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■ 18.金曜日の受難は乗り越えるA

――彼らは理由なしにわたしを憎んだ。
      【ヨハネの福音書15章25節より抜粋】


 残念ながら、この世にはいじめられやすい・・・人間というものが存在する。だから、そうした人々の共通点を探し、足りないところをあげつらって、彼ら自身の責任にしてしまうのは容易いことだろう。
 しかしながら人間は二人いれば争いが起き、三人集まれば派閥ができると言われるほどだ。ただ少数派になってしまったということが、はたして本当に彼ら自身の落ち度だと言えるのだろうか。


「エド兄ちゃん! も、もうやめようよ!」 

 人気ひとけのない高架下。震えてうずくまる同級生と、それを見下ろしている兄の背中。ペッシは震える足を叱咤して、今更のように兄に向って制止の言葉を投げかける。一番上の兄――エドモンドの手には廃材とおぼしき糸杉の木が握られており、可哀想な被害者は、既に散々打ち据えられた後だった。

「あんまりだよ……」

 本当はもっと早く止めるべきだったが、怖くてなかなか言い出せなかった。昔からこの兄は残虐な性質を覗かせることがあったし、末弟のペッシはよく泣かされたものだったが、まさかここまでやるなんて。
 中学校スクオーラ・メディアに進んで、子供だけで登下校ができるようになると、エドモンドは大人の目を盗んで年々酷い振る舞いを加速させていた。

「ガヴィ兄ちゃんからも言ってくれよ、こんなの……こんなの酷いよ」

 ペッシは隣で同じように突っ立っているだけの、二番目の兄――ガヴィーノに向かって助けを求めた。この兄には、一番上の兄のような暴力性はない。勉強だってよくできるし、教師や大人たちからの覚えもめでたかった。その代わり、「一体、何を言えって言うんだい?」彼は自分の不利益にならない限り、他人に対して冷酷なまでの無関心さを示す少年でもあった。

「僕がエド兄さんに何かを言ったところで、あまり意味があるとは思えないな」
「だ、だからって……」
「だいたい、他人に自分の思うように変わってもらおうなんて図々しいのさ。変えられるのは自分だけだし、こうしたいっていう望みがある奴がその努力をすればいい。例えば、お前がエド兄さんを従わせられるくらい、強くなるとかね」

 ガヴィーノはそう言って、冷ややかな視線をペッシに寄こした。もちろん、彼はペッシにそんな腕っぷしも気概もないことがわかって言っている。
 振り返ったエドモンドはガヴィーノとペッシを見比べると、ふっ、と馬鹿にするように片方の口角をあげた。

「へぇ、兄弟の中でもみそっかすのお前が俺とやろうっての?」
「あ……いや……」
「わからせてほしいってんならいいぜ。大人にチクるのも自由だ。ただ、お前の・・・母親はもう死んだから、そうなるとママっ子マンモーニはどこへ泣きつくんだろうなぁ?」

 ぺしり、ぺしり、と威圧するように自分の手のひらに廃材を叩きつけながら、彼はこちらに向かって近づいてくる。エドモンドとガヴィーノとは母親違いの兄弟だったため、ほとんど歳の開きがあるわけではなかったが、ペッシはどう頑張っても目の前の兄に勝てる気がしなかった。

「勘違いするなよ、俺がお前を泣かすのはお前が妾腹だからじゃあないぞ。お前がドジで、のろまで、弱いからだ。そんなやつ誰だっていじめる、俺だってそうする」
「ヒッ……!」

 ぶん、とすぐ目の間で棒を振りかぶられて、ペッシはそれだけで尻餅をついてしまった。腰が抜けてしまって、立ち上がれない。エドモンドは無様なペッシを見てげらげらと声をあげて笑い、ガヴィーノといえば虫を見るかのような眼差しでこちらを見ていただけだった。

「だけど、ガヴィーノは良いことを言ったよな。何か望みがあるなら、自分自身が変わるべきなんだ。……お前が今すぐ変わるのは無理だろうけど、可哀想なあいつを助けるために代わる・・・ことくらいはできるだろ?」

