシが物置部屋に閉じ込められた際に掘り出した品で、友達のいないペッシにとっては唯一の娯楽といえるもの。

「馬鹿じゃねぇのか?  こんなときに」
「え、えっと、これは」
「ふざけやがって! 遊びに行くんじゃあねぇんだぞ!?」

 ペッシがぼろぼろの竿で釣りを楽しんでいるというのは、もちろんエドモンドも、他の家族も知っていることであった。当然、過去にはひとり遊びすら気に入らないと、壊されそうになったことだってある。
 しかしそのときは祖父の遺品ということもあって、珍しく父親がエドモンドを諌めたのだ。釣竿の見た目があまりにみすぼらしかったのも、兄の怒りを収めるのに一役買ったのかもしれない。惨めったらしい弟がぼろぼろの釣竿を持って、一人寂しく糸を垂らしているさまはそれなりに面白い眺めだったのだろう。
 だから、釣竿はペッシの宝物であった。兄からすればふざけているようにしか見えなくても、ペッシは大真面目にこの釣竿を持ち出したいと思ったのだった。

「貸せよッ!」
「ゆ、許してくれよう!」

 物置部屋に閉じ込められて、いつ出して貰えるかもわからず心細い時、この釣竿を握っていると不思議と落ち着くことができた。これだけは奪われない、壊されないのだという安心は、糸を垂らしている間の緩やかな時間の流れを思い出させた。
 ペッシは釣竿を取り上げられないよう背中に隠す。そのささやかな抵抗が、余計にエドモンドの怒りに火をつけた。

「ふざけんな! やっぱこんなもん、へし折ってやる!」

 ぎらり、とエドモンドが凶暴な光をその目にたたえたとき、

「エドモンド、何を騒いでいる」

 いつの間にかやって来ていたらしい父親が、静かな声で割って入った。

「……別に。こいつがあんまりにも呑気にしてやがるから、喝を入れてやろうと思っただけだよ」

 答えたエドモンドの声音には、一切の後ろめたさがなかった。自分が弟を虐げるのは、さも当然ということなのだろう。いや、この兄ならば虐げているという自覚すらないかもしれない。

「こいつ、今日の出発に釣竿なんて持っていく気だったんだぜ」

 ただ実際、今回ばかりはペッシのほうが後ろめたさを覚える立場だった。普段の兄は確かに横暴だけれど、客観的には夜逃げに釣竿を持ち出そうとするほうがどうかしている。本職の漁師だって、もっとマシな物を持っていくに違いなかった。

「あ、あの……父さん……」

 ペッシは流石に叱られると思って身をすくめた。そうなれば今度こそ、兄は嬉々としてこの釣竿を壊すだろう。

「……構わん。お前にそれが必要なら、好きにしろ」

 が、返ってきた意外な返事に、ぱちぱちと瞬きをすることになった。

「え……あ、はい!」
「親父!」
「今はくだらん喧嘩をしている場合ではない」

 期待されていなかったのが功を奏したのかもしれない。父にしてみればペッシが火急の際に何を持ち出そうがどうでもいいのだろう。兄たちとは違って、ペッシは父親の仕事の手伝いなどもしたことがない。何があって、誰に狙われているのかも知らない。「チッ、親父はいつもお前に甘いんだ……」エドモンドは納得いかなさそうに呟いたけれど、それ以上ペッシに突っかかるようなことは無かった。

 そしてその夜。ペッシ達一家は感傷に浸る間もなく、長年住み慣れた家を去った。


▼△


――……なんで、俺をあのとき殺さなかった?

 命の灯火が尽きかけている。
 自分が今まさにそういう状態にあるとわかっていながら、プロシュートはひどく落ち着いていた。誰がどう聞いても十四年というのは短い人生だろうが、なんとなくこうなるような気もしていた。
 寒気のやまない身体。じめじめとしてかび臭いベッド。室内が薄暗いのは自分の目がおかしいのか、そういう場所なのかも判別がつかなかった。
 まともに認識できるのは、すぐそばにある親の仇の顔くらい。だがそれを目の前にしても、もはや起き上がるだけの力が湧いてこなかった。

――殺そうと思わなかったからだな

 初老の男が、ベッドの脇に立ってこちらを見下ろしていた。男の回答はひどく簡潔だったが、今現在プロシュートが死にかけているのもこの男の仕業なので馬鹿馬鹿しいというほかない。一応手当などはされているものの、ひどい失血のせいであまり意味はないだろう。身体を動かせず治療は拒めなかったが、水も食事も全部拒んでいた。

――だから、なんでだよ……

 瀕死の自分をこの男が抱え上げたとき、プロシュートは拷問されることを覚悟した。ギャングだった父親が死んだ今、プロシュートに交渉材料としての価値はなかったが、それでも楽しみのために人間を甚振るクズは存在する。これまで女みたいな面だと散々馬鹿にされてきたこともあって、思わず最悪の想像すらしてしまったほどだ。
 しかし、蓋を開けてみれば、男はプロシュートを手当てし、介抱しようとしている。ほとんど徒労に終わるに違いないのに、何がしたいのかわからなかった。

――お前、まだ十五にもなっていないだろう。俺はガキは殺さねぇ
――……はっ、今時そういうのは、流行らねーんだぜ、ジジイ……
――俺にも、お前くらいのガキがいたんだ