 ペッシが尻餅をついたことで、ちょうど殴られていた同級生と視線の高さが同じになる。ばちりと合った彼の目にはすがるような懇願の色と、隠し切れない憎しみが滲んでいた。それは直接的な加害者の兄にではなく、紛れもなくペッシに向けられたもの――。

(そっか……あの子にとっては、これまで見ていただけの俺も同罪なんだね)

 気づいてしまった瞬間、がつん、と頭に衝撃が走った。比喩ではなく、あの廃材で殴りつけられたのだと思う。だが、ペッシが精神的に衝撃を受けたのも事実だ。

「ほんとに馬鹿だね……。言っておくけど、父さんに泣きついても無駄だよ。あの人はお前になんかこれぽっちも期待しちゃいない」
「そうだ、むしろギャングの息子がこんな情けない奴でがっかりしてるさ。俺が鍛えてやんなきゃな」

 エドモンドの声は新しい玩具を見つけた、と言わんばかりに弾んでいた。これまではペッシが従順すぎたせいで面白くなかったが、これからはもっと楽しめるという意味だろう。
 そのあとおまけを何発かくらって、目の前がちかちかした。ただ、ぶれる視界の先で、被害者のあの子が逃げていくのだけははっきりと見えた。

(これでいいんだ……)

 ペッシは変われない分、代わる・・・ことにした。殴られるのも馬鹿にされるのも、怖くてつらいことだったが、エドモンドと一緒になって誰かをむやみに傷つけるのは嫌だった。かといってガヴィーノのように、人の痛みに無関心でいることにも耐えられなかった。
 ペッシにとって二人の兄は憧れる相手ではなく、むしろこうはなりたくないと思う相手だったのだ。


△▼


「今のメルセデス、200は出てたな」

 アドリア海に沿って進む、トリエステとヴェネツィアを結ぶ高速道路アウトストラーダ
 異常な速さでこちらを抜き去っていく車を見送りながら、プロシュートは感心したように呟いた。呟き終わる頃にはもう、夜の闇に溶けた車両はただの光の点と化している。シートに思い切り背中を預けるのをやめて、プロシュートは心持ち身を乗り出した。

「おい、ギアッチョ。こっちももっと出せるだろ。トラックじゃあねぇんだから気張って見せろ」
「あぁ?」

 メルセデスは確かにいい車だ。それは認める。だがイタリア人としては、ドイツ車をただただ褒めて終わる気にはなれない。「うっせぇなァ、こっちだって150は超えてんだよ、クソッ」アクセルペダルをべた踏みしながら、運転席のギアッチョは不機嫌そうに吐き捨てた。

「だいたい制限は130だろーが、あぁ? ここはドイツじゃねぇんだぞ、ふざけんなッ」
「制限? ハン、最低速度の間違いだろ」

 鼻で笑ったプロシュートだったが、実際、周囲を見回しても同じくらいの速度で走っている車がほとんどだ。制限速度を真面目に守る奴なんて、ギャングでなくとも珍しい。特に、深夜の高速道路アウトストラーダは快適の一言だった。

「ったく、マジにブッ飛ばしてぇならよォ、大衆車フィアットじゃなくて、フェラーリかランボルギーニを寄こせよなァ」
「その場合、修理費だけで破産するぜ。聞いたか? 今日の仕事の報酬」
「聞いてねーよ、いくらだ?」

 興味を引かれたのか、横顔のままギアッチョの視線だけがこちらを向く。当たった仕事の金額すら把握していないことには呆れたが、暗殺者チームは所詮<パッショーネ>の一チームに過ぎない。仕事をえり好みできる立場にはなく、直属の幹部が受けてきた任務を命じられるままに粛々とこなすだけ。
 プロシュートが黙って指を4本立てると、ギアッチョは少し考えるように瞬きをした。

「……4億リラか?」
「バーカ、4000万リラだ」
「ハァ!? やっすいな! 舐めてんのか!? だんだん下がってんじゃあねぇかッ!」
「リゾットも上に掛け合ったらしいがな。殺しなんてのは生産性のねぇ誰にでもできる仕事だと、けんもほろろに突っ返されたそうだ」