 男の言葉を、プロシュートは鼻で笑った。あまりに月並みすぎる理由だし、男の風貌からして何十年も前の話に決まっている。だいたい、それならまずここまで撃つなよという話だ。正確に数える余裕はなかったが、頭以外の箇所にはもれなく鉛玉をぶち込まれている。

――……くだらねぇ、聞いて損した
――仕方ないだろう、目が似てたんだ。どんな犠牲を払おうが、絶対に目的を達成するっていうその目がよ

 プロシュートはとんだ皮肉だな、と思いながらゆっくりと目を閉じた。今の自分にはそこまでの気概はなく、忍び寄る死を受け入れ始めている。見込み違いだ。
 男のほうもプロシュートの考えていることがわかったのか、焦ったように水の入ったペットボトルの口を近づけた。

――なぁ、それがお前の抵抗か? 食わなきゃ治るもんも治らねぇぞ
――別に……腹を空かした方が、飯は美味いだろ……
――そうやって、死ぬつもりか? せっかく助けたんだ、ふざけるな!

 ふざけているのはそっちだろう。プロシュートは助けてくれだなんて一言も言っていない。どこまで自分勝手な奴なんだと思わず呆れてしまった。
 だいたい、男が我が子の面影をプロシュートに重ねているのなら、ここで死んでやるのも十分意趣返しになる。こいつの心に絶望を残してくたばれるのなら、プロシュートは喜んで死ねる。
 一瞬、本気でそう思った。が、

――クソが、父親の仇をとるんじゃあなかったのか、この根性なし! 腹いせに死んでやるだなんて、ゲス野郎のやり方だぞ! 見損なったッ、てめーなんか死んじまえッ! 

 男の無茶苦茶な言い草に、素直に腹が立った。
 その仇はオメーじゃねぇかよ。好き勝手言いやがって……。
 殺してやる。そのためには、プロシュートはこんなところでは死ねない。

――目を開けろよ、起きろ、起きろってッ!



「いい加減にィ、起きろっつてんだろッ!」
「なッ……!」

 耳元で大声を出されて、思わずのけぞったプロシュートは助手席の窓に強かに頭を打ち付けた。どうやら知らぬ間に眠ってしまい、随分と懐かしい夢を見ていたようだ。

「……なんだ、オメーかよ」

 今にも噛みついてきそうな勢いでこちらに身を乗り出しているギアッチョを手で押しのけ、プロシュートは首を回す。変な体勢で寝たせいか、上半身が強張っていた。

「オレ以外に誰がいるってんだよ、クソ! 違う奴に起こされてるような状況じゃ、テメーはとっくにあの世生きだろうが!」
「わかったわかった、寝起きにギャンギャン吠えんじゃあねぇ」

 プロシュートは指で耳を塞ぎながら、辺りの様子を伺った。外はまだ暗かったが、奥に見える戸建て住宅ヴィラがグリマルディの別荘ということなのだろう。市街地から離れた海の近くだと聞いている。いくら落ち目の組織と言えど、流石に幹部ともなれば羽振りがいいわけだ。

「ったくよォ〜〜、人に運転させておいて、自分は呑気に寝こけるなんてどうかしてんじゃあねーのかァ?」
「うるせぇ。ンな心の狭いこと言ってっと女にモテねーぞ」
「女には言わねーよッ! オメーはジジイだろうが!」

 座りっぱなしは腰に来る。
 車外に出たプロシュートは伸びをして、とりあえず待機だな、と呟いた。

「奴のほうはまだ到着してねぇようだ」
「じゃ、追っ手が先回りしてねーか調べとくかァ?」
「飯を食った後でな。それより腹が減った」
「自由だなァ、オイ!」

 こうなることを見越して、高速に乗る前に食料品店アリメンターリに寄ってパニーニを買ってきている。その際、ペットボトルのミネラルウォーターも一緒に買っておけば、ギアッチョが保冷剤に変えてくれるので腐る心配もない。
 後部座席から包みを取り出したプロシュートは、ギアッチョの分を押し付けた後、そのまま助手席には戻らずに車のボンネットに腰を下ろした。南イタリアより気温はぐっと冷えるものの、この程度ならば肌に心地いい夜風だ。

 結局、不機嫌そうな顔をしていたギアッチョも、外で食べることにしたらしい。大口を開けて豪快にパニーニにかぶりつくさまは、やはりまだどことなくガキ臭かった。

「オイオイオイ、ギアッチョよォ〜〜こりゃ冷やしすぎだろ。こういうパンってのはカリッとしてなきゃあいけねぇ」
「だぁーーっ、文句が多いんだよ、テメーはァ! 生もの挟んだテメーのせいだろうが! だいたい腹減ってりゃなんでも美味ぇだろ!」
「さては空腹が最高の調味料だって思ってるクチか?」

 腹が減っているときの食事は、確かに体中に栄養が行きわたる感じがする。なのでまぁ一理はあるけれど、プロシュートはそれを“最高”とは位置づけない。

「まぁ、いい。食ったら寝ろ。今度は俺が起きててやる」
「ん」

 ギアッチョはもぐもぐと咀嚼するのに忙しいらしい。珍しく何の反論も返ってこなかったので、プロシュートは今度からこいつを黙らせるには飯だな、と覚えた。

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