 新興組織の<パッショーネ>は徹底した実力主義だ。そしてその実力の物差しは力の強さではなく、“金”がモノを言う。幹部になるのだって、結局は上納金の多寡で決まるのだ。賭博や密輸、麻薬といった利益を生み出す部門こそが花形で、暗殺なんてのは組織の中でも旨味の少ないはずれくじ。ポルポを使えばスタンド能力者は補充できるのだから、強いだけの能力者はただの兵士となんら変わりないのだ。

 プロシュートは顔も名前も知らないボスの考えを、意外なほど冷静に理解していた。もちろん、待遇に不満がないわけではなかったが、ある程度は納得したうえで暗殺者チームに身を置いていた。プロシュートが理想とする“栄光”は、大勢の部下を従えて、自分は安全なところで胡坐をかくというものではない。なんの憂いもなく、ただ金が入ってくるのを雛鳥のように待ち、そのまま穏やかに天寿を全うすることでもない。

 目標に向かって走り続けること、立ちはだかる壁を乗り越えること、常に成長し続けること。何もしなかった者にも、何かを成し遂げた者にも、時は等しく流れ、老いは確実にやってくるのだから、安穏に身を置いて精神までもを腐らせるのはごめんだ。そういう意味では、薄給なこと自体はプロシュートにとってはそこまで大きな問題ではなく、常に前線とも言えるチームに身を置くのも悪くはなかった。
 もっとも、それが一般的な価値観とは異なることも知っているので、鬱憤を溜めている他のメンバーの心中は大いに察するが。

「……チッ、納得いかねーなァ」

 ギアッチョは元々切れやすいタチだが、今の扱いに腹を据えかねているメンバーの筆頭でもある。そこへ、誰にでもできる仕事だなんて馬鹿にされれば、簡単に沸騰するだろう。折れるのではないかと思うほど強くハンドルを握りしめ、それから突然、ギアッチョはガッと頭をホーンパッドに叩きつけた。とたん、ビーッ、と遠慮のないクラクションが耳をつんざく。

「……けんもほろろに突っ返されたの……“けんもほろろ”ってよォ〜……“けん”ってのはまだなんとなく尖ってる感じはわかる。つっけんどんとか言うからな、態度がとげとげしいんだろうってのはぎりぎり想像できる……。だが、“ほろろ”って部分はどういうことだあああ〜〜ッ!? 一切何を指してんのか、これっぽっちも伝わってこねェ〜〜ッ!」 
「あ? そっちかよ」

 流石に走行中のため、ハンドルを離しはしないようだが、その分、逃げ場のないホーンパッドは何度も何度も頭突きを食らわされる。ビーッ、ビーッと断続的に鳴り響く音は、車の上げる悲鳴のようだった。

「チクショウ、舐めやがって……この言葉ァ、超イラつくぜェ〜〜“ほろろ”って音だけ聞いてりゃ、むしろ柔らけぇ音じゃあねェかッ! どういうことだ! どういうことだよ、クソッ! 尖ってんのか、そうじゃねぇのかはっきりしろや! 舐めやがって、クソッ! クソッ!」
「おい、壊すなよ。マジに修理代に消えちまう」

 口では諫めてはいるものの、プロシュートは慣れたものである。揺れる車体に身をゆだねるように、深くシートに座りなおした。

「だいたい今日の仕事もおかしいだろうがッ! なんで護衛なんかしなくちゃいけねーんだァ? オレらは暗殺者チームなのによォ〜〜」

 これから向かう先は、敵対組織の幹部をしている男の隠れ家だった。このイタリアに古くから根を張る大きな組織のひとつだが、<パッショーネ>の台頭により、今やその勢力はどんどん縮小している。実際、暗殺者チームにこの組織がらみの仕事が来るのは初めてではなかった。侵略者である<パッショーネ>を古参の組織が温かく迎え入れてくれるはずもないので、いつだって殺ることは同じだ。

「おいおいおい、ギアッチョ、ギアッチョ、ギアッチョよォ〜〜、おめーそれ、マジで言ってんじゃあねぇだろうなァ〜〜?」
「あぁ? だってそうだろうが、あっちの幹部……グリマルディとか言ったか? そいつが裏切ってこっちにつく……オレらは奴に向けられる追っ手を殺す……十分、護衛みてぇなモンだわなァ」
「チッ、ガキが。甘ぇんだよ」

 道理で、自分が引っ張り出されるわけだ、と納得がいった。やっぱり、ガキどもにはしっかり教えてやる人間が必要なのではないだろうか。どいつもこいつも他人の言うことを聞くようなタマではなかったため放っていたが、チームとして動くならある程度は指導すべきかもしれない。「リゾットがおめーに一人で行かせなかった理由がよくわかったぜ」プロシュートがため息をつくと、ギアッチョはわかりやすく眉を吊り上げた。

「ハァ? ガキ扱いすんじゃねェ! オレ一人で十分だった! むしろてめーの能力が融通きかねぇから、組む相手がオレにまわってきたんだろうがッ!」

 確かにホワイトアルバムは単体で強力な能力だし、ザ・グレイトフル・デッドが敵味方見境ない能力であるというのは事実だ。が、正直なところ組んで得なのは、老化に巻き込まれる心配がないギアッチョのほうだけだ。ギアッチョが能力を使えば周囲の温度も下がるので、プロシュート的には正直やりづらい。もとより、味方への影響など気にしたことがなく、嫌ならついてこなければいいと思っているくらいだ。

「いいか、よーく思い出せ。リゾットはこの仕事を長期任務だって言わなかったか? あぁ?」
「それはグリマルディがまだ完全に信用できるわけじゃあねぇからだろ。だからすぐには<パッショーネ>の縄張りには入れないで、あくまで奴の隠れ家で泳がせるんだ。ンなこと、わかってんだよッ」
「違ぇな。グリマルディは餌だ。いわば、ネズミ捕りに置かれたチーズってわけだ」

 裏切り者を許さないのはどこの組織でも同じこと。グリマルディは裏切る代わりに<パッショーネ>での地位と庇護を得たつもりでいるようだが、自分の組織を裏切るような人間をボスが信用するわけがない。
 プロシュートたちの仕事は、グリマルディを守ることではなく、奴を餌に向こうの組織の人間を殺すことだ。曲がりなりにも幹部という地位にあった男なのだから、当然差し向けられる追っ手もそれなりの地位か腕の者ばかり。ここで一気に潰すことができれば、さらに勢力を削ぐことができるだろう。

「オレたちは暗殺者チームだ。うちに仕事が回ってきたってことは、最終的にはグリマルディも殺るっつうことだよ。実際、死なせるなとは一言も言われてねェだろう」
「……グリマルディが死んでも、向こうの組織の自浄作用ってことか」
「フン、そういうこった、わかってんじゃあねぇか」
「……」

 ギアッチョは声を荒げることこそやめたものの、ムスッとした表情のまま唇を引き結んでいる。考えが甘かったことに対して反省を述べるわけでもないし、せっかく褒めてやったのにも関わらず可愛げのない奴だ。

「どのくらい敵が来るかわからねぇ、気を抜くなよ」
「うるせぇ、てめーはてめーの心配してろクソジジ――痛ッ!」

 殴りたいと思ったときには、既に殴った後だった。
 見事、無防備な横顔に一発拳を入れられたギアッチョは、大袈裟にわめきたてる。

「てめーふざけんなッ! 誰が運転してると思って――」
「いいから前見て運転しろ」
「クソッ! クソッ! だからこいつと組むの嫌なんだよッ!」

 そうは言いつつ、ギアッチョがガンガンと怒りをぶつけるのはダッシュボードで、こちらに向かって殴り返してくるわけではない。チームに入った当時の、誰彼構わず当たり散らしていた頃を想えば、こいつもまた成長したのかもしれないとプロシュートは思った。

「壊すなよ」

 修理代のことを考えると、リゾットは喜ぶに喜べないだろうが。

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